「名もなき家事」の、その先へ――“気づき・思案し・調整する”労働のジェンダー不均衡
vol.02 女性に求められてきたマネジメント責任/山根純佳

ジェンダー研究者・山根純佳×『介護する息子たち』著者・平山亮による、日常に織り込まれたジェンダー不均衡の実像を描き出し、新たなジェンダー理論の可能性をさぐる交互連載(月1回更新予定)。「ケアとジェンダー」の問題系に新たな地平を切り拓き、表層的な“平等”志向に陥らない「家族ケア」再編への道筋を示します。

 
「名前のない家事」をめぐって始まる平山亮さんと山根純佳さんの往復書簡連載、今回は山根さんから平山さんへの応答です。[編集部]
 
 
平山 亮さま
 
 お手紙ありがとうございます。他者の生活・生存を支える労働のなかで、相手のニーズを察知し、どんな手助けをすべきか思案し、またさまざまな資源を調整するという活動(Sentient Activity)を、男性ができない/しにくい/してくれないという問題は、私が長らく考えてきた「女性が他者のニーズに結びつけられるのはなぜなのか」という問題と裏表の関係にあります。この「名もなきケア責任」の「見える化」と「使い道」を探る作業にお誘いいただきとてもうれしく思っています。
 
 前便で記してくださったように、平山さんが議論されているケア責任に伴うSA(Sentient Activity)という言葉は「名もなき家事」とは重なりつつも、異なる広がりをもつ概念ですね。ただし、まったく切り離して考えることもできません。少なくとも、子育て、介護をしている人からみれば、料理や掃除といった家事労働も、子育てや介護というケア労働のなかの一貫として位置づけられている場面が多くあります。そこで、ここでは「ケア」という労働のなかの一部に食事をつくる、掃除をするといった「家事労働」があると考えたいと思います。厳密には、ケア労働のなかに含まれない家事労働として家や家財を維持するための作業(掃除や庭の手入れ)もありますが、ここではこれらについては議論しません。
 
 以下では「名もなきケア責任」を念頭に私が考えていることを書かせていただきます。平山さんのご著書でSA(Sentient Activity)の概念に触れて、私が真っ先に思い浮かべたのは、震災後に出会った福島から自主避難したお母さんたちの悩みと葛藤でした。震災後山形に住んでいた私は、父親が福島に残したまま母子のみの避難をした母親たちの葛藤や生活の不安を聞いてきました。原発事故後、放射能被曝のリスクをめぐってさまざまな情報が錯綜したなか、子どもに健康被害がでるのではないかという不安のなかで、親として何をするのが最善なのかを悩み、暗中模索の中で避難を決断していました。実際に避難や疎開をしなくとも、放射能被曝のリスク情報を検索したり、水や食料品を選んだり、遊ぶ場所を限定したりといった調整をした方もいらっしゃると思います。これらは、掃除や食事という家事労働とは別の、「子どもの生活・生存を支えるために」を思い悩み、利用する資源(生活する場や食材)を調整する子育てのマネジメントといえるでしょう(ただし、後で述べますがマネジメントにもさまざまな「タスク」が伴います)。
 

  そして思案し調整するという責任は、子どもの健康や安全を守るために避難するという決断だけではなく、避難先での生活のなかでも大きく母親たちにのしかかっていました。いわゆる「自主避難」の問題について、私は、男性を稼ぎ手する性別分業と、そのなかで女性に割り当てられた「ケア責任」がもたらした被害として考えてきました[1]。ただ母親たちの葛藤や負担を「ケア責任」という言葉では十分に説明しきれていない、という歯がゆさもありました。平山さんの著作でSAの概念を知ったときまさに目から鱗でした。避難した母親たちが被った「精神的不利益」とは「感知し、思案し、調整する」責任ゆえに生じた不利益だったのだと。
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つづきは、単行本『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』でごらんください。

 

ジェンダー研究者・山根純佳×『介護する息子たち』著者・平山亮による、日常に織り込まれたジェンダー不均衡の実像を描き出し、新たなジェンダー理論の可能性をさぐる交互連載(月1回更新予定)。「ケアとジェンダー」の問題系に新たな地平を切り拓き、表層的な“平等”志向に陥らない「家族ケア」再編への道筋を示します。
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