連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』31

9月 06日, 2016 藤田尚志

概要を辿っておこう。「身体は、もとよりわれわれが行動する手段だとして、それはまた知覚作用を妨げるものでもある」(Le corps est bien pour nous un moyen d’agir, mais c’est aussi un empêchement de percevoir)。身体の役割は、第一義的には有用な行動の遂行であるが、まさにそのために、現在の状況を照らし出すのに役立たない記憶ともども、当面我々に用のない対象の知覚は意識から閉め出さざるをえない。身体は、知覚であれ記憶であれ、現実化すれば行動の妨げとなるおそれのある一切のものを、潜在的な状態に引き止めておくことをその本質的役割とする、とベルクソンは言う。

身体とは、言ってみれば、一種の濾過装置ないしは遮蔽幕にほかならない。それは、現実のものとなれば(en s’actualisant)行動を妨げるおそれのある一切のものを、未発の状態に(à l’état virtuel)引き止めておく働きをする。身体は、必要な行動を利するように、前方を直視することを助け、その代わり気の赴くままに左右を見回すことを妨げるのである。それは、われわれのために、広漠たる夢の領野のうちから現実の心理的生を摘み取ってくる。(DS 335-336)

身体は、いわば競走馬の目隠したる遮眼革のように、必要な行動を利するように我々が前方だけを直視するべく助け、と同時に気の赴くまま左右を見回すことを妨げるもの、行動・決心を鈍らせかねない無益な記憶、トラウマ的な記憶や不毛な可能性はすべて捨象することで、パフォーマンスを向上させ、より有用な行動の遂行を目指すものだということだ。身体とは、通過する液体の純度を上げるフィルター(filtre)のようなものであり、フレーミングによってイマージュの強度を高めたスクリーン(écran)のようなものである、とベルクソンは言う。

『二源泉』最終章が提示するこの両義的な身体、いわば「パルマコン」としての身体は、実際のところかなりの問題を含んでいるように見える。第一に、濾過装置ないし遮蔽幕としての身体は、結局のところ抽象的な広がりをもたぬ点のような存在であってもよく、肉としての存在は限りなく希薄である。身体の議論が一足飛びに大脳の議論に移行できるのも、身体の役割・機能にのみ着目しており、身体の実存、肉の存在論的な厚みといったものを度外視しているからだ。さらに、ベルクソンの言葉を用いれば、「その性質上、人間の行動に関わりのない対象を、人間の知覚から除外することを機能とする特殊な装置」(dispositifs spéciaux dont la fonction est d’écarter de la perception humaine les objets soustraits par leur nature à l’action de l’homme)はそもそも、身体的・フィジカルなものなのか、身体の制限を受ける意識のうちにある精神的・メタフィジカルなものなのかという問いすら宙吊りにされたままである。

しかし、これらの点が問題含みに見えるのはなぜか、と問いを逆転させる必要がある。これらの問題性は逆説的にも、我々が依然として「身体」を何か堅固なものとして見る観点、固有身体の固有性に固執する観点、フィジカルなものとメタフィジカルなものとを截然と区別する観点に立っているということを示しているのだ。ベルクソンは大脳を「生への注意の器官」(organe de l’attention à la vie)と呼んでいるが、ベルクソンの身体論が指し示す方向性を忠実にたどるのであれば、極小身体も極大身体も含めて、そもそも身体全体が、生への注意の器官=道具、つまりオルガノンであるということになるはずだ。そして詳述する暇はないが、まさにこの観点からすれば、すなわちベルクソン的なオルガノロジー――言うまでもなくカンギレム的な意味での――の観点からすれば、「神秘主義」の哲学も、陽の目を見る前に破門されてしまった「心霊科学」(« science psychique »)――ベルクソン流の「精神分析」と言えないだろうか?――も、ある種の「外」(un « en dehors »)、ある種の「彼岸」(un « au-delà »)に関する異常知覚(perceptions anormales)を対象とする科学として、その存在の正当性が、保証されるとまでは言わずとも、少なくとも検討を要するものとされる。さらに、引用した文の直前部分に付された小さな註は、二つの点で注目に値する。

(1)我々は本書の前のところで、なぜ視覚(la vue)のような感官はさらに遠くまで届くのかを示した――それはこうした道具(son instrument)ではこの種の拡張(extension)が不可避であるからである。179頁を見よ。また『物質と記憶』の第1章全体を参照のこと。

まず視覚という感官を知覚がさらに遠くまで届くための「道具」と考えている点、それからこのような道具に必然的、「不可避的」に備わる拡張をはっきりと指摘している点である。この二つの観点は、先に言及した「二つの身体」、すなわち極大身体と極小身体がある程度まで視覚と触覚という二つの知覚に対応するということを含意しているように思われる。視覚とは時間的・空間的な予見を通して行動を準備するスペキュラティヴな知覚だとすれば、また触覚とは行動の直接的な契機となるべき対象との接触およびその接触が惹起する抵抗に関わるという意味でプラグマティックな知覚なのだとすれば、視覚はすぐれて極大身体的な知覚であり、触覚はすぐれて極小身体的な知覚だということになるのではないだろうか。ここで我々は二つ目の論点、すなわち知覚・直観の問題に移っていくことになる。

 

§93. 視覚に対する触覚優位の顛倒――知覚と直観の問題

次の引用を見てみよう。先ほどの小さな註が参照していた箇所である。

知性作用も、視覚の場合と同様である。眼が造られたのも、やはり、われわれがそれへ働きかけうる対象を照らし出すためでしかなかった。しかも自然が、必要な精度を備えた視覚を手に入れるためには、その効果がそれの対象を越え出てしまうような仕掛けに頼るほかはなかった。われわれは星に働きかけることはできないが、しかも星が見える。これとも同様、自然はわれわれが直接に手を触れる物質を理解する力だけではなく、それとともにまた、それ以外のものの潜在的な認識と、それを利用する同じく可能的な能力をも、われわれに与えざるをえなかったのである。(DS 1120/179)

ここでベルクソンは「我々が手を触れ操作するべき物質を理解する能力」(la faculté de comprendre la matière que nous manipulons)と、操作可能な物質以外のものの「潜在的な認識と、それを利用する同じく潜在的な権能」(la connaissance virtuelle du reste et le pouvoir non moins virtuel de l’utiliser)とを対比しつつ、後者の例として――ただし唯一の特権的な例として――視覚を挙げている。知性の働き(intellection)も、視覚の働き(vision)も、ベルクソンにとってすべては行動のためにある。知覚もまた、常に行動・作用に結びついたものだ。私は行動するために知覚するのであり、行動・作用に役立ちうるイマージュを選択するのである。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。