虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第19回 正義と生存とゴースト/攻殻機動隊「STAND ALONE COMPLEX」と「ARISE」

About the Author: 古谷利裕

ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
Published On: 2017/5/10By

 
 

「ARISE」、ゴーストの不在

「ARISE」では、様々な立場に立つ人物たちの生き残りをかけた争いが描かれます。「ARISE」の世界には革命家は存在せず、故に草薙や荒巻も体制内アウトローとは言えません(一見、「S.A.C」に出てくる革命家たちと同種であるように見えるborder:2のソガ大佐も、植え付けられた間違った記憶によって他者から操作され、利用されているにすぎません)。このシリーズで草薙が求めているのは正義ではなく自律的に存在できる自分の居場所だと言えます。ただし、ファイアスタータ(これはウイルスの名であり、それを扱う者の名でもあります)と呼ばれる存在が、「ARISE」の物語をたんなる覇権争いとは異なるものとしています。ウイルスとしてのファイアスタータは、その人の立場や思想信条に関係なく、記憶や信念を操作し、人を自由に動かすことができてしまいます。そして、そのウイルスを扱う人としてのファイアスタータは、対立する様々な立場のすべてと裏で通じていて、どの立場が勝利しようとも、自分を勝利した側に置くことができてしまうのです。

つまり、「ARISE」における真の対立は、あらゆる立場に立つことのできるファイアスタータと、あらゆる立場から独立して自律的にあろうとする草薙との間にあると言えます。誰にでもなり変わることのできる自由と、わたしがわたしとしてありつづけることの自由との戦いです。しかしここでややこしいことに、誰にでもなれる自由をもつはずのファイアスタータは、草薙と同型の義体を用い、草薙素子という名前を奪おうとしているのです。二つの存在に対して一つの位置(名)があります。誰にでもなれるが故に誰でもありえないファイアスタータは、草薙素子という名を、その位置を、自らの定着点として狙っているのです。

一つの名を複数の存在が取り合うという構造は「S.A.C」の笑い男と共通しています。しかし、笑い男という名はその指示対象との紐帯が途切れてしまっている名であり、だからこそその名が多くの模倣者を生んだのでした。しかし、草薙素子という名は、社会関係の網の目のなかにあり、指示対象も特定されています。ここで、草薙素子という名と結びついているのは、彼女の社会的な位置であり、彼女の身体だと言えます。しかし、彼女は全身義体なので、見分けのつかない同じ身体を用意することは可能です。その意味では、コピー可能なアイコンと紐づけられた笑い男という名とかわらないと言えます。違っているのは、彼女がある社会的関係のかで、あるいは人間関係のなかで、特定の位置を占めているという点です。

名が指しているの、身体であり、社会的関係であり、そのなかでの振る舞いであって、ゴーストではありません。身体と振る舞いは模倣可能であり、あとは社会的な位置を入れ替えれば他者になり替わり得る。これがファイアスタータの立場でしょう。つまりゴーストなどは問題ではない、と。「S.A.C」の草薙は、その行為の特徴から笑い男のオリジナルなゴーストを(少なくとも、ある固有の才能を)特定することができました。しかし「ARISE」の草薙は、上官であり戦友(スクラサス事件の共犯者)であるクルツ中位がファイアスタータの操り人形であり、はじめからゴーストのないリモートコントロール義体だったということに、その遺体を見るまで気づけませんでした。つまり、「ARISE」の草薙にはファイアスタータの主張を否定する権利がない(ゴーストへの懐疑を否定できない)と言えます。草薙は、物語上では勝利していますが、主題上では負けていることになってしまします。

そもそも、ファイアスタータというウイルスが実在してしまっている時点で、ゴーストの自律(スタンド・アローン)性を示すことが困難になってしまいます。例えば、Aという人がBという人を自在に操っているとして、操っているAもまた、別のCによって操られていて、そしてCは実はBによって操られている、という状況を想定することができてしまいます。この時、4人の行為は一体どのようなゴーストによって起動されていることになるのでしょうか。行動の根拠となるゴーストはどこにあるのでしょうか。互いに互いのゴーストを盗み合うというこのような想定の可能性が否定できないとき、行為の根拠としてのゴーストの自律という考えが維持できなくなります。そもそもゴーストなど幻影に過ぎないのではないか、ということになってしまいます。

体制内アウトローとは、官僚的組織に属しながらも、官僚的な階層性や縦割り性を無視して個々の独自判断で動く人々のことでした。独自判断は組織の命令系統ではなく自らの「ゴーストの囁きを聴く」ことによって可能になる、と。正しい資質(ゴースト)を持つ者たちによってこそ、正義の連鎖が可能になるのです。しかし、正義の根拠としてのゴーストへの懐疑を消せないとしたら、スタンド・アローン・コンプレックスは期待できないことになってしまします。この意味で「ARISE」は「S.A.C」の梯子を外したことになります。
 

テクノロジーが強いる抽象的主題

しかし、次のように考えることはできないでしょうか。ゴーストとは個々として自律した何かではなく、硬直化した関係性の中から、その硬直性を超え出る力が生まれること、あるいは、そこで生まれた何かを指すのだ、と。そう考えれば、上記の、A、B、C、Dが互いのゴーストを盗み合うような状況のなかでも、入れ子になった関係の硬直性から、それを突き崩す新たなゴーストFが生まれる可能性を考えることができます。「ゴーストの囁き」は、自律した個(わたし)から生まれるのではなく、関係へと依存し固着した個(わたし)を、自律へと導くためのその都度世界から新たに生まれる力のことなのだ、と。

「S.A.C」で、最も突出したスタンドプレーは、本来ゴーストのないAIであるはずのタチコマたちによって行われます。「個別の11人」事件においてタチコマは、草薙からの命令を無視し、彼らの自己判断によって、自分たちを犠牲にして多くの人々を救うのです。つまり、草薙の命令よりも良いと思われる方法を自分たちで見つけ出し、そちらの方が「正しい」はずだと自分たちで判断するのです。プログラムによって動く存在が、自分を規定しているプログラムを自ら書き換えてしまいます。この瞬間にゴーストが生まれたと言えないでしょうか。これは、ゴーストは、自律したものとして既に(常に)あるのではなく、ある状況のなかでその都度生じる何かなのだ、という事を示す事例の一つと言うことができるのではないでしょうか。ここでタチコマによって演じられたスタンドプレー(ゴーストの生成)こそが、ゴーストへの懐疑を主張するファイアスタータへの反論になり得るのではないでしょうか。

「攻殻」には「わたしの同一性」や「心身問題」「ゴースト」といった、とても抽象的な主題が強くあります。しかしその抽象的主題が、社会的、政治的、経済的な、力の絡まり合いによる世俗性の高い物語のなかから浮かんでくるようになっていると言えるでしょう。ここで抽象性と世俗性の両者をつないでいるのが、義体化や電脳化といった高度なテクノロジーです。逆から言えば、この世界のテクノロジーが高度になればなるほど、誰もがゴーストの意味や心身問題といった抽象的な問題に直面せざるを得なくなるであろうということです。「そんな抽象的で小難しい哲学など生きてゆくのに何の役にも立たない」と言って避けることができなくなる日も近いのではないでしょうか。
 
この項、了。次回6月21日(水)更新予定。

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ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
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