『掌の美術論――触覚と想像力に』、2026年7月2日発売です。みなさま、どうぞお手にとってください。[編集部]
古代美術における触覚と視覚の組み合わせ、その三つのフェーズ
美術史家による観察において、視覚が重要な感覚となることは言うまでもないが、触覚についてはどうなのだろう、と、ふと疑問に思い、この連載では第5回目の記事から19世紀末に遡って美術史家の著述における触覚についての記述を再読している。すると、「触覚」という言葉によって表される感覚の、意外なまでのヴァリエーションに、戸惑いを感じることがある。
もちろん、時代が違えば「触覚」が意味するところのものも異なるであろうことは、ある程度想像できる。だがほぼ同じ時代に書かれた美術史の学術書でも、まったく違う解釈を行なっている場合がある。前回までの記事で説明したように、ベレンソンの1896年の著書『ルネッサンスのフィレンツェ派画家たち』や、ヴェルフリンの『美術史学の基礎概念』において、触覚は対象の形を伝える線を把握する感覚だった(第5・6回記事参照)。これとは反対に、1901年に刊行されたリーグルの『末期ローマの美術工芸』では、触覚は固形物を構成する物理的な表面に対して働く。
ここではそのロジックを辿ってみよう。
リーグルによれば、物質的個体を周囲の環境から区別するのは、個体の輪郭線ではなく、表面である。私たちは個体の表面を指先で触れるかのように知覚することによってのみ、その個体が完結した統一体なのだと正確に知ることができる。リーグルはこうした、知覚によって把握可能になるような、ある個体をそれとして限定する境界的表面のことを、触覚的表面*1ないしは触覚的平面*2と呼ぶ。「かのように」というのはなぜか。それは実際に触れることが必要条件でも十分条件でもないからだ。
私たちの指先が触れることができるのは、個々の点のみだが、実際にはこの個々の点をつなぎ合わせるような思考、リーグルの言葉で言えば、「主観的な思考過程の介入を必然的に前提とする、複数の知覚の組み合わせ*3」が働いて初めて、物質は高さと幅を備え、同じ一つの表面で覆われた統一体として認識される。つまり、眼の前にある物体に触れることで、私たちがそれを独立した客体であると認識するとき、そこにはつねに、すでに思考という主体の「主観的意識」が紛れ込んでいるのだ。手で触れるだけでは十分ではないのだ。
また物理的に手で触れることは、必要不可欠の条件でもない。触覚的平面の把握を補助する「複数の知覚」のうちの一つが、視覚である。視覚もまた、個々の点として示された色を把握するのみなのだが、ふたたび思考の働きによって点と点が結びつき、面的な表象を見る者に与えるようになる。またリーグルによれば、眼は、手よりもはるかに素早くさまざまな知覚を喚起することができるので、私たちが事物の高さや幅について知覚することができるのは、もっぱら眼の働きによる。このときには、純粋な視覚だけが働いているのではない。過去に手が経験した知覚の記憶を呼び起こすことで、触覚もまた動員されることになる。ここで眼が、うまく手の記憶を喚起できれば、手で実際に触れなくても、見るだけで十分に触覚が機能するということになる。
つづきは、単行本『掌の美術論』でごらんください。
身体を通して、世界に触れ、世界と戯れ、世界を模倣し、そして世界とずれていく。そのずれの中にこそ、芸術の可能性は宿っている。
2026年7月2日発売
松井裕美 著『掌の美術論――触覚と想像力に』
四六判上製・352頁 本体価格4000円(税込4400円)
ISBN:978-4-326-85207-9 →[書誌情報]
【内容紹介】遊びが手触りや感覚を頼りに新たなゲームや楽しさを創造し、ときに新しい認識や価値を開いていくように、触覚を軸にした鑑賞の方法を提示する。触覚に関わる美術史を整理したうえでフェミニズムや歴史・記憶と芸術作品の関係など、現代的な問題意識を織り込んだ作品解説を通し、触覚と想像力が拓く遊戯場としての美術史を紡ぎだす。
》》》バックナンバー ⇒《一覧》
第1回 緒言
第2回 自己言及的な手
第3回 自由な手
第4回 機械的な手と建設者の手
第5回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(前編)
第6回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(後編)

