連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』31

9月 06日, 2016 藤田尚志
§92. 「二つの身体」論(théorie des deux corps ―― 固有身体(corps propre)の所有・固有性(propriété)の問題

ではまず、『二源泉』後半の二つのパラグラフを読むことから始めよう。第三章の「悪の問題」と題されたセクション、そして第四章の「機械化と神秘精神」と題されたセクションに見出されるパラグラフである。というのもこの二つの節は、言ってみれば一筆書きのように、『物質と記憶』における精神と身体の関係、知覚と記憶の分析から、『二源泉』における神秘主義哲学と心霊科学の必要性までの道筋を、したがって仔細に読めばベルクソンの思想全体の軌跡を要約しているとも言えるものだからだ。

まず、「悪の問題」と題されたセクションである。ここでは有名な「二つの身体」の理論が展開されている。通常我々が身体と見なしているのは、単に現前している(présent)のみならず活動的で行動的(agissant)な身体である。通常「固有身体」と呼ばれるこの身体は、「最小の」(le plus petit)、「極小の身体」(le corps minime)、「内部にあって中心を占めている、比較的不変なその身体」(ce corps intérieur et central, relativement invariable)、実際に運動が生じる場としての有機的に組織された身体にすぎない。このような身体は、我々が動き回り活動するまさにその場にあるという意味で「行動(action)の身体」ないし「現働的な行動(action actuelle)の身体」ということができる。しかしながら、とベルクソンは言う、自らが触れ得る地点で止まるような人間身体は「小身体」にすぎない。我々にはもう一つの身体がある。

有機的に組織された(ほかならぬ直接の行動を目指して組織された)我々のきわめて小さな身体(notre très petit corps organisé (organisé précisément en vue de l’action immédiate))の表面が現働的な運動の場所だとすれば、有機的ならぬ我々のきわめて大きな身体(notre très grand corps inorganique)は、将来とられうる行動の、また理論的に可能な行動の場所だと言える。

このような身体は、「可能的行動(action possible)ないし潜在的行動(action virtuelle)の身体」、あるいはそのような身体は我々が知覚するあらゆるもののうちに実際に存在するという意味で単に「知覚(perception)の身体」と呼ぶこともできるだろう。

我々の身体とは、意識がそれに自らを適応させていく物質である以上、この身体は意識と広がりを等しくし、我々に知覚される一切のものを包み、星辰にすら達している。(DS 274/1194)

我々の意識が知覚する一切のものを含み、星々にすら達しているような身体――この「意識」という語は『創造的進化』において与えられた最広義の意味において理解されなければならない――、「大身体」(le grand corps)、さらには「極大身体」(le plus grand corps)、その中心部を占める極小身体がほんのわずか位置を変えれば、それに応じてたえず変化し、ときには根本的に変化する「この広漠たる身体」(ce corps immense)、将来とられうる行動の、また理論的に可能な行動の場所としての非有機的な我々の巨大な身体がある、とベルクソンは言うのである。

これが、『物質と記憶』に由来する、ベルクソンの「二つの身体」理論の概要である。特に、巨大な身体に関しては、一見すると夢想的・浪漫的に映るかもしれない。だが、この理論の帰結を正確に聴き取るなら、私たちはそれに無関心でも無関係でもいられないだろう。ベルクソンがこの理論を想起させ要約しているのがまさに「悪の問題」と題されたセクションであったことは、どうでもいいことではない。

現在フランスのベルクソン研究を代表する一人であるヴィエイヤール=バロンは、「おそらく、ベルクソンには身体についての最も正確な現象学があるのであって、それはメーヌ・ド・ビランやメルロ=ポンティのそれに比べることもできるだろう」と言っているが、このように言われているのは彼の著書のまさに「二つの身体」と題されたセクションにおいてである。ベルクソン的な身体の現象学とは、二つの身体の現象学にほかならない。

ここで誤解してはならないのは、ベルクソンは決して潜在的次元だけを称揚しているわけではない、ということだ。ベルクソンは、彼の哲学的営為の最後の瞬間に至るまで、決して行動を否定しない。彼が強調するのは、むしろ知覚とは潜在的行動なのだということ、純粋潜在性ではなく、潜在的なものの現働化のプロセスである。知覚器官が発達すればするほど、行動の可能性の幅は広がる。時間的にはより長いスパンで予見し行動を準備することが可能になり、空間的にはより遠い距離にあるものに対して影響力を及ぼすことが可能になる。知覚はすでに行動の萌芽であり、逆に行動はどこまでも知覚的要素と切り離すことができない。ベルクソンにおいては客観的な知覚と主観的な行動といった区別は成立しない。ベルクソン哲学とは、生命のプラグマティズムであるからだ。したがって岩田文昭が『フランス・スピリチュアリスムの宗教哲学』という優れた仕事の中できわめて正当にも強調しているように、ベルクソンの「努力」概念には現実的次元のみならず、潜在的次元があるのであり、ベルクソンの言う「努力」とはまさにこの知覚という潜在的行動の顕在化・現実化のプロセスにほかならない。知覚の本質を構成するもの、言い換えれば知覚を記憶や想像力から区別するものは、ベルクソンによれば何よりもまず「知覚が身体に刻印する、まさに生まれつつある運動の総体であり、この運動は、自動的に開始される行動によってその知覚を完成する」という点である。

もう一つ注意しておかねばならないのは、「二つの身体」をつなぐ「努力」という潜在的行動の顕在化プロセスは、完全に精神的ないし非物質的なものではありえない、ということだ。そこには常にすでに身体的な要素が入り込んでいる。というよりもむしろ、我々が通常「固有身体」といった場合に想定される堅固さ、不可侵入性のニュアンスをこそ弱めて考えるべきなのであって、「固有身体」、「極小身体」自身が、顕在化のプロセスなのであるーーこれが先に「固有身体の固有性=所有性を否定するのではなく、深く問い直すこと」と言っておいた解釈の方向性である。言い換えれば、固有身体が知覚や機械によって延長されるのではなく、身体自体がすでに延長なのである。これは、『創造的進化』の読解において「延長の法」と名づけておいたものであり、(非)有機的生気論の中核をなすものだ。

次の引用に移ろう。「機械主義と神秘主義」(Mécanique et mystique)は『二源泉』第4章のタイトルでもあるが、『二源泉』全体を締めくくるセクションのタイトルでもある。このセクションの最後から二つ目のパラグラフからの引用である。ベルクソンはここで、精神と身体の双方に関して世間に流通している先入見を斥け、事実の示す姿にできる限り肉迫することで真の「身体の役割」――これは『物質と記憶』第一章のサブタイトルであった――を示そうとしている。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。