ごはんをつくる場所には音楽が鳴っていた――人生の欠片、音と食のレシピ〈19皿め〉

About the Author: 仲野麻紀

なかの・まき  サックス奏者。2002年渡仏。自然発生的な即興、エリック・サティの楽曲を取り入れた演奏からなるユニットKy[キィ]での活動の傍ら、2009年から音楽レーベル、コンサートの企画・招聘を行うopenmusicを主宰。フランスにてアソシエーションArt et Cultures Symbiose(芸術・文化の共生)を設立。モロッコ、ブルキナファソなどの伝統音楽家たちとの演奏を綴った「旅する音楽」(せりか書房2016年)にて第4回鉄犬ヘテロトピア文学賞受賞。さまざまな場所で演奏行脚中。ふらんす俳句会友。好きな食べ物は発酵食品。
Published On: 2023/9/29By

 

フランスを拠点に、世界中で演奏する日々をおくるサックス奏者の仲野麻紀さん。すてきな演奏旅行のお話をうかがっていたある日、「ミュージシャンは料理じょうずな人が多いんですよ。演奏の合間に、そのおいしいレシピを教えてもらうこともありますよ」と。「えー、たしかに耳が繊細な人は舌も繊細そう(思い込み?)。そのレシピ、教えてもらえないでしょうか!」ということで、世界中のミュージシャンからおそわったレシピをこちらでご紹介いただきます。
料理は、その人が生まれ、育ってきた文化や環境を物語るもの、人生の欠片ともいえます。世界各地で生きる人たちの姿、人生の欠片のレシピから多様なSaveur 香りが届きますように。【編集部】

 
 

〈19皿め〉赤い甘さと白いしょっぱさ。切ることと混ぜること、楕円と丸
――ピアニスト、 オー・ソロモンが教えてくれたスイカのサラダ――

 
 

 
パリ生活15年目くらいだったか、ようやくアパート暮らしからの脱出となりモントルイユというパリ郊外の街で、大家さんの離れの小さな一軒家を借りることになった。
引っ越しが終わった翌朝、ものすごい音で目が覚めれば中庭を挟んだ大家さんの、豪奢ではないが19世紀特有の丈夫な家半分が崩れた。家自体の問題ではなく、隣接した建設中マンションの地下駐車場の掘削作業のためだ。
それから何ヶ月も立ち入り禁止となったからにはノマッド人生再開である。
 
この事をきっかけに、以前から知っていたイスラエルを離れパリに移り活躍しているピアニスト、オー・ソロモン Or Solomon が同じ通りに住んでいることがわかった。
 
パリ郊外の一軒家には往々にして離れの小屋があり、日曜大工やアトリエあるいはスタジオ的に使っている人が多い。彼のアトリエには御多分に洩れず立派なグランドピアノが置いてあり、ある日スタジオで軽くセッションをしようとなり、演奏後は音楽談義へと移る。ちょうどグラン・パレで行われたジョルジュ・ブラック展での演奏そして録音の話をしながらアペリティフの時間になり、イスラエルの白ワインと共に賞味したのが、スイカと白チーズのサラダだった。鮮やかな色のコントラストに目を輝かせ、甘さとしょっぱさのマリアージュに興奮したのを覚えている。
 

ジョルジュ・ブラック展での演奏

 
ところでスイカというとどんな形を思い浮かべるだろう?
モロッコでの滞在型制作、演奏をした際、そう、それはちょうどラマダンの時期と重なり、断食月という言葉を鵜呑みに、スーツケースに食料を入れてきた大バカ者であるわたしは、この浅はかな行為に対し、日中市場で食べ物を買う人々の熱気を目の当たりにして、羞恥心にかられた。
 
日没を待つ忍耐、そしてご馳走が並ぶ家族との食卓を嬉々として分かち合う敬虔な人々の姿。
マルシェの端っこには、古びた扉が開放されており、それは物置場といった雰囲気。そこには楕円形の、それぞれ少なくとも2kgはあるスイカでびっしり埋め尽くされていた。地面から天井までぎっしりと。
 
この年のラマダンは7月だったので、自然の甘味、自然の水分としてスイカは大活躍だ。甘味としてのデザート、そんな先入観をもっていたわたしは、スイカが前菜として出されたコルシカ島での夕餉でも驚いたものだ。同時に夏の食欲を促すために、そして瓜科で体を冷やす効果のあるスイカをまず食すことに、合点がいった。
 
この楕円形のスイカ、そういえばパリのクルド人街の食料品でも店先いっぱいに出されている姿をたびたび目にした。思い起こせばモザンビークで、タクシーの前を走るトラックには荷台いっぱいに楕円形のスイカが積まれていた。
 

 
楕円形といえばある本のタイトルを思い出す。
 
 『楕円とガイコツ』(山下邦彦 著、太田出版)
 
先達たちの音楽分析、主にこのタイトルの発想の元となる柴田南雄氏と小泉文夫氏、和声をコードとして捉える時代、近代西洋音楽からジャズ、そしてサブタイトルにある「小室哲哉の自意識」×「坂本龍一の無意識」、両者の楽曲分析からなる書物だが、そこで目に止まった一節に、柴田南雄さんがご自身の著書『グスタフ・マーラー』(岩波新書)でマーラーを論じた一文の引用があった。

「一つの音組織に二つの中心音が存在する、ということは二つの焦点を持つ楕円に譬えられるが、それはヒエラルキーの確立していない社会を反映している。」

コンテキストの前後にはマーラーの出自である「スラブ族」に関する言及があるが、「楕円」という形を想像したときに、類語のように現れる「丸」、その形を改めて想像してみた。そしてスイカは丸いと思い込んでいたわたしは、ハッとするような感覚を覚えたのだ。
 
地球は丸いという。では世界はどうだろう? 丸という形の均整とは程遠い不条理の連続だ。一連の思考の連鎖から捉えたいこと、それは普遍的形への問い、変形への肯定だ。
 

 
さて、レシピですが、書くまでもなく、材料を切って混ぜるだけ。
ただそれだけなのです。
 
日本の和え物同様、食べる直前に混ぜるのがコツ。材料はスイカと白チーズのみ。
庭に、プランターにミントがなっていたら少しちぎって加えてもいい。ただ、このサラダのためにわざわざスーパーに行ってプラスチックに入ったミントの葉を買う必要はないと思います。
 
書き加えれば、この食べ方をする地域でのミントやコリアンダー、イタリアンパセリなどのハーブ類は、往々に路地で束で売られているものである、という前提でのミントだと思うのです。といってもミントの清涼感や、粗挽きのコショウを加えた際に生まれる複雑な旨味も捨てがたいですが。
 

 
実はわたしはスイカと白チーズのこのレシピを書くのに、2年以上の時間をかけてしまいました。繰り返しますが、レシピは材料を切って混ぜるだけなのです。

なぜ時間がかかったのか。この食べ方を教えてくれた人がイスラエルを出自に持つ方であった、ということが、わたしに書くことを躊躇させたからです。
 
冒頭モントルイユという街に住む以前、オーさんと演奏したあるフェスティバルでのことです。参加したミュージシャンにはオーさん、そしてシリア人の両親をもつ、本連載2皿め「シリア人フルート奏者、ナイサム・ジャラルとつくるملفوف محش マルフーフ・マハシー Malfouf mehchi」で紹介したナイサム・ジャラル、そして8皿め、「エッサウィラのスーフィー楽師が作る魚のタジン」で登場したモロッコでレジデンスを共にした、ベース奏者のヨラム・ロッシリオがいました。彼の両親は、イタリア系ユダヤ人の母、そしてモロッコのユダヤ人の父です。のちに彼はキブツでの生活へと旅立ちます。
 
本公演となる前に、村にあるカトリック教会の中でささやかなセッションが行われました。関係者、住人も我々の演奏を聞きに四方八方からやってきます。教会にあったオルガンを奏でるオー、ガット弦を張ったコントラバスを奏でるヨラム、鳥が教会の窓から飛び立つようなフルートの音を奏でるナイサム。スパイスとして加わるウード、低音に追従するサックス。
その時、そこにはただ「音楽」という時間が流れていたのです。
 
フェスティバルが終わった後、村のアソシエーションが管理する、19世紀末に作られ約一世紀漁船として使われていた帆船に乗せてくれることとなり、仲春清々しい海へと出かけていきました。
 
モルビアン湾内海の波の上で穏やかな時間が流れていたところ、しかし船上で誰かが発した言葉によって、乗船した人間たちの、思い思いの思惑が絡まり始めたのです。応答する語彙、そこから生まれる議論、自我、出自、シオニズム、委任統治、故国喪失、パレスチナ、正義、建国、国家……声高な主張、譲らない論理、そして諦念、存在への問い。
 
演奏後の安逸なクルージングのはずが、皆各々に暗澹たる気持ちのまま港に戻った。
先に説明した演奏者たちの出自。絡み合う意見、そこから生まれる懐疑。それぞれの立場が、当時の政治や国の思惑に振り回されているその事実への憎悪。

「無限に延期された帰還のドラマ」(エドワード・W・サイード『故国喪失についての省察』みすず書房)

余儀なくされたのではなく自らの意思で祖国から離れること。余儀なく、しかし自らの意思で郷里から離れなければならないということ。エドワード・サイードは問いかける。難民という言葉と故国放棄者を使い分ける、20世紀特有の事象。

「国家崇拝は、他のあらゆる人間関係を乗っ取る傾向にある」(同上)

彼らが共に演奏することは、永遠になくなってしまった。そんな絶望にも似た焦燥感に苛まれました。
 
この出来事は一種のトラウマとなり、わたしにとって宗教というものをより一層考える機会となったはずです。その後もわたしは尊敬するミュージシャンたちとの演奏を夢み、エジプト、レバノンへと渡り、出会う人々の中でパレスチナ×イスラエルの過去、現実、そして望みなき未来を肌で感じ取ります。
 

 
お察しの通り、これはイスラエル建国にあたりパレスチナのことを考えるからこそ生じる対峙です。わたしの心の中に高い塀としてある、イスラエル。
 
わたしはイスラエルに行ったことがありません。しかし、周りを見渡せば、「ユダヤ人」という名称を携えて生きている人の数は枚挙にいとまがありません。セファルディやアシュケナージュの友人、あるミュージシャンのスタジオの、片隅に置かれたメノーラー。「父はユダヤ人だったが母がフランス人カトリックだから僕はユダヤ人になれなかった」と出自を嘆く者……etc.
 
パリ11区で、わずかな時間だったが友人となったロシア語で良寛の本を読んでいたウクライナ人。彼の引っ越しの手伝いをした際、パリを離れ、祖国へ戻るのではなく、これからイスラエルへ向かうんだ、と希望を抱き荷造りをしていました。
 
あの船上で、目の前で繰り広げられる彼らのディスカッション。彼らからみれば、わたしは部外者である日本人、ではなかったか。彼らの前で立ち往生するわたしの思考は停止状態となり、時間だけを食い今に至ります。
 
このスイカのサラダを紹介したいという気持ちは夏が来るたびにおとずれるのに、書けないという思いと共に毎秋を迎えていました。
 

 
他人の思考、書物から言葉を借りて理想を語るのは簡単です。しかし場の当事者となったとき、真に自分自身の無意味さを実感しました。そこから生まれると思っていた解決策的な思考は微塵も生まれませんでした。
 
こういった現実の中で思い出したのは、エドワード・サイードとダニエル・バレンボイムが実践として結成したオーケストラ、West–Eastern Divan Orchestra です。彼らはイスラエル・パレスチナの問題を考える際、一人ひとりが抱き感ずるどうすることもできない無力さ、あるいはわだかまりを、イスラエル、シリア、エジプト、ヨルダン、あの地の若き演奏家たちからなる楽団を結成し、ワークショップ、音楽会を行うことにより、連帯に変えようとしたのではないでしょうか。
 
活動のスローガンとなっている「共存への架け橋」、その架け橋はいみじくも「西洋クラシック音楽」であることを、隠喩として考えていくこともできるでしょう。

「ロマンティックな和解の幻想ではない、具体的な共生の姿になりうるのではないか――」
(木村元『音楽が本になるとき』木立の文庫)

地域性から生まれる食材の食べ方としての、スイカと白チーズのサラダ。
あの土地の人々が夏の暑さを癒すのに、土地になるスイカを、そして土地で食されるチーズを切って混ぜて食べた、ただそれだけのこと。しかし、世間で「イスラエルの」と紹介されるレシピを目にするたびに、心にひっかかる何かがあったのです。
そう、分断しているのはわたくし自身である、ということに気が付いたのです。
 
現在この食べ方はギリシャでも、フランスでも、そして日本でも頻繁に見るようになりました。食を介した情報の交換。そこから何かを足して、引いて、新たな食べ方もきっと生まれるでしょう。
 

 
切って混ぜるだけの料理。
混ぜるという行為のメタファーを、これからも探し続けようと思います。最後にこの一節を、思索の旅の、道標として記します。

「地球の丸い背中の上に、磁力のある卓布と星々のあいだに立つ人間の意識が存在して、この星の雨が、鏡に映しだされたということだ。
鉱物の累積の上では、夢は奇跡の一種だ。」
(アントワン・サン=テクジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫)

Or Solomon 、彼は現在ベルリンを拠点に活動している。
 

 
 


 
《バックナンバー》
〈1皿め〉サックス奏者、仲野麻紀がつくる伊勢志摩の鰯寿司
〈2皿め〉シリア人フルート奏者、ナイサム・ジャラルとつくるملفوف محش マルフーフ・マハシー Malfouf mehchi
〈3皿め〉コートジボワール・セヌフォ人、同一性の解像度――Sauce aubergine 茄子のソースとアチェケ――
〈4皿め〉他者とは誰なのか Al Akhareen ――パレスチナのラッパーが作る「モロヘイヤのソース」――
〈5皿め〉しょっぱい涙と真っ赤なスープ――ビーツの冷製スープ――
〈6皿め〉同一性はどの砂漠を彷徨う――アルジェリアの菓子、ガゼルの角――
〈7皿め〉移動の先にある人々の生――ジャズピアニストが作るギリシャのタラマΤαραμάς――
〈8皿め〉エッサウィラのスーフィー楽師が作る魚のタジン――世界の片隅に鳴る音は表現を必要としない――
〈9皿め〉ブルキナファソの納豆炊き込みごはん!? ――発酵世界とわたしたち――
〈10皿め〉オーディオパフォーマー、ワエル・クデの真正レバノンのタブーレ――パセリのサラダ、水はだれのもの――
〈11皿め〉風を探す人々――西ベンガル地方、バウルのつくる羊肉のカレー――
〈12皿め〉生きるための移動、物語――アルバニアのブレクBurek――
〈13皿め〉ジョレスの鍋――マッシュルームのスープ――
〈14皿め〉国に生きる、歴史に生きる――オスマン帝国の肉団子、キョフテ――
〈15皿め〉消される民、消える文化――ウイグルの肉包みパイ・ゴシュナン――
〈16皿め〉サン=バルテレミー島 干鱈の揚げものアクラ――民衆の音、贄を海辺で燃やす――
〈17皿め〉葡萄の葉の詰め物――シリア故郷喪失 ただここに鳴る音――
〈18皿め〉遠くのそば粉、近くのそば粉――ブルターニュから、ガレットとキカファースを――
 

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なかの・まき  サックス奏者。2002年渡仏。自然発生的な即興、エリック・サティの楽曲を取り入れた演奏からなるユニットKy[キィ]での活動の傍ら、2009年から音楽レーベル、コンサートの企画・招聘を行うopenmusicを主宰。フランスにてアソシエーションArt et Cultures Symbiose(芸術・文化の共生)を設立。モロッコ、ブルキナファソなどの伝統音楽家たちとの演奏を綴った「旅する音楽」(せりか書房2016年)にて第4回鉄犬ヘテロトピア文学賞受賞。さまざまな場所で演奏行脚中。ふらんす俳句会友。好きな食べ物は発酵食品。
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