――「相互依存」ってなんですか?
山根 「ケア」とは本来このようなものであろう、というモデルは、多くが家族の中のケアを前提にされて議論されている。公的領域ではケアを必要としない自立した個人が前提になっていて、ケアは私的領域のもの、家庭の中は相互依存的である、そういうモデルが作られてる。でも平山さんの話は、別に公的領域だってケアしている、それが強者に向かってケアしてるだけで、ってことですよね。
ケアの倫理の議論ですごく不思議だなって思うのは、「弱者である」とか「脆弱である」って、ものすごい素朴に使われますよね。たとえばトロントの『モラル・バウンダリー』の訳者解説には、ケアっていうのは「脆弱で、他者に依存しなくては生きていくことができない人間によって行われる。同時にそのような人間に受け取られる応答的行為である」(208ページ)。すべての人間が脆弱だ、と言いたいようですが、どのような文脈を想定されているのでしょうか。岡野さんの本にも家homeを「依存する者たちの場」(246ページ)という記述がでてきます。ケアを弱者と弱者の関係だ、というような脆弱や依存の使い方をみると背筋がゾゾゾッとします。出産したお母さんが産後非常に肉体的に消耗していて、なのに赤ちゃんを世話しなきゃいけなくてっていうモデルって、確かに2人とも非常に厳しい状況だから、それは労働市場で「自立」していると思われている人とは違う、というのは重要なこと。でもケアって別に母子関係だけに収まるものではないし、ケアをしている人が脆弱っていうのは近代社会のなかで作られた社会編成であって、別に弱い状態じゃなくてケアできればいいわけです。看護師も、介護職も、患者や利用者と脆弱なもの同士の相互依存関係にあるのでしょうか?
この相互依存関係って、自律的な個人を基礎においてきた西洋哲学を覆すぞみたいな議論をされますけど、よく考えてください。赤ちゃんがお母さんに依存しているのは、物理的に自力では生存できないから、誰かのケアに依存しているわけです。 別に母親じゃなくてもいい。次に、お母さんは何に依存しているというんですか?(E.キテイやM.ファインマンが「派生的依存」と呼ぶ)男性の稼ぎや福祉政策に「依存」している、と表現することが適切だとしても、それはケアする相手との「相互」の「依存」ではありません。
たとえば、息子と高齢の母親という関係性で考えた時に、お母さんはひとまず息子のケアに依存しなければならない状態。それを本人望んでいるかわからないですけど。じゃあ息子側がお母さんに依存しているというのは、それって何ですか。親が身体的に息子のケアに依存していることと、息子が経済的に親に依存していることはまったく別問題ですよね。
もちろん「自立」「自律」概念を相対化することは重要です。 熊谷晋一郎さんが東日本大震災の際の経験から「依存」についてこう論じています。自律しているとみなされている人たちは複数の依存先(避難経路)を確保している。でも障害者は依存先が限定されていたと。健常者はさまざまなものに依存できていて、一つひとつへの依存度が浅いから、何にも依存してないかのように錯覚できる、と。「依存」が社会的につくられているのか、どのような依存が不可視化されているのかっていうことを具体的に考えることを抜きにして、相互依存が人間の本質でそこに他者への責任という倫理がある、って言われると、何か新しいこと言われてるような気になってる。いやいや、そうじゃなくて、それはある社会的な仕組みの中で、特定のケア関係が相互依存になっているわけです。そこをきちんと議論しないといけない。家庭に市場とは別の自然原理を見出す社会学者の議論について、落合恵美子さんが30年以上前に「ゲマインシャフト幻想」とよんでますが、ケアの倫理はこれと同じ轍を踏んでいるようにみえます(『近代家族とフェミニズム』)。
もう一つ、障害者運動の歴史をみれば、お母さんはあなたのケアしたい、本人は家から出ていきたいっていうふうにずっと言ってきたわけですね。これを相互依存的な関係だよねって押し付けられることを「権力」とみなしてきたわけです。私この人にケアされたくない、この人にケアしたくないっていう、切り離されたい関係性だっていくらでもあるのに、今あなたにケアをしてあげないと私は傷つく、あなたが傷つくことで私も傷つく、みたいな依存関係にもとづく倫理がどこにでもあるという議論の仕方っていうのは、ものすごく違和感があります。だからといって自立のモデルがいいっていうわけではないんですけれども、じゃあ相互依存モデルで「ケアしている人の経験」を説明されると、そうなんですか? っていう……平山さん、いかがですか。
平山 今のお話の一つは、相互依存の「相互」という言葉で見えなくなる非対称性があるよね、ってことですね。もう一つは、ケアする側の依存というのは、ケアを行う上で不可避のものってわけじゃなくて、ある社会的条件のもとでそういう依存状態に置かれてしまってるから、ってことですよね。前者の話と関係するんじゃないかと思うんですけど、ケアする人にも誰かの支えが必要だとしても、つまり、その意味で依存的にならざるをえないとしても、ケアされる側との関係においてはケアする側はやっぱり強者である。ケアを考えるときにはそこを外したくないです。
さっきも言ったように、ケアの倫理の議論ではケアがすばらしい何かのように語られがちですが、たとえばケアの関係って「取り扱い注意」のものすごく危険な関係でもあると思う。受け手が自分なしじゃ生きてはいけないからこそ、それを優越感や自己肯定感の源泉にするような人もいるし、相手の生存も生活も自分の手の内にあるって意味では支配の関係と紙一重なわけだし。こういうことを言うと叩かれそうだけど、社会的にもっとも承認された支配の関係は、ケアの関係のなかで可能になると思います。受け手にとってはひたすら支配されてるだけなのに、周りがそれをケアだと見なせば、そこで行われてることはケアになるわけ。そもそもそれをしている側だって自分のやってることが支配だなんて思ってないかもしれない。
トニ・カラサンティっていうフェミニスト老年学の研究者がやった配偶者介護の調査が示唆的ですよね。「この家の主はオレ様だ」っていう家父長制を体現しているみたいなおじいちゃんが、妻の介護というケアする役割をしなきゃいけなくなったら、その役割にスムーズに適応しちゃう場合があるってカラサンティは報告しています。それは何でかっていうと、妻を自分の所有物として支配することと、妻の生存と生活が自分の手の中にあるケアの関係は、まったく矛盾しなかったからだっていう。ケアを「男らしさ」や家父長制の対極にあるものとばかり想定してたら、こういう発見はできないと思います。
みんな誰かの支えなしには生きられないんだし、自立した個人っていうのは幻想だっていうのには同意できるけど、山根さんがおっしゃるように、相互依存という言葉で見えなくなるものは確かにある。介護する側とされる側が同じように相手に依存しているなんてことはないんだし、そういう意味ではケア関係でこそ「相互」依存は成り立たないって言えるかもしれません。
ケアする人は救われるのか?
山根 そうですね。公的領域にいる、もう俺は一人で生きているぜっていう人に、もうちょっと他者のニーズを考えなさいとか、より脆弱な人のことを考えなさいっていうのはもちろんいいと思うんですけど。今の平山さんのポイントと違うかもしれないんですけど、すでにケア的なことをやっている人たちに向けて、さらに覆いかぶせて、ケアの倫理だよねっていう、その効果って一体何なんだろうって。
それは自分のやっている「ケアの価値」を評価する言葉にもなりうるかもしれないですが、逆にしんどい人から言葉を奪うものだと思うんですね。すべてを支配だとは言い過ぎだと思うんですけど、どうやったら今ケアをやってる人が救われるのを考えた時に、やっぱり自分がしんどい、こういう社会的条件だったらもっとやりやすいのにって声を上げてもいいよと思える規範が必要です。すでにこの社会の規範は「お母さん頑張って、ホームヘルパーさん頑張って」の世界で、そこに上乗せして、これケアの倫理だよねって言われたら、そこで起きている不平等とか労働条件の悪さなんていうのは改善しないわけで。ギリガンはコールバーグの理論について、コールバーグのモデルから逸脱した人と見なされる声が聞き取られないって言いますけど、ギリガンの議論とかケアの倫理の話もそっくりそのまま、そのモデルから逸脱した人と見なされる人の声は聞き取ることができないんですよね。なので、一つは支配の可能性っていうのもありますし、それからケアのしんどい状況を言っていいよっていう規範は一体どこから出てくるんだろう、それはケアの倫理からは出てこないんだろうなって。
平山 昔、模範嫁表彰っていうのがあったの知ってます? 献身的に夫の親を介護してる女性を自治体が表彰するって制度で、1970年代頃から行われていました。これってケアが道徳的にすばらしい行いだと認められ、その価値を公的に評価してもらえる制度みたいに見えなくもないわけだけど、それによって介護してる人が救われるわけでもないし、実際これは女性の介護負担を固定化させるものだって批判の対象にもなったわけです。ケアが大切なことに異論はないんだけど、それを倫理的な何かとして評価することで逆に見えなくなる問題はないのか、今まさにそれをしている人にむしろ不利益をもたらす面はないのか、って視点は常に持っておきたいですよね。
お二人の議論はまだまだ広がります。次回、対談後編をどうぞ。[編集部]
【後編目次】
「思いやり」「弱者の声を聴く態度」では社会は変わらない
「ケア責任を負うこと=ケアし続けなければいけないこと」を再検討する
必要なのは、ケアすることのハードルを下げることである
「ケアの倫理」で「ケアしない男」は変えられるのか?
「性役割の社会化」論としての「ケアの倫理」が行きつく先
ケアで新自由主義を乗り越えられるのか・変えられるのか
【プロフィール】山根純佳(やまね・すみか) 東京大学大学院人文社会系研究科修士課程・博士課程修了、博士(社会学)。山形大学人文学部准教授、実践女子大学人間社会学部教授を経て、現在名古屋大学大学院環境学研究科教授。.ジェンダー研究,再生産・ケア労働論。著書に『なぜ女性はケア労働をするのか──性別分業の再生産を超えて』、『産む産まないは女の権利か──フェミニズムとリベラリズム』(ともに勁草書房)、『岩波講座 社会学』シリーズ(岩波書店)編集委員など。
【プロフィール】平山 亮(ひらやま・りょう) 東京大学大学院人文社会系研究科修士課程、オレゴン州立大学大学院博士課程修了、Ph.D.(Human Development and Family Studies)。東京都健康長寿医療センター研究所研究員、大阪公立大学准教授を経て、現在同志社大学社会学部教授。家族社会学、老年社会学、ジェンダー研究。著書に『介護する息子たち──男性性の死角とケアのジェンダー分析』(勁草書房)、『男性学基本論文集』(共編訳、勁草書房)など。

