ジャーナリズムの道徳的ジレンマ
〈CASE 13〉被害者の実名・匿名の判断は誰がする?

About the Author: 畑仲哲雄

はたなか・てつお  龍谷大学教授。博士(社会情報学)。専門はジャーナリズム。大阪市生まれ。関西大学法学部を卒業後、毎日新聞社会部、日経トレンディ、共同通信経済部などの記者を経て、東京大学大学院学際情報学府で博士号取得。修士論文を改稿した『新聞再生:コミュニティからの挑戦』(平凡社、2008)では、主流ジャーナリズムから異端とされた神奈川・滋賀・鹿児島の実践例を考察。博士論文を書籍化した『地域ジャーナリズム:コミュニティとメディアを結びなおす』(勁草書房、2014)でも、長らく無視されてきた地域紙とNPOの協働を政治哲学を援用し、地域に求められるジャーナリズムの営みであると評価した。同書は第5回内川芳美記念マス・コミュニケーション学会賞受賞。小林正弥・菊池理夫編著『コミュニタリアニズムのフロンティア』(勁草書房、2012)などにも執筆参加している。このほか、著作権フリー小説『スレイヴ――パソコン音痴のカメイ課長が電脳作家になる物語』(ポット出版、1998)がある。
Published On: 2017/2/21By

 
詳しく正確に報道すること。悲惨な事故や事件に見舞われた人たちの苦しみ。この2つが天秤にのってしまうとき、〆切までの短い時間で難しい判断を迫られます。[編集部]
 
 
 報道をめぐるジレンマに直面したとき、なにを考え、なにを優先するのか? あなたならどうするだろう。

1:: 思考実験

社にあがってきたサツ担が、デスク席のわたしのところにやって来るなり言った。
「匿名にすると約束しましたから。ネットには中傷が出回ってますし、嫌がらせの電話もある。新聞は遺族を苦しめちゃいけない。実名は書きたくありません」
 おい、なにを血迷ってるんだよ。そんな言葉を飲みこんで、サツ担のほうを向いて言った「理由を説明しろよ、納得できる理由を俺に」
 ことの始まりは、けさの県警での記者発表だった。サツ担は訥々と説明し始めた。
   *   *   *
 県警広報課の発表によると、市内の小学校で一昨日、2年生の女子児童が昼休みの時間にいなくなりました。教職員が手分けして探したところ、近くの用水路で溺れているのが見つかり、病院で死亡が確認されました。
 すべて匿名発表でした。理由は「遺族の強い希望」です。
 事故なのか。事件なのか。報道陣からの質問に、刑事課長は「あらゆる可能性を視野に入れている」と含みを残しました。事件の可能性が高いかもしれません。
 発表の最後、刑事課長は報道陣に釘を刺すのを忘れませんでした。「通学途上の児童へのインタビュー行為は絶対に、いいですか、絶対に控えてください」と。
 すぐに亡くなった少女の名前や自宅を割り出しました。こんや自宅で通夜が営まれることも。弔問すれば遺族のようすがわかるし、うまくすれば取材できる。そう考え、喪服姿で“取材”に出かけたのです。
「線香をあげさせてください」どさくさに紛れて名刺を差し出し、広間に進みました。参列者は20人ほど。ライバル社の記者の姿はありません。正面に祭壇が組まれていて、少女の両親と思われる夫婦が石のように固まって座っていました。
 祭壇に進み焼香しました。焼香台のすぐ先に、驚くほど小さな棺があって、幼い顔がのぞいていて、もらい泣きのマネをして、ハンカチで目頭を押さえてみたんです。
 そのとき、受付のほうから駆け寄ってきた男性に腕をつかまれて言われました。「取材はおことわりしています」
 へたな言い訳はしませんでした。膝を折って頭を下げました。
「申し訳ありません」ほんとうに、いたたまれなくて、恥ずかしくて、ただじっとしていたら、父親の声がしました。
「そっとしておいてください。名前も顔も出さないでほしい。心ない電話や手紙をもらいたくありませんし、ネットで面白おかしく書かれたくないんです」
 嘘泣きの目に涙があふれてました。「わかりました、約束します」そう言って辞去してきたんです。
   *   *   *
 サツ担の気持ちも少しわかる気がした。だが……。

「うーん、うちは原則実名だしなあ」わたしは頭を抱えた。「どうせネットでは名前も写真も出回っているんだろ。よそは書くんじゃないか。うちだけ匿名にするには理由が必要だよな」
「それは、『みんなで渡れば怖くない』という論理ですよ」サツ担はわたしを睨んだ。「じゃあ、デスクは僕に、あの人たちを苦しめろと命じるんですか」
 ↓ ↓ ↓
つづきは、単行本『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』でごらんください。

 
取材先でセクハラに遭ったら?
被害者が匿名報道を望んだら?
取材で“ギャラ”を求められたら?
被災地に記者が殺到してきたら?
原発事故で記者は逃げていい?
 etc.
 
正解はひとつではない。でも、今、どうする?
現場経験も豊富な著者が20のケースを取り上げ、報道倫理を実例にもとづいて具体的に考える、新しいケースブック! 避難訓練していなければ緊急時に避難できない。思考訓練していなければ、一瞬の判断を求められる取材現場で向きあうジレンマで思考停止してしまう。連載未収録のケースも追加し、2018年8月末刊行。
 
〈たちよみ〉はこちらから「ねらいと使い方」「目次」「CASE:001」「あとがき」(pdfファイルへのリンク)〉


【ネット書店で見る】

 
 

畑仲哲雄 著 『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』
A5判並製・256頁 本体価格2300円(税込2484円)
ISBN:978-4-326-60307-7 →[書誌情報]
【内容紹介】 ニュース報道やメディアに対する批判や不満は高まる一方。だが、議論の交通整理は十分ではない。「同僚が取材先でセクハラ被害に遭ったら」「被災地に殺到する取材陣を追い返すべきか」「被害者が匿名報道を望むとき」「取材謝礼を要求されたら」など、現実の取材現場で関係者を悩ませた難問を具体的なケースに沿って丁寧に検討する。
 
【ページ見本】 クリックすると拡大します。

【本書のトリセツ】
ステップ1、実際の事例をもとにした[思考実験]を読んで「自分ならどう?」と問いかける。
ステップ2、次のページを開いて[異論対論]で論点ごとに考える。対立する意見も深めてみると……?
ステップ3、事実は小説より奇なり。[実際の事例と考察]で過去の事例を振り返りつつ、支えとなる理論を探そう。
 
【目次】
ねらいと使い方 ジャーナリズム倫理を絶えず問いなおす
第1章 人命と報道
 CASE:001 最高の写真か、最低の撮影者か
 CASE:002 人質解放のために警察に協力すべきか
 CASE:003 原発事故が起きたら記者を退避させるべきか
 CASE:004 家族が戦場ジャーナリストになると言い出したら
第2章 報道による被害
 CASE:005 被災地に殺到する取材陣を追い返すべきか
 CASE:006 被害者が匿名報道を望むとき
 CASE:007 加害者家族を「世間」から守れるか
 CASE:008 企業倒産をどのタイミングで書く
第3章 取材相手との約束
 CASE:009 オフレコ取材で重大な事実が発覚したら
 CASE:010 記事の事前チェックを求められたら
 CASE:011 記者会見が有料化されたら
 CASE:012 取材謝礼を要求されたら
第4章 ルールブックの限界と課題
 CASE:013 ジャーナリストに社会運動ができるか
 CASE:014 NPOに紙面作りを任せてもいいか
 CASE:015 ネットの記事を削除してほしいと言われたら
 CASE:016 正社員の記者やディレクターに表現の自由はあるか
第5章 取材者の立場と属性
 CASE:017 同僚記者が取材先でセクハラ被害に遭ったら
 CASE:018 犯人が正当な主張を繰り広げたら
 CASE:019 宗主国の記者は植民地で取材できるか
 CASE:020 AIの指示に従って取材する是非
あとがき ジャーナリストの理想へ向けて
 
■思考の道具箱■
傍観報道/番犬ジャーナリズム/共通善/危険地取材/臨時災害放送局/CPJ/自己責任/メディアスクラム/合理的な愚か者/サツ回り/犯罪被害者支援/熟議/被疑者と容疑者/世間/特ダネ/倒産法/コンプライアンス/知る権利/取材源の秘匿/2種類の記者クラブ/地位付与の機能/ゲラ/報道の定義とは?/小切手ジャーナリズム/記者会見/「ギャラ」/キャンペーン報道/アドボカシー/黄金律/NPO(非営利組織)/地域紙と地方紙/アクセス権と自己情報コントロール権/良心条項/記者座談会/ゲリラとテロリズム/ポストコロニアリズム/倫理規定/ロボット倫理/発生もの
 
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はたなか・てつお  龍谷大学教授。博士(社会情報学)。専門はジャーナリズム。大阪市生まれ。関西大学法学部を卒業後、毎日新聞社会部、日経トレンディ、共同通信経済部などの記者を経て、東京大学大学院学際情報学府で博士号取得。修士論文を改稿した『新聞再生:コミュニティからの挑戦』(平凡社、2008)では、主流ジャーナリズムから異端とされた神奈川・滋賀・鹿児島の実践例を考察。博士論文を書籍化した『地域ジャーナリズム:コミュニティとメディアを結びなおす』(勁草書房、2014)でも、長らく無視されてきた地域紙とNPOの協働を政治哲学を援用し、地域に求められるジャーナリズムの営みであると評価した。同書は第5回内川芳美記念マス・コミュニケーション学会賞受賞。小林正弥・菊池理夫編著『コミュニタリアニズムのフロンティア』(勁草書房、2012)などにも執筆参加している。このほか、著作権フリー小説『スレイヴ――パソコン音痴のカメイ課長が電脳作家になる物語』(ポット出版、1998)がある。
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