《ジェンダー対話シリーズ》第10回
「ケアの倫理」は「ケアする私」を救うのか?(前編)
――『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』トークイベント

「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。
Published On: 2026/7/17By

 

「ケアの倫理」への疑問・1
――なにが「良い」ケアかなんて誰にもわからない


 
山根 (ケアの倫理との違いで)私たちが一番強調したのは、ケアをする、という行為において「『良い』ケアとはなにを指すのかはわからない、だから大変だ」っていうことなんですね。ケアの倫理の議論では、より良い結果とか、より良い状態っていうのを生み出すことができるんだから、そこに向かって市民みんな頑張ろうっていう、そういうスローガンですけど、「より良い状態」はあくまでケアする人がそう思っているだけで、ケアされる側にとってどうかなんていうことはわからない。ケアする人が一生懸命考えたり、察知しようとしたりしていることが、ケアされる側にとっても「良い」なんてことは言っていないわけです。そのケアが、ある意味暴力にもなる可能性もあるし、余計なおせっかいの可能性もある、つまりケアをしないことが本人にとっては望ましいこともある。どれだけケアしている人ががんばったって、本人にとって本当に良いかどうかっていうのは不可知なんですね。そういう意味では、ケアの倫理が言っている「良さ」みたいなものを議論しないっていうのが一つのポイントだったわけです。
 今日はその「される側」の視点ですね。誰が良いケアを定義するのか、される側の視点っていうのを議論したいなというふうに思っています。
 もう一つは、ケアの倫理が、ケアの当事者性を代弁してしまう言説になるという問題です。私は何人か実際に子育てをしている人とか、親を介護した人に「ケアの倫理の本は読めない」「読みたくない」って言われました。ケアは道徳的な行為なんだとか、ニーズに応答するのは近代社会において忘れられてきた倫理だと言われちゃうと、私のケアの経験とは違うと思っている人たちの声を奪うことになる。それは「私のケアを代弁しないでくれ」っていうことだと思うんですね。ケアの倫理を読んで,なぜ「代弁してくれてありがとう」とはならないのかと。ケア労働を評価しているようで、これは実際にケア労働している人に向けた言葉ではない。そこについてももっと考えなきゃいけないなって長らく思ってきました。
 J.ドンズロの『家族に介入する社会』という本がありますが、「家族」がなにをすべきか、どのように子どもを世話すべきかは社会の関心事であり、家族は常に介入されてきたわけです。ただし、そうした社会の規範(庇護的ニーズ)とは別の、ケアする相手との相互行為からみえてくるケアニーズもあって、この調整作業もケアする人の「責任」のひとつである、ということを議論しました。その意味でケア責任とは社会的な責任なのです。だからそもそもどうしてこれがこの人の責任なのかっていうことを説明しなければいけない。本書の執筆にはこうした動機があります。一方で「ケアの倫理」の議論は「依存」や「責任」は説明されるべき対象になるのではなく、依存や責任っていう概念を所与のもとのとして、社会を変えようとしている、ここに大きな違いがあります。
 平山さんは男性性の研究者としてこの本を書いていただいたんですけれども、男性もケアの倫理の主体になってください、という本なのって言われたら、違うって言うと思うので、ちょっとそんな話も平山さんの方からお話しいただければと思います。
 
平山 もういっぱい論点が出てきているのですが、ケアの倫理に対して私が抱いてる疑問の一つは、ケアの倫理で可能になるとされてることって本当に可能になるのかってことです。たとえば、ケアの倫理は家父長制を乗り越える倫理であるって言われたり。あるいは、ケアの倫理で言うところのケアをみんなが行うと戦争がなくなって平和になったり。すごいことがどんどん可能になるらしい。ただ、そうした主張って、これまでの実証研究に照らしてどこまで根拠づけられているのかなって疑問があります。
 ケアの倫理で言うところのケアは、論者によってちょっとずつ違います。だから、ケアの倫理で言うところのケアをひとまとめにして語るのは難しいんですけど、たとえばギリガンの言うような配慮、誰も傷つかないように、誰かのニーズだけを優先しないように、という配慮について考えてみます。ギリガンによると、ケアの倫理は家父長制に抵抗する倫理だと。たしかに、相手のニーズに敏感になれば、他者を蹂躙するような暴力や支配はなくなるようにも思えますが、その話って意図と効果を区別できていないように思うんです。そこで念頭にあるのは、さっき山根さんがおっしゃっていた受ける側の視点ですね。簡単に言うと、私たちが相手のニーズに配慮し応えようとしたとしても、それが相手にとって本当にそうなっているかどうかは別だってことですよね。
 社会の中で生きていくには他の人と関わり合わざるをえませんが、そのときに一番難しいのがそこです。つまり、私たちがやっていること、やろうとしていることが何になるかは、私たち自身にはコントロールできないってことです。あなたがどんなに慎重に考え、相手を気遣って何かをしたとしても、相手がそれをそう思わなかったり、周りがそれをそのようには見なさなかったりしたら、あなたはこの社会では気を遣えない人、気遣いのできない人になってしまう。だとしたらケアは、ケアしようと思ってケアになるわけではない。どんなに配慮し気を遣っていても、それがそのまま配慮や気遣いになるわけではないんです。そういうことが、ケアの倫理の議論のなかではおざなりになっているように思います。
 

「ケアの倫理」への疑問・2
――性別分業に都合が良すぎませんか?


 
平山 もう一つは、ケアの倫理におけるジェンダー差の議論が、性別分業に都合が良すぎるように思える点です。さっき山根さんが振ってくれた話と関わるんですけれども、ギリガンをはじめケアの倫理の論者は、こうした倫理的な態度は男性よりも女性のほうが身に着けてきたと考えていますよね。男性がそれを身に着けられないわけではないけど、この社会で男の子として育てられるよりも女の子として育てられたほうが、相手のニーズに注意を向け、それが満たされるよう配慮できるようになると。私はこの本のなかでそれに疑問を呈しているのですが、それはなぜかっていうと、いわゆる「男社会」での「忖度」の例からもわかるように、相手のニーズに注意を払い、それが満たされるように気を配ること、それを通して関係を維持していることなんて、男性だっていくらでもやってるからです。
 以前から山根さんに指摘されているように、この「忖度」と、いわゆるケア労働として依存的な他者のニーズに注意を払うこととでは、そこから何が得られるのかって点で大きく違います。ここでのポイントは、他者のニーズに注意を払い、それを満たそうとしてきたのは女性だけじゃないはずだ、ってことです。だとすると、配慮や気遣いを求められ、また実際にそれを行ってきたのが男性よりも女性に多いのではなくて、女性とされた人が行うことの多い配慮や気遣いばかりが、配慮や気遣いとして見なされやすいだけじゃないのか。
 男性だってできないわけじゃない、場合によっては配慮や気遣いなんて当たり前のようにやりまくってるじゃないか、というところを突っ込んでいかないと、じゃあなぜそれを女がやることばかり普通とされているのかっていう性別分業の不合理さを根底から問題にすることはできない。逆にいうと、配慮や気遣いは女性ばかりがやっているって前提から始める限り、「ケアは女性のほうができる」みたいな性別分業を正当化するロジックに乗っかることにもなる。それがケアの倫理の議論を疑わしく思う、もう一つの理由です。
 
次ページ: 「ケアの倫理」への疑問・3――「相互依存」ってなんですか?

「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。
Go to Top