ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』30

2月 01日, 2016 藤田尚志
第四節(§89 情動の本質:熱狂とは何か(ベルクソンとカント)

「熱狂enthousiasme」は、語源的に言えば、言うまでもなく「神の内にen theos」あること、神がかりの状態を意味していた(『二源泉』第三章では実際にそのようなディオニソス的意味の「熱狂」も用いられている)。しかし、上でも確認したように、「ヴィジョンや恍惚や脱我」は、ベルクソン的な行動の神秘主義にとっては副次的な役割を果たすにすぎない。では、ベルクソンの考える熱狂の本質とは何か。

まず第一に、熱狂が単なる「情動」概念以上に、動的行動の本質的な構成要素たりえるのは、それが「進歩」や「前進」といった歴史‐政治的・社会的・道徳的・宗教的な領域における具体的な行動を、そしてその行動を世界へ広めていく人々のつながりを、明確に指示するからにほかならない。

まさにこの熱狂によってこそ、この道徳が一部の人々に受け入れられ、彼らを通してまた世界中へ広がっていったのである。のみならず、「進歩progrès」と「前進marche en avant」とは、ここでは、熱狂それ自身と渾然となっている。この進歩や前進を自覚するためには、自分の目指している目標とか、それへ近づいていく完成状態とかを思い浮かべるには及ばない。その熱狂の歓喜のうちには安楽の快楽以上のものがあると言えばそれで十分であり、快楽のほうは歓喜を含んでいないのに、歓喜のほうは快楽を包んでおり、自分のうちへ吸収してしまいさえする。(I, 1018/49)

熱狂の歓喜(動的行動)/安楽の快楽(静的行動)という対立に戻って言えば、「進歩」や「前進」といった能動的で創造的な行動は「熱狂それ自身と渾然となっているse confond […] avec l’enthousiasme lui-même」のに対し、圧力の道徳においては、社会は「それ自身と共にavec elle」諸個人を引き連れていくと言いつつ、決して憧憬の道徳におけるように一体化・溶融にまでは至らず、分裂した諸個人をたがに嵌めるように結束させるだけにとどまる。

次に、そのような熱狂は特定の教義、特定の表象によって凝集力を高め、運動のテンションを維持するのではなく、むしろ強調されるのは、教説のレベルでの異質性と、「精神的な共通性=共同性」である。

だが、これ[第一の情動]と、大火[incendie]さながらに魂から魂へ、際限なく広がっていく[se propage]熱狂との間の隔たりは大きい。後者の情動はむろん展開されて一個の教説を形づくるさまざまな観念となりうるし、精神的な共通性[communauté d’esprit]以外いささかも互いに似たところのない幾つもの違った教説にすらなりえよう。それでも、感動が観念に先立っているのであって、観念に後続するのではない。(I, 1026/59)

問題となるのは、「魂のとった態度」、魂の「形相」であり、愛の動態、方向性を孕んだ運動である、と先に述べていた。常に現在属している共同体(の信奉する教説)をはるかに超えていく精神、これはごく小さな神秘主義者たちのセクト、秘密結社的共同体に限られたものなのだろうか。むしろこれこそが、安定維持装置としての社会的紐帯とは逆に、ダイナミックに社会を前進させていく、共同体のもう一つの本質、明かしえぬ本質なのではないか。

この点でもまた、ベルクソン最大の敵カントとの対比はきわめて教えるところが多い。『二源泉』は動的行動を規定する「ある気分を生ぜしめるinduire un état d’âme」(I, 1025/57)ことはいかにして可能かについての探究であるが、カントの歴史‐政治的・宗教的著作においても、「心術の革命Revolution in der Gesinnung, révolution dans l’intention」の必要性、ヨーヴェルの言葉を借りれば「精神状態を変えるchanger un état d’esprit」必要性が強調されている。カント晩年の著作『諸学部の争い』(1798年)は、大学を構成する上位学部(神学部・法学部・医学部)と哲学部の間に生じている理論的係争を調停する哲学的試みであり、第二部は法学部と哲学部の「争い」を論じている。当時の哲学と法学が共通に関心を寄せていたのは、「人類に恒常的な進歩は可能か」という問いであった。カントは第二部第5節「人類のそのような道徳的傾向を証する我々の時代のある出来事について」で、そのような進歩があったと確信させてくれる「歴史の徴候Geschichtszeichen, signe historique」として、ある出来事を提示する。1798年という時代から想像されるように、それはフランス革命をめぐる出来事なのだが、ただしフランス革命それ自体ではない。進歩の歴史的徴候をなす出来事とは、革命へのフランス民衆の直接的参加ではなく、ドイツの民衆が「観客」として革命の進行を眺めるその眺め方だというのである。

その出来事とは、大いなる転変というこのゲームが問題となっている際に、公的に己の意中を打ち明ける観客の考え方にすぎない。このゲームにおいては、一方の党派の勝負師に味方して他方の党派の勝負師に反対する態度表明がなされているが、この態度はきわめて普遍的で、しかも個人的利害を脱しているので――なぜならこの態度表明が彼らにとって甚だ不利益なことになるという危険を冒しさえしているのだから――それは、少なくとも素質としては、(その普遍性によって)人類全体のある共通の性格と、(その私利私欲を離れた無関心性によって)ある道徳的な性格とを証明しているのである。そしてこの性格は、ただ単に、より善きものに向かっての進歩への期待を可能にするだけではなくて、現在が進歩の能力に課する限界内においては、それ自身がすでにこの進歩にほかならないのである。(§6)

そして、人類の道徳的な性格・傾向を徴候として示す出来事、すなわち革命に対して人類が無私を貫いて抱く態度表明、それをカントは「熱狂」と呼ぶ。

それでもこの革命は、あらゆる観客(彼ら自身は直接この勝負事に巻き込まれてはいない)の心のうちに、熱狂[Enthusiasmus]に近い、憧憬に満ちた共感を見出すのだ(強調カント)。そしてこの共感は、その外的表現が危険を伴わずにはいなかったのだから、したがって人類における道徳的資質以外のいかなる原因も有することはできない。(ibid.

仏訳に準じて「憧憬に満ちた共感 sympathie d’aspiration」と訳した Teilnehmung dem Wunsch nachは、もう少し原語に近いニュアンスを求めるならば、「願望のこもった態度表明(参与) prise de position (participation) selon le désir」ということになるだろうが、いずれにしてもベルクソンの熱狂に非常に近いと同時に決定的に異なる。どういうことか。

カントの熱狂概念は、無関心の関心(そんなものがもし存在するとすれば)、無私の態度表明(そんなものがもし存在するとすれば)という縊路に建てられているが、しかし、この概念は、ベルクソンが「功利性」から区別しようとする「効力」、利害関心から抜け出した生の運動に近いと言えなくもない。また、「能動的にそれに参加するほんのわずかな目論見もなしに」(p. 87)眺める観客には依然としてカント的な「距離のパトス」(距離が道徳性を保証する)があり、常に状況の中に飛び込んで情動を直接的に伝播していくベルクソン的動的行動者の「無媒介への意志」とでも言うべきものとは完全な対照をなしているように見えるが、しかし、ベルクソンにあっても、神秘家の声を聴きつつ目覚めない人々はいるのだった。カント、ベルクソン、どちらも「熱狂」のうちに、社会的紐帯に基づかない社会、共同体なき共同性――この友愛の論理が、ナショナリズムを背景に台頭しつつあった同時代のファシズムとまったく相容れないものであることは言うまでもない――を見てとっているが、動的行動を目の当たりにしてその行動に参加しなかった者たちの意識の転換をもってして、歴史の徴候だという意見にベルクソンは与するだろうか。「観客」の存在意義をどう見るだろうか。問いは開かれたままである。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。