ごはんをつくる場所には音楽が鳴っていた ー人生の欠片、音と食のレシピー 連載・読み物

ごはんをつくる場所には音楽が鳴っていた――人生の欠片、音と食のレシピ〈14皿め〉

4月 08日, 2020 仲野麻紀

 

フランスを拠点に、世界中で演奏する日々をおくるサックス奏者の仲野麻紀さん。すてきな演奏旅行のお話をうかがっていたある日、「ミュージシャンは料理じょうずな人が多いんですよ。演奏の合間に、そのおいしいレシピを教えてもらうこともありますよ」と。「えー、たしかに耳が繊細な人は舌も繊細そう(思い込み?)。そのレシピ、教えてもらえないでしょうか!」ということで、世界中のミュージシャンからおそわったレシピをこちらでご紹介いただきます。
料理は、その人が生まれ、育ってきた文化や環境を物語るもの、人生の欠片ともいえます。世界各地で生きる人たちの姿、人生の欠片のレシピから多様なSaveur 香りが届きますように。【編集部】

 
 

〈14皿め〉国に生きる、歴史に生きる
――オスマン帝国の肉団子、キョフテ――

 
 

 
パリ10区。ジョルジュ・バタイユの作品「マダムエドワルダ」の舞台となったサンドニ門周辺にはトルコ、クルドのコミュニティ地区がある。広汎にくくればグラン・ブルーバードからボン・ヌーベルも入る。この界隈には劇場にブラッセリー、ポルノ映画館に売春宿。20世紀、観劇に精をだしたパリジャンのざわめきは今も、裏通りにあるブラッセリーFloやベルエポック漂うジュリアンの存在にみられる。そして今も、この街に生きる人々の姿はスパイスの香りと伝統的な料理が混在するこの地区にある。
 
東欧食材店、インド文化センターを兼ねた雑貨屋、最近はおしゃれなブティックも増えたプティットゥ・エクリ通りには、チェット・ベイカーはじめ歴代ジャズマンが名演を繰り広げたNew Morningといったクラブや、録音スタジオなどがある。この並びにある地下のスタジオをわたしはサックスのレッスンで使っている。
 
仕事の合間に食べる、たっぷりのパセリ、レタスを挟んだ1ユーロほどのトルコの薄いピザ、ラフマジュン。あるいは凍てつく日に3ユーロですするトマトをベースとしたクルドのスープ、チョルバ。レモンをたっぷり絞って胃に入れれば午後の授業もへっちゃらだ。
 
それにしても、パリ生活初心者の頃、バゲット一本さえ買うことができず、スーパーで売っているクラッカーをかじってこのスタジオで練習をしていた18年前を思い出すと、右岸の庶民的な活気あるこの界隈の、多種多様な文化の中に今も変わらず生きている自分自身の存在が不思議な限りだ。
 

 
天気がいい日は楽器を担いでサンドニ通りを南に歩き、ジャムセッションをしているクラブがあるシャトレ界隈へと向かった。この通りは娼婦街で、エイズの問題がとりざたされた時代と比べると縮小したものの、それでも扉の前に女性たち(あるいは男娼たち)が立っている。
 
右岸この地域がトルココミュニティであるのは、服飾関係の卸問屋が多いことに由来する。トルコの繊維・アパレル製造業は低コスト・高品質で知られ、その取引先の多くがヨーロッパの企業だ。輸入される生地や大量の洋服を運ぶ男たち。彼らが働く街の活気が気持ち良い。ある日、煙草をくわえたままひっきりなしに動く男たちの後ろ姿に惹かれ、彼らの姿を撮ろうとカメラのシャッターを切った。
 
するとすかさず、ヒール高8cm、パンティとストッキングの段差が露わになったボディコン姿の女性からの罵声。「何撮ってんのよ、今の写真消しな!」わたしはすかさず笑顔でカメラを彼女に渡す。中身を確認するも彼女の姿は当然ながら写っていない。彼女の表情から少しの怒りが消え、女同志の立ち話となった。
 
近年の商売は閑古鳥だという。インターネットの普及によりひと昔前までは繁盛していたビデオ屋の前も閑散としている。この20年ほどで同地区のマクドナルドなどの前にはアジア系女性たちが昼間から頻繁に客とやりとりする姿を見るようになった。サンドニ通りに立つ彼女たちとの価格の差は明らかだ。
 
わたしは学生時代、パリ北東にある、チャイナタウンであり、マグレブ、ユダヤの人々が混在共存する地域でもあるベルビルの駅で友人を待っていた際、「いくらですか?」と聞かれたことがある。ボロを着た学生相手へのこの質問にわたしは驚いた。単にアジア人だから娼婦と間違えられたのだろうか。同時に人類このかた存在するセックスワーカーという人々を取り巻く社会というものを考えた。彼女、彼らがもつ人生の背景、国籍、生活。その存在は、決して社会の外にあるものではない。
 
労働する男たちはそんなわたしたちのやりとりを日常のこととしてやり過ごしている。撮影事件をきっかけに話し込むこととなった彼女と笑顔で別れる。
 
パリの街はどこまでも歩いて移動できる。焼きたてのバゲットを脇に抱えてパン屋を出る人の挨拶、カフェのテラスで陽を浴びる人々の笑顔、活き活きとした植物であふれる花屋、露店でコリアンダーを売るインド人、ベビーカーと老人は道の優先順位上位。街の音と匂いと空と個々人の生きる時間が共生する、パリ。
 

 
場所は変わってイスタンブール。モスクの隣に立つ塔ミナレットからアザーンが流れるこの街で、ある年の1月、録音と相成り何週間か滞在した。待っていたのはわたしが勝手に温暖という印象を抱いていたトルコとは真逆の、シベリアからの寒波で膝まで積もった雪。滞在目的はもちろん音楽をやることだが、スタジオにずっと篭っているわけではない。この街でも人々の生活の中にある匂いや習慣、音の在り方に魅了されてしまった。
 
トルコのリズムは村の数ほどある。新緑の頃になれば、ロマたちが路上で演奏するその鼓動に行く人行く人、腰をくねらせ満面の笑顔で掛け声をかけ、道に置かれた帽子に金を入れる。音楽は皆のもの。入場料を取るわけでもない街の音楽フェスティバルでは、幼子が脈打つ鼓動に忠実に7拍子のリズムを刻んで踊っている。
 
そうかと思えばスーフィー神秘主義のメヴレヴィー教団が行う宗教儀式としての音楽がある。彼らの儀式には、観光客と敬虔な教徒とでは別々のところで立ち会うことになる。
 
東京で言えば御茶ノ水のような楽器街タキシム周辺では、伝統楽器やCDの販売店が多く並ぶ。坂を上がって広場へと向かえば、ダルブッカの乾いた音の連なりに誘われ、音の出先を探して建物の中を駆け上がった。クラブの扉を開ければ外で聞くよりはるかに圧力のある音、その音の粒はまるでサウンドシャワー。ぐいぐい身体を高揚させる打楽器の一音一音はだれの体をもほっておかない。自然と腰が揺れ、拍子を取りはじめ、首は上方に傾き恍惚を求める。
 
その日の出演者が使っていたクラリネットが、わたしが演奏しているメタルクラリネットという楽器の出自であることを知った。
トルコではG管のメタルクラリネットを使うのだ。わたしのそれはmade in U.S.Aで一般的なBb管。この楽器の歴史はおそらくトルコが誇る軍楽メフテルにある。1930年代に制作されたわたしの楽器も、米国の軍隊で使われていたという。
 
録音の白眉となったのは、現地で知り合ったギター奏者のスタジオで録音した音、それはある場所との出逢いから実現した。彼のスタジオはボスフォラス海峡を挟んだアジアサイド、ウスクダラにある。
 
この街の名前がついた有名な歌があることは知らなかった。
イスタンブール滞在中、1940年生まれのわたしの父と、彼にとってはエキゾチズムを代弁するこの地で合流することになった。到着し、このスタジオに同伴した父は「ウスクダラって、江利チエミが歌ったんだよなあー」と呟いた。宿に帰ってからこの歌の由来を調べると、どうやら古くからある歌で、ただどうやらトルコという国の歌とは呼べないことがわかった。
 
それは、オスマン帝国という存在の中にあった。最盛期には北はハンガリー、南はエジプト、東はイラク、西はアルジェリアまでを領土としたオスマン帝国が存在したのはおよそ600年。人々に歌い継がれてきたそれを、現在の国名トルコに当てはめて表すことはできない。ウスクダラという歌はアーサー・キットが1953年に歌い、一気に世界中に知れ渡ることになる。この歌の話は本連載〈12皿目〉にも登場したとおりだ。
 
ウスクダラを揚々と歌う人々の姿を見ているうち、この曲のアレンジが浮かんだ。ハーモニーを変え、テープで録音するというアイデア。トルコ語の歌なので、もちろん現地の友人たちにトルコ語の発音を教えてもらう。ウスクダラという街に来なければ収録されることのなかったこの曲は、トルコでの録音でうけとった、忘れがたい贈り物となった。
 

 
さて、風光明媚な大陸渡りとなる船の上での小話をしよう。
現在のトルコは政教分離の国だ。しかしイスラム教国であると認識した父は、この国ではアルコールが禁止と思ってか、日本から焼酎持参で来た。
そしてこともあろうにボスポラス海峡を渡る船の上で悠々と酒を飲むため、ペットボトルに透明の焼酎を入れて乗船したのだ。
 
後に彼がアルコール依存症になることは想像に難くないのだが、この時、娘としての父に対して感じた、笑ってしまうような情けなさと滑稽さ、そして焦燥感の記憶は今でもしっかりとわたしの脳裏にこびりついている。イスタンブール名物サバのサンドイッチを頬張りながら酒を飲み、気持ちよく海峡の風を受ける彼の姿も今や懐かしい。
 
初めて行ったトルコレストランで出会ったメッゼと呼ばれる前菜。ナスのキャビア、葡萄の葉で米を巻くドルマ、エズメと呼ばれる各種野菜をふんだんに使ったペースト状になった和え物……etc.その数の多さとすべて食べてしまいたいほどの魅力的な香り、色、質感。茴香をベースとしたお酒ラキを片手に、小皿にもられたメッゼの数々を食す醍醐味。臓物を串焼きにし、薄いパンにはさんで頰張るいわゆるシシ(シシとはトルコ語で串の意味)。アイランと呼ばれる塩味のきいたヨーグルトの飲み物。あるセッションで知り合ったナイ奏者と、お互い持ち金が少ないがために3km歩いて食べにいった大衆食堂の煮込み料理の思い出。
 
イスタンブールでの録音を終えパリに戻ったあとは、トルコ料理と看板を打つレストランの味に落胆したものだ。
 

 
エスパスジャポンという文化センターで日本の家庭料理を教えてかれこれ10年。トルコでの興奮冷めやらぬ話を講座担当の同僚に話をしたら、「わたしの親友はトルコ人で、パーカッション奏者だよ。紹介しようか?」と、ドガンという人の家での夕食に誘ってくれた。
 
案の定、彼は前述したパリ10区のリトルトルコのレストランで演奏をしており、演奏前のリハーサルに誘ってくれた。彼が叩くリズムに心は踊る。そんな彼が作ってくれたキョフテと呼ばれる肉団子を作ってみよう。
 
日常的に食べるこの料理は、宮廷音楽をはじめとするトルコの古典音楽より、きっと大衆音楽を聴きながら作るほうが面白い。
 

パリ11区にある金属加工業組合の建物を市がリノベーションした文化施設 Maison des Métallosでのトルコ年イベントでのコンサート。中央で歌うのはドガン。
 

ドガンが参加した「はちみつとピスタッシュ」というCD付きの絵本。これはアナトリアーギリシャ、アルメニア、トルコ、クルドの歌が収録されている。
 

◆オスマン帝国の肉団子、キョフテ(6人分)
牛ひき肉(羊肉も可)600g / 食パン 1斤(耳を取る) / 玉ねぎ 大1個 / パプリカパウダー 大さじ1 / クミンパウダー 大さじ1 / カイエンペッパー 小さじ1 / 塩 大さじ1 / 胡椒 小さじ1 / オリーブオイル 大さじ1

 
【1】食パンは耳の部分を切り砕く。玉ねぎは6等分に切る。

【2】食パンと玉ねぎをミキサーに入れ混ぜる。

【3】肉と【2】、各種スパイスを加え、渾然一体となるまでよく混ぜる。

【4】小判形に形成する(形は好みで)。



【5】フライパンにオリーブオイルを敷き、片方の表面を中火で焼いて色がついたらひっくり返えし、蓋をする。4分ほどで火が通るので蓋をはずし、水気を飛ばす。

 
ソースはなしで、薄く切った紫玉ねぎやパセリを刻んで食べるもよし、今回はヨーグルトソースをかけてみた(ヨーグルト カップ1 / おろしニンニク 小さじ1 / 塩 小さじ2 / 白胡椒 小さじ1 / アネット 小さじ1 / オリーブオイル 大さじ1)。
 
一般的には食パンは入れないかもしれません。ドガン曰く、食パンを入れることにより口当たりがなめらかになり、肉のうまみに柔らかさが加わります。また玉ねぎをミキサーにかけることでより一層なめらかな仕上がりに。これはベリンダのお惣菜屋さんと同じレシピ。アレンジは自在に可能で、例えば生のコリアンダー、イタリアンパセリ、ミントなどを刻んで練り込んでも美味。
 
またハラルのお店などではケフタ用のスパイスが売られており、その中身には上記のスパイスにドライミントが入っている。

 
ドガンの奥さんベリンダは、パリ郊外でお惣菜屋さんをしている。二人の馴れ初めを聞くと、現在トルコと呼ばれる国の、表面的な印象からはうかがえない一面を知ることとなった。彼女はトルコに生まれたアルメニア人だというのだ。
 
19世紀から20世紀にかけて行われたジェノサイド、アルメニア人虐殺にどうやら彼らがフランスに生きる所以があるようだ。特に第一次世界大戦中に行われた虐殺は、オスマン帝国によって行なわれたと言われている。アナトリアという地に生き、オスマン帝国の中で他の人々と共存していたアルメニア人は、その惨事により離散を余儀なくされた。
 
しかしもちろんトルコ本土に残った人々もいる。トルコ共和国の建国者アタチュルクにより、前述のとおりトルコは政教分離となったが、それ以前からムスリムとキリスト教徒が多いアルメニア人、あるいはクルド、ユダヤの民は共生していた。しかしそのオスマン帝国時代に、政教分離を掲げない政権によるカトリック教徒となったアルメニア人への虐殺、という歴史があった。
 
第一次世界大戦の結果、オスマン帝国は分断され、この分断が何を生み出したかは、ただいま現在繰り広げられている情勢をみれば明らかだ。
東隣りのアルメニアとの対立、クルド人の独立運動、西隣りのギリシャとの領土紛争(キプロス紛争)も小アジア情勢の周辺に今もってある問題だ。
 
アルメニア人虐殺はオスマン帝国の時代のことであり、現トルコとは関係がないのか。しかし、国の変化、国名の変化にかかわらず、その出来事は歴史や人々の生活に影響を与えつづけていく。
 
ベリンダは思春期を迎えた頃、彼女の兄と共に欧州に渡ったという。彼らの両親が1970年代のその当時でも、子供たちが安全に暮らせるようにと送り出したのだという。渡航前からドガンとベリンダは恋仲だったというが、トルコを離れてしばらくすると疎遠になってしまう。しかし、運命は二人をフランスという土地でふたたび引合せ、今は一人娘と3人で生活を送っている。
 

 
ギリシャ独立戦争、エジプト・トルコ戦争、クリミア戦争…この地で行われてきた戦争は枚挙にいとまがない。
戦争とは、人間が人間を殺戮することだ。
たとえ直接的に自らが手を下さなくとも、戦争が「命を奪う」という行為であることは間違いない。
 
一方、「命を守る」ために人は移動することがある。離散するのだ。
移動は人と共に、様々な文化や食べ物を運ぶ。人間を構成する肉体も、それを構成するゲノムも、そこにくっついている菌類も運ぶ。
 
トルコでの演奏の際、友人であるドラマーに「イスタンブールのシンバルを買ってきて!」と頼まれた。ここでのイスタンブールとは、地名ではなくシンバル工房の名前だ。ドラマーにとっては一種憧れでもあるこのメーカーは、イスタンブールに生きたアルメニア人のシンバル職人がはじめたのだという。
 
今でこそ西洋音楽で頻繁に使われるシンバルだが、これはトルコ(時代的にはオスマン帝国)から伝わったものである。
イスタンブール・シンバルを含むトルコのシンバル工房はその伝統を継承することをうたい、今日も職人が完全手作業でハンマー打ちによってシンバルをつくっている。
 

 
最後に、トルコでの録音後、フランスへ戻る際に起こった移動に関する小話をしよう。
早朝のフライトのため、最後の晩は関係者がレジデンスに集まり、お疲れさま会と称して朝4時まで盃を交わした。タクシーに乗り込み空港につけば長蛇の列に楽器を背負って加わる。
 
毎回のことだが、ミュージシャンがチェックインをするときに重要なのは、まずは笑顔を心がけること。世間話を交え、穏便に楽器の機内持ち込みに成功することが目的だ。しかしこの方法があの時はどうにもこうにも効かなかった。
 
わたしはサックスとメタルクラリネット、そしてパソコンが入ったズタ袋。この三点セットが最小限かつ不可欠な荷物だ。度重なる手荷物問題を経験し、現在はこのセットで機内持ち込みは成功する。――ある音楽家は使用するペダル類を免税店のプラスチックの袋に無造作に入れるという方法を教えてくれたものだ。そうすれば私的荷物ではなく「お土産」扱いになるのだとか。
 
さて、問題は同行したミュージシャンが楽器屋の連なるあのタキシム界隈で購入したセミアコースティックのウードだ。
本来ウードは反響板となるそのボディーが半卵形であるからにして楽器自体の軽さに反してオブジェクトとしての存在感が大きい。購入したものはアンプを通して音が出る構造なのでボディーは真っ平ら。よって機内持ち込みサイズをクリアしている。ただし、楽器を入れるケースはそれがたとえソフトケースだとしてもやはり見た目には大きく映る。
 
案の定チェックインカウンターの男性とのやりとりは、雲行きが怪しくなった。
ただでさえ演奏後夜通し宴会の果てに空港にたどり着いたものだから、こちらの頭は朦朧としている。引きつる笑顔は次第に眉間に皺がよる表情へと変わり、様々な交渉を試みるもことごとく却下。
 
今までも幾度となくこういった場面に立ち会い、交渉の結果、最終的な決断はパイロットの判断に委ねられるのだがそれも期待できない状態。するとウード奏者はおもむろにケースから楽器を取り出し、空になったケースにコートやフラジャイルではない荷物を詰めた。裸になった楽器をかざし、「この繊細な楽器をこのまま預け荷物とします」と言う。
 
さすがに向こうが根負けし、ケース自体は預け荷物として、姿を露わにした楽器はそのままの姿で機内持ち込みすることになった。
 
搭乗手続き口のスタッフのその驚いた表情。「機内でコンサートをされるのですか?」座席へ着く際には乗客から演奏してくれとの要望。我々の厳しい表情はやがて笑顔を取り戻した。
 
実際にこういった機内での演奏に立ち会ったこともある。
ウォッカ片手に真っ赤な顔のミュージシャンが機内で奏でるバイオリンの音色。それに合わせておそらくイスラム教徒であろうスカーフを被った女性の掛け声。こういう場面は往々にして機体後方で発生するのが常。というわけで、人々の移動と共に楽器も移動するという実例でした。
 

 
個々人のイメージが作り上げるトルコとはどのようなものだろう。国の名前には過去の歴史や個人のイメージが影のように貼り付いている。国の名前が変わっても、政権が変わっても、歴史はつながっている。しかし見える影は人によって異なるだろう。
 
国々が行う政治は未来を、世界を、より良き方向へと導いているだろうか。導いているかもしれないし、導いていないかもしれない。今わかっていることは、今この世界に生きる人類に課せられた絶望は、ただいま現在の世界の姿だということだ。
 
ではこの絶望を前にわたしたちは何ができるのか、国の変容の中で個という存在はどんな可能性を持っているだろうか。
 
答えは明確だ。
今日食うものを他者と分かち、今日在る音楽の震えを誰かと共有することだ。
 
ドガンはフランスで地に足をつけ音楽を奏でている。目下ジャズ界のみならず話題になっているアルメニア人ピアニスト、ティグラン・ハマシヤンもその一人。
彼らはそれぞれの出自と歴史を内包したアイデンティティーを携え、音楽という命をつないでいる。
 

ドガンではないが、〈7皿目〉に登場したピアニストStephane Tsapisとトルコ人歌手Gülay Hacer Torukによる、Yagar Yagmurという歌。

 


 
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About The Author

なかの・まき  サックス奏者。2002年渡仏。自然発生的な即興、エリック・サティの楽曲を取り入れた演奏からなるユニットKy[キィ]での活動の傍ら、2009年から音楽レーベル、コンサートの企画・招聘を行うopenmusicを主宰。フランスにてアソシエーションArt et Cultures Symbiose(芸術・文化の共生)を設立。モロッコ、ブルキナファソなどの伝統音楽家たちとの演奏を綴った「旅する音楽」(せりか書房2016年)にて第4回鉄犬ヘテロトピア文学賞受賞。さまざまな場所で演奏行脚中。ふらんす俳句会友。好きな食べ物は発酵食品。