《ジェンダー対話シリーズ》第1回 隠岐さや香×重田園江: 性 ―規範と欲望のアクチュアリティ(前篇)
「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。まずは、隠岐さや香、重田園江両氏を迎えてのトークイベントを前後篇2回にわたってお送りします。
「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。まずは、隠岐さや香、重田園江両氏を迎えてのトークイベントを前後篇2回にわたってお送りします。
『マイマイ新子と千年の魔法』は、大人たちへの(過剰な)信頼によって支えられていた子供たちの象徴的な宇宙における価値が、大人たちの実態(大人たちへの失望)によって失墜しかけた時、その価値を、子供たちが自らの行為を通じて再定位しようとする物語だと言えるでしょう。そして、子供たちにそのような再定位を促し、可能にしたのが新子という存在でした。自身もまた空想好きである新子は、「マイマイ新子」というフィクションの内部で、現実の中でフィクションがもつ役割や機能を担っている人物だと言えます。つまりこの物語は、現実とフィクションンとの関係を示す物語であり、フィクションが現実のなかでどう機能するかということについての物語です。
いつまでも寒さがのこって衣替えがしきれずにいたから、さくらの季節だという気もあまりしていなかったのだけれど、すこし時間ができたからとサイェと散歩にでると、つぼみを見た記憶もないまま、もうかなり花が咲いていた。六分、七分、というところか。
もはやインターネットのない世界は、仕事でも日常生活でも考えられません。そんな時代のジャーナリズムならではの新しい問題として、「忘れられる権利」という言葉とともに考えてみます。[編集部]
まだ肌寒い春のヘント(ベルギー)の広場、小学生の女の子が声をかけてきました。授業の発表で使えるよう、日本語の挨拶を録音し、写真を撮らせてほしいとのこと。「こんにちは!日本から来ました。ヘントはとてもきれいな街ですね。」終わって先生たちと記念撮影。
物語の流れにはほぼ無関係な、ほんの短い時間、画面の片隅を通過するだけの小さな船でさえ、資料にあたって調べられた、実際にその時、その場所を通った船の再現である、と。この逸話は、この作品における当時の再現へのこだわりが、史実に忠実というレベルをはるかに逸脱したものであることをよく表していると思います。しかし、『この世界の片隅に』という作品は、ドキュメンタリーでも実話でもなく、まぎれもなくフィクションです。
温かい春の夕方、街角でりすが「何かちょうだい」とねだってきた。手持ちの行動食ピスタチオをあげたけど、ちょっと塩分が強かったかも。ごめんね、ママりす! コロラド州ボールダーにて。
犯罪報道をめぐり、いろいろな角度から難題が突きつけられます。前回の被害者匿名報道につづき、今回は加害者報道をとりまく事例を考えてみます。[編集部]
門扉を開けて敷地に一歩はいると、ジンチョウゲのかおりだ。ほんの背丈ほどの扉なのに、外には洩れてこないのは不思議だと、いつもおもう。
インターネット上の個人情報についてはこんな裁判例が積み重なっていたのですね![編集部]