虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第24回「ここ-今」と「そこ-今」をともに織り上げるフィクション/『君の名は。』と『輪るピングドラム』 (3)

9月 13日, 2017 古谷利裕

 
 

荻野目苹果の「運命」

物語の中心に高倉家の三人がいるとはいえ、前半部分において最も重要な人物は苹果だと言うべきでしょう。苹果は、アニメのヒロインとして他に類を見ない、とてもオリジナリティの高いキャラクターです。苹果はまず、高校教師の多蕗に異様に執着する人物として現れます。彼女はアブジェクティブな存在として造形されていて、初登場の場面はトイレですし、カレー(≒排泄物)を頭から被ったり、スカンクのオナラを浴びて臭い匂いを帯びたり、多蕗への惚れ薬をつくるためにカエルが分泌するぐちゃぐちゃの粘液を顔で受け止めたりします。同時に、目的に向かって障害に負けずに突き進む力強さが強調されています。

物語の進行により次第に、彼女の多蕗への異常とも言える執着は、彼女自身の欲望によるというよりも使命感に近いものであることが分かってきます。苹果は、多蕗と結ばれる未来が書かれた運命日記を持っており、日記の記述の通りになるように強引な行動をとるのですが、日記は亡くなった姉のもので、そこに書かれているのは彼女自身の希望ではなく、姉の希望のようなのです(桃果と多蕗は幼なじみです)。苹果の姉の桃果は、苹果が生まれたその日に亡くなっており、桃果の死をきっかけに父と母の関係がぎくしゃくし、両親が離婚してしまったのでした。苹果は自分自身の存在を消し去り、桃果になりきることで、家族を元の姿に戻そうとしているのです。苹果が本当に執着しているのは多蕗ではなく、父、母、桃果という三人による姉の亡くなる前の完璧な「家族」であり、そのために自分が桃果という存在とぴったり重なっている必要があると思っているのです。しかしその「家族」に必要なのは「桃果としての苹果」であり、「苹果自身としての苹果」の居場所はないのです。

苹果は、冠葉や晶馬が自分の持つ運命日記を陽毬の延命のために必要としていることを知り、日記をエサにすることで、「多蕗と結ばれる計画」への協力を晶馬に要求し、仲間に引き入れます。晶馬は仕方なく協力しますが、ことあるごとに「こんなことに意味はない」と苹果と諍います。とてもじゃないけどつきあっていられないと思いながらも、見捨てることができずに協力する晶馬と、強引に計画を進める苹果の間に、次第に親密な信頼関係のようなものが生まれてくるのです。そして苹果はついに、自分が晶馬に好意を抱いていることに気づきます。

2話の冒頭に置かれた、「わたしは運命という言葉が好き」というナレーションとともに苹果はこの物語に登場します。物語を順を追って観ているわたしたちは、ここで言われる「運命」という言葉の意味が、苹果の行動によって物語の展開とともに変わってくることに気づきます。最初に苹果が「わたしは多蕗さんと結ばれる運命だ」と言う時、それは、根拠もなく「運命の人」を信じるという類の、非常にありきたりな「神様がきめた赤い糸」というような意味で、しかも自分の思い込みをごり押しするように独善的に使用されているように感じます。

しかし、彼女が家族の関係を回復するために姉の日記を忠実に再現しようとしていることを知ると、その意味はやや異なってきます。苹果の運命とは「桃果の不在の場所」に生まれてしまったことだ、となるでしょう。桃果は、多蕗やゆりなどの友人からも、また両親からも、深く愛され、必要とされるような、非常に魅力的な人物でした。苹果は、自分がたまたま桃果がいなくなったその場所に、ぴったりとしたタイミングで出現してしまったため、生まれつき「桃果の代理」であることを要求される位置にいるのです。だから苹果が「運命という言葉が好き」と言う時、それは、自分がそのような位置に生まれたこと(桃果の代理であること)を、自ら進んで引き受けているということを意味するでしょう。彼女の強引な計画の遂行は、なにより彼女自身としての彼女の存在を消すための行為なのです。ここで「運命」とは苹果の出自によって刻まれた、強いられたものという意味なります。

苹果は、桃果となるために「多蕗と結ばれる計画」を強引に推し進めるなかで、陽毬の命をたてにとって晶馬を協力者とします。そこで、ともに様々な(無茶な)困難を乗り越えることによって親しさと信頼感が生まれ、晶馬に好意を持ってしまいます。三つめの意味として、このこと自体を「運命」ということができるでしょう。苹果は、彼女自身としての彼女を消すために他者をシミュレートする行為を通じて、決して桃果の代理ではあり得ない、自分自身の欲望を持ち、自分自身による関係を持ってしまうのです。出自としての運命を越える、出会いとしての運命。このような逆説は、苹果にとってまったく想定外のことでしょう。だからこそこれは「運命の出会い」と呼ばれ得るものなのではないでしょうか。

このような、「運命」という語の意味の3段階の変化が、この物語の前半に起こった最大の出来事だと考えます。苹果は、アブジェクティブな試練に負けない力強い行動力によってこの出来事を可能にしたという意味で、特筆すべきキャラクターだと言えるでしょう。しかし、出自によって刻まれた運命が、出会いという運命によって乗り越えられたと思った、そのすぐ次の瞬間に、さらに強い出自としての運命によって呑み込まれてしまうというのが、この物語の残酷な展開です。この物語の後半は、そこからはじまります。
 

唐突な「現実」の介入

ここまでの展開では、過去(出自)に強く拘束されている人物は苹果だけでした。冠葉が、真砂子から過去を思い出すように迫られたり、怪しい組織とのつながりが匂わされたりしていますし、陽毬も、図書館の地下深くで(後に眞悧として登場することになる)謎の人物による誘導から、アイドルグループ、ダブルHとの過去の関係の記憶をよみがえらせたりしています。しかし、これらのことは、深く埋もれた秘密が匂わされるという感じで、むしろ過去は隠されていて、現在は過去からの切断の上に成り立っているかのような感触でした。回想シーンでは当然のように登場する高倉家の両親が、なぜ現在の場面では存在しないかという説明もありません。

しかし、11話で晶馬の口からある重大な事実が語られて以降、この物語のあらゆる主要な登場人物たちに過去からの強い呪いがかかっていることが次々に発覚し、それら「過去」たちが雪崩をうつように「現在」に入り込み、「現在」に対して非常に強い力で介入してくることになります。

しかし、後半の展開についてみていく前に、まず、全24話中の第11話で生じたこの物語の構造上の大きな転換について考えます。10話で、苹果の身代わりに交通事故に合って入院した晶馬が、その病院から誘拐されてしまい、苹果は、晶馬の身の安全と引き換えに(既に半分は奪われてしまっている)日記の残り半分を差し出すように誘拐者から要求されます。晶馬に対する負い目と好意を感じている苹果は、ここで何より大切であるはずの日記を差し出しのです。この時点で既に、晶馬は苹果にとって桃果(あるいは桃果を演じること)よりも重要な存在となっていると考えられます。つづく11話で苹果は、多蕗に惚れ薬を飲ませることで「結ばれる」一歩手前までいくのですが、そこで「違う」と感じ、晶馬への好意を自覚するのです。

そして苹果は、晶馬に自分の出自について告白します。姉の桃果は16年前の「あの事件」で死んだ、と。そしてその同じ日に自分は生まれたのだから、桃果の生まれ変わりでなければならないのだ、と。晶馬さえ自分の前に現われなげば運命(桃果の生まれ変わりとして生きること)はそのまま上手く運んだのに、晶馬が運命を狂わせたのだ、と。しかし、この事実を晶馬に告げるというその行為そのものが、桃果の生まれ変わりであることを降りて、自分自身として晶馬とつき合いたいという表明であるはずです。つまり、出自としての運命=呪いが解けた瞬間であるはずです。

しかし次の瞬間、晶馬は、確かに苹果の運命を狂わせたのは自分だ、桃果が死んだのは自分たちのせいだ、と言うのです。「あの事件」は自分たちのせいなのだ、と。ここまでこの物語を追って来た者にとって、この一連の展開は衝撃的です。16年前(1995年)に起きた、誰もが知っている、多く犠牲者を出した「あの事件」、しかもこの物語の舞台が丸の内線であることを考えれば、誰もがすぐさま「地下鉄サリン事件」を思い浮かべるでしょう。これは不意打ちです。物語を順を追ってここまで観てきた人のほとんどは、この物語がこのような形で唐突に「現実」に接続するとは思ってもいなかったはずです。

とはいえ、この物語はこの後も、「地下鉄サリン事件」を題材とした物語という方向へは発展していきません。そもそもテロを起こした「企鵝の会」がどのような組織で、どのような目的で事件を起こしたのかもよく分かりません。この組織は抽象的な「この世の悪」の象徴のようなものとみるべきでしょう。この物語は、現実のサリン事件について考察を深めるという目的をもつのではなく、あくまで、非常に強い過去による拘束=運命を背負った人たちが、それとどのような形で向き合い、越えていくのかという物語として展開します。しかもその過去=運命は、自分が生まれるより前に決定してしまっているものなのです。しかしではなぜ、そのような物語に、生々しい現実の事件を連想させるような出来事が導入される必要があるのでしょうか。

この文章の冒頭で、フィクションとは、現実には起こらなかったことにまつわる、誰も思い出すことのできない記憶を、正確に掘り起こそうとすることではないかと書きました。そしてそれは、顕在的なもの(現にそうであるもの)である「ここ」と、潜在的なもの(別様であり得るもの)である「そこ」との転換を企てるものではないか、と。この物語に登場する「企鵝の会」という組織が95年に丸の内線内で起こしたというテロ事件は、誰もが「地下鉄サリン事件」を想起するものですが、しかし実際には「地下鉄サリン事件」とあまり似てはいません。つまりこの物語は、内容によってではなく、95年、丸の内線、テロという、いくつかの点によって現実とリンクするにすぎないのです。95年に丸の内線で起こったテロ事件は、物語の世界(そこ)と現実の世界(ここ)という2本の線を「X」状にクロスさせる線路の分岐器のような機能をもつと考えられます。

並行する線ではなく、分岐器によってクロスする2本の線であることによって、一方からもう一方への転換(反転)というイメージが容易になるでしょう。こちらにいるわたしたちにとって、あちらにある物語世界を、転換可能なものとして、つまり「そこにいるわたし」として観取可能にする、そのような交差的交換装置として、蝶番として、テロ事件があると考えられます。

「ここ」と「そこ」の反転可能性を示すものとして、13話に東京スカイメトロというイメージが出てきます。スカイとメトロという反転的な語の接合。これまでずっと、作中の地下鉄も現実の丸の内線と同じであろうと思い込んでいたのですが、そうではないことが明らかになります。作中ではニュース映像として一瞬流れるだけなのですが、スカイメトロと呼ばれる地下鉄は、線路の上を走るのではなく、車両が上から吊られる構造になっているのです。わたしたちの知っている地下鉄の空間の上下をひっくり返すような構造が、現実と物語との分岐器となり、物語としても前半と後半との分岐器となっている、この時点で示されることは重要でしょう。
 

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