連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』8

1月 06日, 2016 藤田尚志
§39. ベルクソンによるコペルニクス的転回――場所論としてのイマージュ論

ではイマージュ概念は、どのように内在的図式論を描こうとするのか。言い換えれば、ベルクソンが感性的直観を重視するというのなら、なぜ単に身体ないしその知覚から出発するのではなく、諸事物、それらの知覚、それらを知覚する私の固有身体を含めた宇宙全体、すなわち彼の言葉で言う「イマージュ」の措定から出発するのか。身体ないしその知覚の分析ではなく、「イマージュ」の端的な措定。このような出発点の設定は何を意味するのか。ベルクソンは言う。

イマージュは、そこに置かれるものしか与えることができない(171)。

『純粋理性批判』第二版序文で、カントが自らのコペルニクス的転回を説明する際の言葉――「我々が物をアプリオリに認識するのは、我々がこれらの物の中へ自分で置き入れるところのものだけである」(XVIII)――を思い起こさせる一文だが、ベルクソンは逆に、現象は、「直接与えられる」ためには、その可能性の条件として「置かれる」ことが必要だ、という。「そこに置かれる」とはどういう意味だろうか。「そこ」とはどこなのだろうか。

先にも述べたように、ドゥルーズは『ベルクソンの哲学』という著作の中で、ベルクソンが「一気に d’emblée」という表現を頻繁に用いていると指摘しているが、我々の考えでは、より重要なのは、この「一気に」という表現と常にセットで用いられている「身を置く se placer」というもう一つの(場所論的)表現のほうである。これは大切なことだが、この「一気に身を置く」という表現は決して比喩として用いられているのではなく、内在的図式論の拠って立つ厳密な方法論を示している。つまり、知覚や記憶といった現象そのものが「その中に一気に身を置く」ことを要請するのだ。「一気に」という表現が、身を置くまでの時間の瞬間的な短さを意味しているのではなく、その語源的な意味(in volareその中を飛ぶ)において、すなわち「持続の相の下に」という意味であるとすれば、先に見た「そこに置かれる」、そしてここでの「一気に身を置く」が示しているのは、「対象はそれ自体で存在し、しかもまた、それ自体で、我々が覚知するような生彩ある=絵画的な(pittoresque)ものだ」(162)ということ、すなわち知覚の主観的実在性と外在的事物の客観的実在性が同時に肯定されるという事態である。私たちが「場所論」と呼ぶのは、この「そこに置かれ」「一気に身を置かれ」ることを本義とするイマージュ論に他ならない。このイマージュ概念に支えられた『物質と記憶』という著作は、カントの為し遂げたコペルニクス的転回を、超越論的図式論というその核心部分において、再転倒させようとする試みなのだ。こうして私たちは、図式論の批判が不可避的に場所論へ導かれる様を見たことになる。この観点から『物質と記憶』をあらためて眺めると、全体の構成がよりクリアに浮かび上がってくる。今や重要なのは、知覚と記憶がいかに「そこに置かれるのか」、それぞれの場所づけの様態を知ることである。まずは、その道筋を準備したベルクソンのアリストテレス論から辿り直すことにしよう。
 
 


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[第8回初出:2013年12月17日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。