連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』31

9月 06日, 2016 藤田尚志

私たちはここまで、ベルクソンの著作のうちに、人間の行動の未規定性を確認してきた。筋肉努力から、深層の自我の表現としての自由行為へ(『試論』)、循環的で意識的な注意から、生への無意識的な注意へ(『物質と記憶』)、人間の技術によって延長されたますます増大する未規定性へ(『創造的進化』)。『二源泉』において、未規定性は、意識的な知性が人間生活の中に導き入れてしまう不安(inquiétude)として現れる。ベルクソンはすでにしばしば、知性が行動(知性はまずもって行動のために組織されていたのであった)から思弁へと移り行く過程で、知性が自らに提示してしまう偽の思弁的な諸問題を強調していた。無の問題(空虚と欠如の憑依)や、無秩序の問題は、限定された実践的な諸要請の、思弁の平面への移行に関わる偽の思弁的な諸問題に他ならない。持続の真正な直観はそういったイメージを霧散させてくれる。だが、『創造的進化』においてベルクソンがそれらの偽の問題を告発していたとすれば、『二源泉』のベルクソンはさらに先まで進んでいる。彼はそこで、まずは生の運動を延長し創造的な生の飛躍に参与するためにつくられた人間の知性がいかに生に対抗して自らを転倒させる傾向を孕んでいるかを示す。知性は、有用で生死に関わる行動のために可能的なものの地平を開き、未来をプロジェクトとして捉える。だが、そのとき知性は壊乱する権能として自らを現し、リスクの可能性を指摘し、それによってあらゆる人間的試みには失敗の可能性があることを示す。過去から未来へと向かいつつ、知性は死を意識する。この死の意識は、個人を、集団の収斂する運動から孤立させる。知性は、閉じた社会における諸習慣の本能的な抑制と手を切ると同時に、大混乱へ、さらには破局にまで進みうる不安を引き起こす。要するに、知性とはエラン・ヴィタルの一つの「方向=意味」(sens)であり、かつまたいわばその「逆方向=錯誤」(contre-sens)でもある。秩序であると同時に、その秩序をかき乱すものでもある。知性は未規定性を、したがって自由を、しかしということは不安をも引き起こす。進歩を、と同時に未聞の危険をも、創造を、と同時に完全な破壊をもまた可能にする。生を容易にする道具を製作する手は、また同時に、生を破壊する戦争機械をも生み出す。合理的知性が熱狂的な非合理的一貫性をもって疾走する方向を修正することは可能か。可能であるとすれば、それはいかなる方向であるのか。これらの問いに答えることが、「結びの考察」の意味=方向である。

では、どのように先に進めばよいのか。一つのことだけは確かだ。知性は、無限に延長可能な知覚によって延長されるときにしか、真に不安をもたらすものとはならない。無限に延長可能な知覚とは、『二源泉』が「この広漠たる身体」(ce corps immense)と呼んだものにほかならない。ここで、『二源泉』の身体論のほうへ向かいつつ、私たちは最後の一歩を踏み出すことになる。

これまでの章でも再三「身体性」「物質性」の重要性を強調してきたが、十九世紀フランス哲学の一大潮流としてのspiritualisme français、フランス唯心論、その頂点とも言うべきベルクソン哲学において、「身体」は一般に、「物質」「空間」「言語」などと同様、〈否定的〉な契機を構成しているとされる。したがってジャンケレヴィッチが言うように、ベルクソン哲学の中で、「身体概念以上に深遠で豊かな観念はない」というのが事実だとすれば、それはまさにこの特異な〈否定性〉のゆえにほかならない。仮に「唯心論的実在論ないし唯心論的実証主義」と呼ばれるベルクソン哲学において身体概念が重要な役割を果たしているのだとすれば、その特異な〈否定性〉の内実を探ることによって、フランス唯心論の伝統全体における身体概念の見かけ以上の重要性、さらには理論的な豊穣さが明らかになるはずである。

しかし、これらの狭義のベルクソン研究ないし19世紀フランス哲学史研究という一見してアカデミックな問題設定の奥には、次のようなより一般的で、より深く哲学的な、有機的な関連をもった三つの問いが潜んでいる。

« Hoc est enim corpus meum »、「これは私の身体である」(Ceci est mon corps)。『イデーン』第二巻のフッサールやメルロ=ポンティによって固有身体の現象学が大規模に展開されるはるか以前、身体について思考することは、常にすでに固有身体について思考することではなかったか。現代人の思考を規定する「無意識の形而上学」の奥深くに、受肉(incarnation)の神学が、« sôma, sêma »のギリシャ的身体観を携えて潜んでいるのではないか。これが第一の問い、すなわち固有身体(corps propre)の問題あるいは所有(propriétéの問題と呼ばれるべきものである。

« partes extra partes ». 固有身体と外的物体(corps extérieurs)を分かつ相互不可貫入性(impénétrabilité)は、常に分かちがたく触覚(le toucher)と結びついているのではないか。たしかに、少なくともプラトンの『パイドン』(65 b-e)以来、哲学は、ideaに関わる限りにおいて、theoriaに関わる限りにおいて、直観に、すなわちいかに逆説的に聞こえようとも、〈視覚を用いることなく見ること〉に関わってきた。しかし、それは常に、視覚が触覚の「比喩」と考えられる伝統においてのことである。デカルトからロック、コンディヤック、ディドロまで、いわゆるモーリヌクス問題の中心にあった形象は、光に触れる器官としての視覚、というものではなかったか。これが第二の問い、すなわち知覚(perception)における触覚のヘゲモニーの問題である。

最後の第三の問いは、技術(technè)・補綴(prothèse)の問題と呼ばれるべきものだ。眼鏡をかけねばほとんど盲目と同じ人、義肢がなければ歩けない人、さらには生命維持装置がなければ生き続けられない人にとって、「身体」とは何か? 「固有身体」とは、補綴とは何か? この問いはきわめて現代的なものであるとともに、途方もなく古い、人類の揺籃期とともに始まるものでもある。すでにして直立歩行が人類の脳にもたらした革新的な変化をアンドレ・ルロワ=グーランは語っていなかっただろうか?肉体、身体器官(organe)自体がすでに有機的な道具ないし機械であるのならば、道具ないし機械は人工的な肉体ないし身体器官であることになるのではないか?

以上のように、固有身体の固有性=所有性を否定するのではなく、深く問い直すこと、知覚と直観、触覚と視覚の関係を深く問い直すこと、技術の問題、補綴の問題を深く問い直すこと、これからこの第四部第3章の最初の部分を通して、ベルクソン的な身体概念の根本特徴を検討していく中で、我々はこれらの問いが順々に現れてくる様を見ていくことになる。そしてまさにこれらの問いこそが、コンディヤックからメーヌ・ド・ビランを経てベルクソンへと至る流れの中で、身体概念の特異な〈否定性〉に関して、感覚論・観念学(イデオロジー)と唯心論との間に行われた決定的な「遺産継承」、不実さと忠実さを併せ持つ継承の実態を明らかにしてくれるはずだ。

したがって当面の目的は、ベルクソンの身体概念が彼の哲学体系全体においていかに重要な位置を占めるかということを指摘し、簡潔にであれ論証すること、その論証過程で出てくる論点がいずれも、フランス唯心論において見出される身体概念の位置づけそのものを再検討する契機となるのではないかと問うことである。

もちろんここでの目的(『二源泉』読解)を考えれば、第一の課題、すなわち身体概念の重要性ということに関してはただごく大まかに幾つかの根本特徴を指摘することしかできないし、第二の課題すなわちフランス唯心論の再検討ということに関しても個別の哲学者・思想家を取り上げる代わりにごく大まかな研究の方向性を示すことしかできない。しかし、ベルクソンの身体の哲学の集大成でありながら、これまであまりその文脈で注目されてこなかった『二源泉』を、身体論という観点から取り上げるというだけでも、すでにベルクソン研究へのささやかな寄与となるのではないだろうか。

 

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。