掌の美術論
第6回 時代の眼と美術史家の手
――美術史家における触覚の系譜(後編)

About the Author: 松井裕美

まつい・ひろみ  東京大学大学院総合文化研究科准教授。博士(美術史)。専攻は、フランスを中心とする近現代美術。著書に『キュビスム芸術史:20世紀西洋美術と新しい<現実>』(名古屋大学出版会、2019年)、翻訳にデイヴィッド・コッティントン『現代アート入門』(名古屋大学出版会、2020年)など。
Published On: 2023/6/29By

 
『掌の美術論――触覚と想像力に』、2026年7月2日発売です。みなさま、どうぞお手にとってください。[編集部]
 
 

時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(後編)

 
 前回の記事ではハインリヒ・ヴェルフリンの『美術史の基礎概念』(1915年)を取り上げながら、触覚的な価値に基づくイメージ分析について紹介した。実のところそうした方法論自体は、バーナード・ベレンソンやアロイス・リーグルといった美術史家たちが19世紀末から20世紀初頭にかけて書いたものに見られたものだった。ではこうした傾向は、どのような思想的系譜のうえに位置づけられるだろうか。
 
 思想家エリオ・フランツィーニは、その論考「感覚世界を意味論的にすること」で、18世紀フランスの思想家コンディヤックの『感覚論』(1754年)やイギリスの思想家エドモンド・バークの『崇高と美の観念の起源』(1757年)における触覚をめぐる議論のうちに、19世紀以降登場する概念である「触覚価値」の思想的起源を求めている。ただし感覚一般について論じたコンディヤックと、個別の美術作品の分析方法に焦点を絞って論じた美術史家たちとのあいだには、ひらきがある。この両者を媒介する存在としてフランツィーニがあらためて注目するのが、18世紀ドイツの思想家であるヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの1778年の著書『彫塑』である。フランツィーニによればヘルダーのこの論考は、一方では18世紀の触覚をめぐる経験論者の議論を継承するものでありながら、他方では、彫刻という特定の芸術ジャンルと触覚の関係を可視性と不可視性との関連から思想的に展開した点で革新的であった*1
 
 ただし美術史におけるヘルダーの後継者たちの議論についてフランツィーニは深くは触れず、ベレンソンやリーグルの名前を挙げるにとどめている。そこでこの記事の後半では、ヘルダーの議論を今一度確認しながら、ヴェルフィリンとベレンソンという二人の美術史家がどのようにそうした議論の後継者たり得るのか検討してみたい。なおリーグルについては次回の記事で扱う予定だ。
 
子供部屋から展示室へ――ヘルダーの彫刻論
 
 ヘルダーは『彫塑』の中で、「視覚にあるのは夢、幻で、真実は触覚のうちにこそ存在する」と述べる*2。というのも、人々が純粋に視覚だけで知覚する「現象」は、プラトンの『国家』に登場する比喩を用いて言えば、洞窟に閉じ込められた囚人が見ている「壁に映る影」と同じであるからだ*3。では、眼には見えない真実に触れるには、どうすれば良いのだろうか。囚人はどうすれば洞窟から抜け出して真実の世界に入ることができるのだろうか。
 
 洞窟から出るためにヘルダーが提案するのは、まず「子供の遊び部屋」に入ることである。子供は「視覚と触覚とをたえず結びつけ、一方を他方によって調べ、意味をひろげ、差異をきわだたせ、中身を濃くする」ことによって、「自分の最初の判断」を形成し、「操作や推論をしくじることによって真実に到達する*4」。こうして「子供の遊戯部屋こそは、数学的=物理学的教授法の最初の博物館ともいうべきもの」となる*5。それは触るかのように見ることも可能にする。赤子は最初、図形が単なる板のように見えるが、次第に「それらの像が現に生きているように見えてくる」、すなわち三次元のものとして認識できるようになると、「それらのまわりへ手をのばす」ことができると感じるようになる。つまり「夢が真実となる」のを感じるのである。このように図形を描いた人の「魔法の幻惑」によって、「盲人において触覚が視覚となったのと同様に、視覚が触覚となる*6」。
 
 大人になってもまた、私たちは「目の前に呈示された、手で触れることのできる真実のもの」を、物理的には触れずとも、触るかのように見ることができる。ここでいう「真実のもの」とは、「常にその道筋を変える美しい線、けっしてむりやり折られることはなく、けっして強引に誇張されることもなく、きらめく美しさをみせて立体を包み流れ、一度も休まず、たえずただよいつづけながら、立体のなかに型の流出を、充実を造形し、平面とか、角や尖りとはまるで無縁な、おだやかに微妙な輪郭を示す、うっとりとさせる肉体的なものを造形していく美しい線*7」である。ここで前提にされているのは、純粋な視覚により捉えられる平面ではなく、触覚により捉えられる線こそが、対象に内在する真の美しさを伝えるということだ*8
 

 そこでヘルダーは第二に、「彫像のまわりをうろつく愛好家」になることを読者に提案する。彼は視覚体験に触覚的な感覚を動員するために、それも、「あたかも暗がりのなかで手さぐりをするかのように見るために」、彫像の周りを「すべり動く」。すると「彼の目は手となり、光線は指とな」る。あたかも暗がりのなかで、という条件が示されているのは、盲人が触覚によって視覚を補うように、視覚に制限を加え、そのぶんだけ触覚を鋭くする必要があるからだ。実際には物理的に触るのではなく、触るかのように見ることをヘルダーは求めているので、視覚の働きが完全に否定されているわけではない。だが盲人のように鋭敏な触覚を呼び起こしながら見ると、「彼の心は、手と光線よりもはるかに敏感な指、像を作った人の腕と塊となって、像をおのれのなかにつかもうとする指」を持つことになる*9
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つづきは、単行本『掌の美術論』でごらんください。

 
身体を通して、世界に触れ、世界と戯れ、世界を模倣し、そして世界とずれていく。そのずれの中にこそ、芸術の可能性は宿っている。
 
2026年7月2日発売
松井裕美 著『掌の美術論――触覚と想像力に』

 
四六判上製・352頁 本体価格4000円(税込4400円)
ISBN:978-4-326-85207-9 →[書誌情報]
【内容紹介】遊びが手触りや感覚を頼りに新たなゲームや楽しさを創造し、ときに新しい認識や価値を開いていくように、触覚を軸にした鑑賞の方法を提示する。触覚に関わる美術史を整理したうえでフェミニズムや歴史・記憶と芸術作品の関係など、現代的な問題意識を織り込んだ作品解説を通し、触覚と想像力が拓く遊戯場としての美術史を紡ぎだす。

 
》》》バックナンバー 《一覧》
第1回 緒言
第2回 自己言及的な手
第3回 自由な手
第4回 機械的な手と建設者の手
第5回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(前編)

About the Author: 松井裕美

まつい・ひろみ  東京大学大学院総合文化研究科准教授。博士(美術史)。専攻は、フランスを中心とする近現代美術。著書に『キュビスム芸術史:20世紀西洋美術と新しい<現実>』(名古屋大学出版会、2019年)、翻訳にデイヴィッド・コッティントン『現代アート入門』(名古屋大学出版会、2020年)など。
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