憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第35回 フーゴー・グロティウスの正戦論

10月 03日, 2023 長谷部恭男

 
「憲法学の散歩道」書籍化第2弾『歴史と理性と憲法と』が2023年5月1日に発売となりました。第32回までの連載分に書き下ろし2章分が加わり、長谷部さんならでは散歩道を進むと意外かつ奥深い世界が開けてきます。単行本のあとがきはこちらでご覧いただけます[⇒【あとがきたちよみ:『歴史と理性と憲法と』】]。ぜひお立ち寄りくださいませ。
 
 
 グロティウスは1583年、オランダのデルフトの名家に生まれた。若くして才能を開花させたグロティウスは、11歳でライデン大学に入学し、1598年にはフランスへの外交使節に加わって、オルレアン大学から法学博士号を授与されている。
 
 当時のオランダは、1568年に始まったスペインに対する独立戦争のさなかにあった。スペインとの休戦は1609年に実現したが、独立が正式に承認されたのは1648年のウェストファリア条約でのことである。
 
 1603年、シンガポールでポルトガルの交易船サンタ・カタリーナがオランダの商船団の攻撃を受け、戦利品としてアムステルダムに曳航された。船と積荷は競売に附され、東インド会社に当時のイングランド政府の国家予算に匹敵すると言われるほどの莫大な利益をもたらした。東インド会社は、若きグロティウスに、会社の行動の合法性と正当性に関する意見書の作成を依頼した。
 
 オランダは、スペインに対する独立戦争を遂行する一方、ポルトガルに対抗して東インド交易に参入しようとしていた(当時スペインとポルトガルは、スペイン国王がポルトガル国王を兼ねる同君連合の状態にあった)。絹織物、陶器、胡椒類等の交易は莫大な富をもたらした。
 
 国家間の武力衝突だとしても、開戦の正当な根拠が問われることになるが、そもそも独立が正式に承認される前のオランダは国家なのかという問題がある。
 
 当然、ポルトガルはそれを否定するであろう。すると東インド会社の行動は、ただの海賊行為なのだろうか。またポルトガルは東インドとの交易の独占を、先占、教皇による勅許、慣習等を根拠として正当化していた。このポルトガルの主張を突き崩す必要もある。
 
 東インド会社を弁護するグロティウスの議論は『捕獲法論』、さらには『戦争と平和の法』に結実した。彼の基本的な戦略は、第一に、東インドにいたる外洋がいかなる国家の管轄にも服さない自然状態にあるとした上で、第二に、そこで妥当する自然法が何かを明らかにすることであった。自然法の内容が明らかとなれば、その帰結として東インド会社の行動が正当化され得るかが確定する。
 

 
 グロティウスの議論の特色は、自然状態で妥当する自然法の内容が、キケローの哲学およびローマ法大全、とりわけ『学説彙纂』に示されたローマ私法と一致すると主張する点にある。
 
 グロティウスによると、人間には、他の動物と違い、同類の他の人間と共に平穏に生きようとする欲求、つまり社会性(sociality)がある*1。この社会性こそが正義の源泉であり、このため人は、他人のものに手を出そうとせず、他人のものは本人に返し、約束は守り、誤ってもたらした損害は賠償し、刑罰の意義を理解する*2。これらは正しい理性(recta ratio)の指令であり、自然の創造主である神の指令でもある*3
 
 自然法が正しい理性の指令であるとの観念は、キケローに由来する*4。キケローは『国家について』で、ラエリウスに次のように語らせている*5

じつに、真の法律とは正しい理性であり、自然と一致し、すべての人にあまねく及び、永久不変である。……法律はローマとアテーナイにおいて互いに異なることも、現在と未来において互いに異なることもなく、唯一の永久不変の法律がすべての民族をすべての時代において拘束するだろう。

つまり、懐疑主義者カルネアデスの主張とは異なり*6、法律は人が利害にもとづいてこしらえるもので、国によってもまた時代によっても種々さまざまであるというわけではない。
 
 キケローは、また、「法律とは自然本性に内在する最高の理性であり、なすべきことを命令し、その反対のことを禁止する」とも述べる*7。正しい理性は、グロティウスにとってもキケローにとっても、人間と神とをつなぐ絆であった*8
 
 したがって、何が自然法であるかは、法務官の布告や十二表法にではなく、「人間の自然本性に求めなければならない」*9。このため、まずは正しい理性にもとづいて何が人間の本性から導出できるかを考察すべきであるが、それに劣らぬ意義があるのは、そうして得られた結論が「いにしえの賢者やもっとも称賛されるべき諸民族によって承認されていること」の確認である*10
 
 ここに示された、高く評価されるべき人々のコンセンサスから何が導き出されるかについて、グロティウスは『戦争と平和の法』の序説で次のように述べる*11

異なる時代と場所における多くの人々が同じく真実だとする事柄は、自然の原理にもとづく正しい演繹であるか、あるいは普遍的な合意だと考えられる。前者であれば、それは自然法であり、後者であれば、それは万民法である。……確実な原理から正しく帰結し得るものでないとすれば、それは自由で任意の意思にもとづくものに違いない。

「自身の判断を歪めない限りは誰であっても否定のしようがないほど確実」で、「あざむくことのないわれわれの知覚と同程度に自明」*12の始源的原理から演繹されるのであれば、それは間違いなく自然法である。それについては当然、普遍的合意も存在するであろう。
 
 しかし普遍的合意はあるが始源的原理から演繹されたわけではないものもある。それは人々の自由意思にもとづいて設定されたもので、万民法にとどまることになりそうである。逆に言えば、自然法と言い得るためには、普遍的合意があるだけでなく、それが自明だと言い得なければならない*13
 
 ただし、自明の始源的原理から演繹されたものではなくとも、「自然法であるとすべての、あるいはもっとも開化された民族によって一般に信じられているのであれば、高い蓋然性でそれは自然法であると結論づけることができる」*14
 
 そうすると誰が「いにしえの賢者やもっとも称賛されるべき諸民族」あるいは「もっとも開化された民族」として参照されるべきかが問われることになる。グロティウスが参照するのは、まずは古典古代のギリシャ・ローマの人々であり、その中でもとくに、ローマの哲学者キケローと、ローマ法大全に登場するローマ法学者たちである*15
 
 グロティウスによると、人間にとって自己保存は本能的に好ましい*16。そのため、自己保存のために必要な財物も好ましいものである。そこから、戦争はおよそ自然法に反する厭わしいものであるわけではないとの結論が導かれる。むしろ生命・身体の維持および生きる上で有用な財物の獲得・保持という戦争の目的は自然なものであり、必要に応じて実力を使うこともそれ自体が自然に反するわけではない*17
 
 とはいえ戦争は、自然法に反するものであってはならない。他者の権利を害する実力の行使、社会にとって厭わしい実力の行使は、正しい理性に反する*18。各自の自己保存の権利以外何らの法も権利も存在しないホッブズの自然状態と異なり、グロティウスの自然状態は社会性を帯有する人間によって構成され、自然法によって規律されている。そこでは自己保存のための実力行使も、自然法に適うものでなければならない*19
 
 ホッブズにとって自然状態は、国家権力の正当性を基礎づけるための理論的想定であった。他方、グロティウスは、私的団体たるオランダ東インド会社が東南アジアでポルトガルを相手に戦争を遂行することを正当化するために、自然状態に関する議論を構築した*20。グロティウスの自然状態論は、人々の活動全体を統括する国家の存在やその出現を前提としていない。
 
 グロティウスの言う正義、つまり自然法は、他者の権利を害しないことにある。「不正義の本質は、他者の権利の侵害にほかならない」*21。それはアリストテレスの言う矯正的正義にあたる*22。配分的正義とも、卓越性を目指す人格の陶冶とも無関係である。害してはならない他者の権利が何か、権利を侵害されたときいかなる対処が認められるかは、キケロー哲学とローマ法を参照することで判明する*23。なぜそうなのか、という疑問はもちろんあり得るが。
 

 
 ローマ人の正戦に関する観念は、キケローの『国家について』*24と『義務について』*25で、またリウィウスの『ローマ建国史』*26で描かれている。ローマ人の戦争開始は、軍事祭官(fetiales)の儀式による相手方への通告という形式的手続を踏むと同時に、相手方への復讐、撃退、原状回復請求、賠償請求という実体的な正当理由の存在を必要とした。
 
 グロティウスは『捕獲法論』で、ローマ法の正戦の観念を借用する。まず彼は、「正当な根拠なく遂行される戦争は不正である」とのキケローの言明を援用する*27。正当な戦争は権利を執行するものでなければならない*28
 
 問題となる権利は4種ある。第一は自己防衛の権利である。キケローが言うように、「殺人が正当である機会がもしあるとすれば、少なくとも、加えられた暴力が暴力でもってはねつけられる、ああいった機会こそは、正当なばかりか無くてはかなわぬもの」である*29
 
 第二の根拠は、自己の財産を守ることである。ここでの「財産property」は、名誉をも含む*30。第三の根拠は、契約等にもとづく債務の履行請求である。リウィウスは、「これら財物を先方が引渡さず、為さず、償わずにおり、これら財物は引渡され、為され、償われるべきであった」ことを戦争の正当な根拠として挙げる*31。第四に、相手方の発話あるいは行為による権利侵害が根拠となる*32
 
 これらの4種の正当化根拠は、国家による戦争についても、それ以外の戦争、つまり東インド会社のような私的団体による戦争についても妥当する*33。グロティウスは次のように指摘する*34

自然は、いかなる人間の私戦遂行の権利も妨げることはない。したがって、東インド会社がこの権利の行使から除外されるとは誰も主張しないであろう。個人に関して正当なことは、団体として行動する多数人についても同様に正当なのだから。

 グロティウスのローマの正戦論への依拠は、実体だけでなく、手続にも及ぶ。『捕獲法論』の第8章で、グロティウスは、開戦の手続に関するキケローの言明を援用する*35

公式の原状回復要求、あるいは、事前の通告ないし宣言を経ないいかなる戦争も正当ではない。

いずれかの手続を踏む必要があり、両方の手続を踏む必要はない*36。つまり、権利の請求がなされたにもかかわらず履行がされない場合、宣戦布告は必要ではない。とりわけ、相手方がすでに敵対行為を開始している場合、宣戦布告は不要である*37
 
 ところで権利の履行は、通常の社会であれば、訴訟を通じて実現される。しかし、そうした状況が整っていない場合もある。キケローは『ミロー弁護』で、次のように言う*38

もし我々の生命が何かの待ち伏せに、追剝なり対立する者なりの暴力に、また武器に出くわしたなら、身の安全を確保するためにどんな手だてを用いようと、それはすべて真っ当なものだということだ。

つまり司法的救済が利用できない状況では、自力救済が認められる。グロティウスは、それは『学説彙纂』も認めるところだと指摘する*39
 
 かくして東インド会社のポルトガルに対する武力行使は、正戦とされる余地があることとなる。もし東南アジアへの交易路が自然状態にあるのなら、そこではキケローやローマ法大全の描く自然法が妥当し、ポルトガルによる権利侵害に対しては、司法的救済の途がない以上、自力救済としての戦闘行動が正当化され得る。戦争の正当性に関する自然法は国家だけでなく、私的団体による戦争についても妥当する。そうなれば、サンタ・カタリーナとその積荷が正当な戦利品と評価される余地もある。
 

 
 次の問題は、東南アジアへといたる外洋は自然状態にあるのか、そこにおけるポルトガルのいかなる行為が自然法に反する行為にあたるかである。
 
 グロティウスは、『捕獲法論』の第12章にほぼ相当する『海洋自由論』において、東インドにいたる外洋も、またそこを航行する権利も、先占(occupation)によってポルトガルに帰属することはないとの議論を展開する。彼はそのために、自然状態は自然法によって規律されてきたこと、外洋は今日にいたるまで自然状態にあること、そして自然法によれば、自然状態にあるものは何者によっても排他的財産として獲得されることはないと主張する。
 
 このため、東インドにいたる外洋がポルトガルに独占的に帰属するとの主張は自然法に違背し、オランダの航行および交易の権利を侵害しており、結論として、オランダにはポルトガルに対して正戦を遂行する根拠があることとなる*40
 
 グロティウスはまず、海洋がいかなるものであるかを考察する。それは古来、誰のものでもない(in iure nullius)とか共有物(commune; common)と呼ばれてきた。ただ、共有物ということばが、古典期と今とでは異なる意味で使われることに注意する必要があると、グロティウスは言う。今では共有物は、複数人によって同時に、かつ排他的に私有されるものを言う。しかしかつては共有物とは、誰の排他的支配にも服さないものを指していた*41
 
 ヘシオドス以来の古代の詩人たちの描く黄金時代では、財物はすべて、誰の排他的支配にも服さないものとして描かれている。そこには排他的な私的財産権はなく、すべてのものはすべての人が自由に使用できた。すべては人類全体の共有財産であった。キケローが、「個人のものが存在するのは自然の本性によっているのではない」と述べる通りである*42
 
 しかし、食べたり飲んだりといった使用によって費消されてしまうもの、ある者の使用によって他の者の使用には適さなくなるものもあることから、排他的な財産権が生成し、それは衣服などの動産に、さらには耕地のような不動産にも及んだ。そして、身体による物理的使用を起源として排他的な財産権が生成したことから、先占(occupation)が財産権発生の根拠とされた。劇場の座席が誰もが座れるものであっても、すでに誰かが座った席はその者の席とされるように*43。さらにキケローが述べるように、先占だけでなく、戦勝による獲得や、法律・協約・協議・分配を通じて、「自然の状態では公共のものであったもののうち、たまたま各人の手に入ったもの」が生じた*44
 
 しかし、先占によっては誰も排他的に獲得することができないものもある。空気のように、そもそも物理的に先占があり得ないものもそうであるが、それに加えて、キケローの言う「人間の共同使用のために自然が生み出したあらゆるもの」、他人に対して「損失を被ることなく提供できるもの」がそれで、キケローは流水を例として挙げている*45。自然の本性からして排他的財産となり得ないものは、ウルピアヌスが指摘するように、本来すべての者に開かれているべきである*46
 
 空気は、物理的に先占があり得ないだけでなく、人間の使用のために自然が生み出したものでもある。海も同様である。それは限りないもので占有も消費も不可能であり、かつすべての者の使用に供されるべきものである*47
 
 したがって、東インドにいたる航行路をポルトガルが先占によって排他的に専有することはあり得ない。同じ理由によって排他的専有権が教皇によって勅許されることも*48、ポルトガルが時効や慣習によって排他的専有権を取得することもあり得ない*49
 
 ポルトガルによるオランダの航行・交易の妨害は万人にとって使用可能な外洋からの違法な排除であり、オランダは少なくとも損害賠償請求権を有する*50。そして自然状態にある外洋に司法的救済はあり得ない以上、オランダ東インド会社による自力救済が正当化される。サンタ・カタリーナとその積荷は、正当な戦利品である。
 

 
 ところで、東インド交易からオランダを排除するポルトガルの行動はオランダ人の自然権を侵害するが、それと同時に自然法に違背する客観的に違法な行動でもある。グロティウスは、自然状態においては、この自然法違背を処罰する権利はオランダ人を含めて誰にもあるという一風変わった主張もしている。
 
 違法行為を処罰するのは、通常は国家権力である。ところで社会契約論によれば、国家は自然状態にあった人々が結集し、その権利を国家に譲渡または委託して作り上げたものである。グロティウスも国家権力の正当性について、こうした立場をとる*51
 
 そうであれば、違法行為を処罰する国家の権限も、もともと自然状態で各人が保有していたもののはずである。誰であれ、自分が保有していなかったものを他人に引渡すことはできないのだから*52
 
 だとすれば、自然状態にあり続ける外洋では、ポルトガルによる違法行為を誰であっても処罰することができる。つまりオランダ人は、自身の権利が侵害されたことを根拠としてポルトガルを処罰できるし、また自然状態で誰もが保有する権利にもとづいてポルトガルの自然法違背行為を処罰することもできる。
 
 これは、後にジョン・ロックが『統治二論』において主張した「大変奇妙な教説very strange doctrine」、つまり自然状態においては「すべての人間は自然法の侵犯者を処罰する権利をもち、自然法の執行者となる」という教説に等しい*53
 
 グロティウスがこの議論を展開した『捕獲法論』は1868年にいたるまで刊行されなかったことから*54、ロックが参照したはずはなく、両者の一致は偶然であると主張されることもある*55。しかしグロティウスは、同様の議論を1625年に刊行した『戦争と平和の法』でも展開している*56。ロックが後者を参照した可能性は否定できない。
 

 
 グロティウスが『捕獲法論』で展開した正戦論は、東インド交易を独占しようとするポルトガルに対抗して交易に参入しようとしたオランダ東インド会社の武力行使を正当化する議論である。先行するポルトガルに対して、彼は、外洋は変わることのない自然状態にあって誰による先占も不可能だとし、ポルトガルの行動を自然法違反として非難した。他方、後発のイングランドに対しては、グロティウスは、現地の支配者とオランダとの契約を根拠にオランダの優越的地位を確保しようとしている*57。クライアントにとって都合の好い議論をその場その場で展開している気味がないではない。
 
 ロバート・フィルマーは『戦争と平和の法』を批判する文脈で、当初はすべてのものが共有され、すべての人は平等だったとのグロティウスの議論を誤りとして、次のように言う。

この誤りは、モーセの伝える歴史を知らないために詩人や首長の物語に追随しがちな異教徒のローマ法学者(authors of the civil laws)の場合は憎むべきものとは言えない。しかし聖書を読んだキリスト教徒がすべてのものの共有やすべての人の平等を夢想することは、ほとんど許すべからざる過ちだ*58

 また、スコットランドのセント・アンドリューズ大学教授であったウィリアム・ウェルウォドは、『海洋自由論』を批判して、グロティウスは典拠として「昔の詩人、弁論家、哲学者、そして(趣旨を歪曲された)法律家」を援用しつつ、「海と陸とは当初、すべての者の共有物で誰の専有物でもなかったとするが」、聖書によれば、神はつねに財物を共有としたわけではないとする*59
 
 他方、デイヴィッド・ヒュームは、私有財産制度の起源が共通の利益の感覚に立脚する人々の暗黙の合意(convention)にあるとした際、この議論がグロティウスの示唆したものであると指摘している*60
 
 グロティウスが亡命先のパリで1625年に刊行した『戦争と平和の法』において本格的に展開した、戦争を国家間の「決闘」として捉える議論からすると、『捕獲法論』で彼が主張した正戦論は、少なくともその実体法としての側面に関する限り、相当程度、価値が低下する。いずれの国家の権利主張が正当であるかは、結局のところ、戦争という「手続」においていずれが勝利するかによって決着がつくことになるからである*61。軍事大国にとっては、きわめて都合の好い議論である。
 
 グロティウスの議論は、今日においても意義を失ってはいない。いわゆるアイヒマン裁判で、イェルサレム地方裁判所は、自然法の侵犯者は誰でもが処罰することができるとのグロティウスの理論を援用して、ユダヤ民族が新たに結集して建国したイスラエルにジェノサイドの犯人を処罰する権利がなぜあるかを説明している*62。外洋は人類全体の共有財産であり続けるとの彼の議論は、南シナ海のほぼ全域を特定の国家が専有することが認められるかという現下の問題と無関係ではない。他方、ウェルウォドが指摘するように、海や空を人類全体の共有物と想定することで、「人の生来の悪性から管理がぞんざいとなり、紛争の種を生む」リスクも無視すべきではないであろう*63。地球レベルの環境問題を引き起こす要因の一つである。
 
 彼の議論が現代においてもなお、「高く評価されるべき人々」の承認を得ることができるのか、そして誰がそもそも「高く評価されるべき人々」なのか、それが今後も問われることになるのであろう。
 

*1 Hugo Grotius, The Rights of War and Peace, Book I (Richard Tuck ed, Liberty Fund 2005) 79−80 [Prolegomena.VI].
*2 Ibidem 86 [Prolegomena.VIII].
*3 Ibidem 150 51 [I.I.X.1]. 他方、『捕獲法論』では、第一の自然法として自身の生命を守ること、第二の自然法として自己保存にとって有益なものの獲得・保持が許されることが挙げられている(Hugo Grotius, Commentary on the Law of Prize and Booty (Martine Julia van Ittersum ed and trans, Liberty Fund 2006) 23 [II])。仲間に害悪を加えないこと、他者の保持するものを奪おうとしないことは、第三および第四の自然法である(ibidem 27 [II])。See Richard Tuck, Philosophy and Government 1572−1651 (Cambridge University Press 1993) 172−79.
*4 Benjamin Straumann, Roman Law in the State of Nature: The Classical Foundations of Hugo Grotius’ Natural Law (Belinda Cooper trans, Cambridge University Press 2015) 47.
*5 キケロー『国家について』岡道男訳(岩波書店、1999)123−24頁[III.33]。
*6 Grotius (n 1) 79 [Prolegomena.V].
*7 キケロー『法律について』岡道男訳(岩波書店、1999)193頁[I.18]。
*8 Straumann (n 4) 48.
*9 キケロー(n 7)192頁[I.17]。See also Grotius (n 3) 17 [I].
*10 Grotius (n 3) 17 [I].
*11 Grotius (n 1) 112 [Prolegomena.XLI].
*12 Ibidem 111 [Prolegomena.XL].
*13 Straumann (n 4) 63.
*14 Grotius (n 1) 159 [I.I.XII].
*15 Straumann (n 4) 76 and 78.
*16 前注3で参照した『捕獲法論』の言明(Grotius (n 3) 23 [II])を見よ。
*17 Grotius (n 1) 182−83 [I.II.I.3]. 『戦争と平和の法』におけるグロティウスにとって、自己保存もそのための財物の獲得・保持も、正しい理性に照らして、それ自体に価値があるわけではなく、どちらでもよいもの(adiaphora; indifferent things)である。ただし、人間の生存本能に照らせば、好ましいものではある(Straumann (n 4) 114−15)。
*18 Grotius (n 1) 184 [I.II.I.3].
*19 Straumann (n 4) 136.
*20 Ibidem 139.
*21 Grotius (n 1) 121 [Prolegomena.XLV].
*22 アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』高田三郎訳(岩波文庫、1971)181−85頁[第5巻第4章]。
*23 Straumann (n 4) 123−29. フランツ・ヴィーアッカーは、グロティウスにとって、古代法[ローマ法]は、彼の信奉する自然法を実証し典拠を与えるものであったとする(Franz Wieacker, A History of Private Law in Europe (Tony Weir trans, Clarendon Press 1995) 229 and 237)。
*24 キケロー(n 5)82頁[II.31]および125頁[III.35]。
*25 キケロー『義務について』高橋宏幸訳(岩波書店、1999)148頁[I.36]。
*26 リウィウス『ローマ建国史(上)』鈴木一州訳(岩波文庫、2007)86−89頁[I.32]。
*27 Grotius (n 3) 102 [VII]. キケロー(n 5)125頁[III.35]参照。
*28 Grotius (n 3) 50 [II] and 102 [VII].
*29 Grotius (n 3) 103 [VII]. キケロー『ミロー弁護』山沢幸至訳(岩波書店、2000)350頁[IV.9]参照。
*30 Grotius (n 3) 103 [VII].
*31 Grotius (n 3) 103 [VII]. リウィウス(n 26)87頁[I.32]参照。
*32 Grotius (n 3) 103 [VII].
*33 Grotius (n 3) 104 [VII].
*34 Grotius (n 3) 302 [XII].
*35 キケロー(n 25)148頁[I.36]。
*36 Grotius (n 3) 149 [VIII].
*37 Ibidem 150−51 [VIII].
*38 Ibidem 49 [II]. キケロー(n 29)350頁[IV.10]参照。
*39 Grotius (n 3) 49 [II]; see Digest IX.2.4.ここでガイウスは、「自然の理性は危険に対して自己を防衛することを許す」と述べる。
*40 Straumann (n 4) 149.『海洋自由論』は、スペインとの休戦交渉を有利に進める意図から、1609年に匿名で刊行された。
*41 Hugo Grotius, The Free Sea (David Armitage ed, Liberty Fund 2004) 20−21 [V].
*42 Ibidem 21. キケロー(n 25)138頁[I.21]参照。
*43 Grotius (n 41) 22−23 [V].
*44 Ibidem 24. キケロー(n 25)138−39頁[I.21]参照。
*45 Grotius (n 41) 24−25 [V]. キケロー(n 25)158−60頁[I.51−52]参照。
*46 Grotius (n 41) 25 [V]. See Digest, VIII.4.13.ウルピアヌスはここで、「私的な合意にもとづいて海に地役権を設定することはできない、なぜなら海はその本性からして万人に開かれているから」とする。
*47 Grotius (n 41) 25. 後にジョン・ロックも「大海」は「人類の偉大な共有物として残っている」とし、全人類の共有物であり続けるとしている(ジョン・ロック『統治二論』加藤節訳(岩波文庫、2010)329頁[II.30])。
*48 Grotius (n 41) 52 [10].
*49 Ibidem 53 [11].
*50 Straumann (n 4) 159−60. グロティウスは根拠として、海での漁業権侵害に関するウルピアヌスの言明(Digest, XLIII.8.2.9)を挙げるが(Grotius (n 41) 59 [13])、ウルピアヌスはそこで差止めによる救済を否定している。
*51 Grotius (n 3) 35−38 [II].
*52 Ibidem 136−37 [VIII]; Grotius (n 1) Book II 1021 [II.XX.XL.1]. ここでグロティウスが暗に言及しているのは、「誰であれもともと自分が保有していた以上の権利を他人に引渡すことはできない」とするウルピアヌスの言明(Digest, L.17.54)である。See Straumann (n 4) 209.
*53 ロック(n 47)301頁[II.8−9]。
*54 『捕獲法論』が19世紀半ばまで公表されなかった背景については、さしあたり、長谷部恭男『憲法の階梯』(有斐閣、2021)第8章「国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄」151−55頁参照。
*55 Richard Tuck, The Rights of War and Peace: Political Thought and the International Order from Grotius to Kant (Oxford University Press 1999) 82.
*56 Grotius (n 1) Book II 972−73 [II.XX.IX.1−2] and 1021 [II.X.XL.1]. Straumann (n 4) 210はタックの見解に同意しているが、筆者は同意できない。
*57 Straumann (n 4) 212.
*58 Robert Filmer, Patriarcha and Other Writings (Johann P Sommerville ed, Cambridge University Press 1991) 209. もっともグロティウスは、『創世記』I:28で、神は海の魚、空の鳥、地上の獣を全人類の共有財産としてアダムに与えたのだとする(Grotius, ‘Defence of Chapter V of the Mare Liberum’ in Grotius (n 41) 83)。つまりモーセの伝える歴史はグロティウスの海洋自由論と矛盾しない。こうした聖書理解に関しては、さしあたり、長谷部恭男『神と自然と憲法と──憲法学の散歩道』(勁草書房、2021)第16章「消極的共有と私的所有の間」参照。
*59 William Welwod, ‘of the Community and Property of the Sea’ in Grotius (n 41) 66. ウェルウォドは、『海洋自由論』の真の意図は、イギリスの領海でオランダ人が漁業を行う権利を正当化することにあると推測していた。外洋を航行する自由がすべての人にあることは当然で、論証の必要などないからである(ibidem 65−66 and 74)。
*60 David Hume, An Enquiry Concerning the Principles of Morals (Tom L Beauchamp ed, Clarendon Press 1998) 98 [Appendix 3.8 note]. See Grotius (n 1) Book II 426−27 [II.II.4−5]. これは財産制度を調整問題(co-ordination problem)の解決として説明する議論である。
*61 この点については、さしあたり、長谷部(n 54)参照。戦争が司法的救済の途がない状況における代替的紛争解決手段(ADR)なのであれば、訴訟において確定した判決が「正しい結論」を示すものとして扱われるのと同様、戦争の結果も「正しい結論」を示すものとして扱われる必要がある。さもなければ、紛争が「解決」されることはない。
*62 Attorney-General of the Government of Israel v Adolf Eichmann, Judgment of the District Court of Jerusalem, 12 December 1961, (1968) 36 International Law Reports 18, 27−28, 51, 56−57. See Straumann (n 4) 232.
*63 Welwod (n 59) 66.

 
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第33回 わたしは考える
第34回 例外事態について決定する者
 
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憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。山を熟知したきこり同様、憲法学者だからこそ発見できる憲法学の新しい景色へ。
 
2023年5月1日発売
『歴史と理性と憲法と 憲法学の散歩道2』
長谷部恭男 著

3,300円(税込) 四六判 232ページ
ISBN 978-4-326-45128-9

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b624223.html
 
【内容紹介】 勁草書房編集部webサイトでの好評連載エッセイ「憲法学の散歩道」の書籍化第2弾。書下ろし2篇も収録。強烈な世界像、人間像を喚起するボシュエ、ロック、ヘーゲル、ヒューム、トクヴィル、ニーチェ、ヴェイユ、ネイミアらを取り上げ、その思想の深淵をたどり、射程を測定する。さまざまな論者の思想を入り口に憲法学の奥深さへと誘う特異な書。
 
本書のあとがきはこちらからお読みいただけます。→《あとがき》
 
 
連載書籍化第1弾『神と自然と憲法と』のたちよみはこちら。→《あとがき》
 

長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第8版』(新世社、2022年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。