「名もなき家事」の、その先へ――“気づき・思案し・調整する”労働のジェンダー不均衡 連載・読み物

「名もなき家事」の、その先へ――“気づき・思案し・調整する”労働のジェンダー不均衡
vol.03 SAには「先立つもの」が要る――「お気持ち」「お人柄」で語られるケアが覆い隠すこと /平山亮

 
「名もなきケア責任」は今どう配分されていて、これからどう配分しなおせるのか――平山亮さんと山根純佳さんの往復書簡連載、今回は平山さんから山根さんへの応答です。 [編集部]
 
 
山根純佳さま
 
  ご多忙のなか、ご丁寧な返信をありがとうございます。刺激的な内容のお手紙に、真冬の寒さで絶不調なアタマとカラダもピリッとよみがえる思いでした。
 
 「見えないケア責任を語る言葉を一緒に紡いでくれませんか」というわたしのお願いを快く引き受けてくださっただけでもわたしには感謝&感謝ですが、それだけでなく、山根さんが第一打から「そもそもsentient activity(SA=ケアにかかわる感知・思案)とは何か」というド真ん中の問いに挑んでくださったことは、わたしにとって嬉しい驚きでした。「SAとは何か」をはっきりさせられて初めて、「じゃあ、そのSAを行う責任は今どんなふうに配分されていて、これからどんなふうに配分しなおせるの?」という問いに進むことができるからです。その意味では、山根さんは「名もなきケア責任」を名ざす企画の最初の関門をロケットスタートで突破しつつ、このプロジェクトを一気に進めてくださった、と思っています。
 
ケアの社会化って、何を社会化すること?
 
 ちなみにこの次の問い、「どんなふうに責任配分をしなおせるの?」は、山根さんが最後に「お時間のあるときに議論できれば」と誘ってくださった「SAはどのように社会化できるのか」という論点に繋がるものです。実を言うと、SAに対するわたしの関心も、つまるところはそこにあります。依存的存在をケアする責任は家族にある、という家族主義から離れて、ケアの責任を社会全体で分かち合うのがケアの社会化ですが、その前にまず考えなければいけないのは、社会化の対象となるケアってそもそも何なの、という問いです。家族主義のもと、家族が担わされているケアとは何かがわかって初めて、わたしたちはその責任をどのように分かち合えるか/分かち合うべきなのかを、具体的に構想することができます。
 
 わたしが『介護する息子たち』のなかでSAを持ち出したのも、そのためです。家族の間で行われているケア、女性に偏って担われているケアのなかには、まだはっきりと見えていないもの、きちんと言葉にされていないものがいっぱいある。既に見えているケア、もう語られているケアの負担だけを議論の俎上に載せて「ケアの社会化」が進んでも、「見えないケア責任」における男女のインバランスは置き去りにされ、結果としてジェンダー不平等はより隠微に巧妙に、残されてしまうのではないか……。「見えないケア責任」の「見える化」という企てへとわたしを突き動かしたのは、そんな危惧なのです。ご著書である『なぜ女性はケア労働をするのか』の最後で、性別分業を再生産しないケアの社会化の方向を具体的に提案しておられた山根さんですから、マネジメントとしてのSAについても社会化の議論へと進んでいかれるだろう、と予想はしていたものの、山根さんとわたしの関心がシンクロしていることを改めて確認でき、心強く感じている次第です。
 
母たちの苦悩と構造的不平等のリンク――SAのレンズを通して見えるもの
 
 わたしにとっての嬉しい驚き・その2は、山根さんがこのSAを思いもよらない文脈に持ち込んで、使ってくださったことでした。それが、山根さんが披露してくださった、福島から避難されたお母さんたちの困難の分析です。ケアのなかにSAを含めることで、避難されたお母さんたちが直面している苦悩を、ケア責任のジェンダー不均衡がもたらしたものとして描き出すことができる――そんな山根さんの説得力ある分析に心を打たれると同時に、わたしはSAが、これまで曖昧にされてきたジェンダー不平等を「見える化」するための強力なツールになることを、改めて確信しました。前便の最後に書いたことですが、概念の切れ味は、それを現実の分析に実際に使ってみて初めて確かめることができます。避難されたお母さんたちの被った精神的不利益を「ケア=女性の責任」とする構造とリンクさせ、それがいかに不当な経験であるかを説明するためにSAが役に立つのだとしたら、ケアをめぐるジェンダー不平等を告発するためのツールとして、SAは立派にその任を果たしうるのだと言って良いでしょう。
 
マネジメントとタスクは別ものではない
 
 いただいたご返信のなかで圧巻だったのは、「『名もなきケア責任』とは何か」を一目でわかるようにと山根さんが作ってくださったリストです。わたしが本のなかで示したのはあくまでSAのエッセンスだけ、例として挙げたのも一部の家事のみでしたが、山根さんはそのエッセンスをもとに「名もなきケア責任」にカウントしうるしごとを具体的に並べた上、そこにどんな察知・思案・調整のプロセスが含まれているのかを整理してくださいました。少なくとも子どもへのケアに関しては、山根さんの整理のおかげで一挙に「見える化」が進みましたし、このリストを元にすればまだ名指されていないケア責任を探すことも容易になるでしょう。
 
 山根さんがこのように「名もなきケア責任」を腑分けされる際におっしゃったこと、「マネジメントにもタスクが含まれる」という指摘にも納得です。わたしはこれまで、ケアをタスクとマネジメントに分解し、目に見える作業を前者とし、頭のなかで行われているタスクの前提をマネジメントとしてキレイに2つに区別できたつもりでいました。しかし、山根さんのおっしゃるように、わたしがSAの1つとして挙げた「人間関係のマネジメント」も、実際には誰かとの交渉といった目に見える作業までを行って初めてマネジメントになるわけであり、頭のなかだけで行って終わり、というわけではありませんね。だとすれば、この2つは必ずしも独立しているわけではない。したがって、これまでわたしが使ってきたケアの構成(ケア=タスク+マネジメント)は、ご指摘いただいた山根さんに感謝しつつ、修正させていただこうと思います。

「マネジメント=SA」で曖昧になること
 
 他方、タスク込みのマネジメントを丸ごとSAと言ってよいのかどうかには、検討の余地があると思っています。前便の繰り返しになってしまいますが、ジェニファー・メイソンがSAという概念を提案したのは、ケアには目に見えるタスクとして取り出せない営みが含まれていることを訴えたかったからであり、実際、メイソンはSAを、目には見えない「察知」や「思案」(前便では「感知」や「思考」と書きました)に限っています。タスクはむやみやたらに行ってもケアにはならない。相手に何が必要かを「感知/察知」し、必要なもの・ことを現在の状況でどのように提供しうるかを「思考/思案」した上でタスクが行われたとき、そのタスクは初めてケアとして機能する。それがメイソンの主張でした[1]。
 
 マネジメントにおけるタスクについても同じことが言えるでしょう。山根さんのリストに即して言えば、例えば保護者どうしの連絡といったタスクも、それが「察知」や「思案」を経た上で行われているからこそ、子どもへのケアになりうる。逆に、やり方しだいでは保護者どうしのやりとりが必ずしもその子の支えにはならず、かえってその子を難しい立場に置いてしまうかもしれない。マネジメントには、見えない「察知」「思案」と、見えるタスクの両方が含まれている、というのはまさにその通りだと思いますが、それら全部をひっくるめたマネジメントをイコールSAとしてしまった場合、メイソンがSAを提案した目的(「タスクが何をもたらしうるかはSAに依存している、ということを訴えたい」)からは、距離ができつつあるのでは、という懸念が残ります。

マネジメントにおける性別分業
 
 SAとタスクの区別は、ケア責任のジェンダー不均衡という観点からも大事なものでした。これも前便の繰り返しになって恐縮ですが、タスクが誰かのケアになるために、それをどんなタイミングでどのように行えばいいかという「作業工程」は、「察知」と「思案」を経た試行錯誤の上にできあがります。しかし、ひとたびその「作業工程」さえできてしまえば、それに則って別の誰かが同じタスクをケアとして行うことも可能です。「作業工程」確立のための見えないしごとをSAとして独立させたのは、この見えないしごとが女性に偏って担われていること、したがって、目に見えるタスクを男性が担うことが増えてもケアに係る負担には男女間の不均衡が残っている可能性があることを、説明するためでした。
 
 ひょっとしたら、同じことはマネジメントに関しても起こっているかもしれません。つまり、マネジメントにおけるタスクをどう行えばよいか、という「わが家のマネジメント・マニュアル」は、女性が主に作っている/作らされているかもしれない、ということです。例えば、子どもに関するどんな情報を得たいとき、親どうしのLINEグループを使うとよいのか。子どもの世話を誰かに任せたり預けたりしたいとき、いつまでに誰にどのように連絡しておくとよいのか。そういう「マニュアル」は大抵お母さんが試行錯誤の上に編み出していて、お父さんはそれを利用しているだけ、ということもあるかもしれません。
 
 もちろん、実際にタスクを行う場合には、日々の状況にあわせてやり方を多少変えることもあるでしょう(山根さんがおっしゃっていた「ルーティーンの調整」)。また、子どもの生活環境が大きく変われば、マニュアルに大幅な改訂が求められます(同じく「再調整」)。ただし、それらの変更が可能なのは、変更すべき「マニュアル」が既にあるからです。そういう「マニュアル」を何もないところから作り上げること、いわば「マニュアルver.1.0」のひねり出しに係る苦労は相当なものでしょうし、その「ver.1.0」は大抵お母さんのソロ作品ということもありえます。
 
 見えるしごとと見えないしごとのどちらもSAに含めてしまうと、「マニュアル」作成においても生じているかもしれないジェンダー不均衡は、うまく取り出しにくくなる可能性があります。なぜなら、女性が作った「マニュアル」に則って、男性がマネジメントのタスク(=見えるしごと)だけを行っている場合でも、彼らが行っていることはSAに含められるからです。「マニュアルver.1.0」を編み出すための「察知」「思案」もSA、マネジメントにおけるタスクもSAだとすると、「男性も女性もどちらもSAをやっている」「男女がSAを分かち合っている」と言うことが可能になります。あるいは、男性がその一部を担ってくれている分、SAに係る女性の負担は「軽く」なっている、と言うことも可能かもしれません。
 
 これは、ケア責任をめぐるジェンダー関係について、メイソンが言いたかったこととはだいぶ異なります。メイソンがSA概念を提案して訴えたかったことは、男性がいくらタスクだけを担っても、ケアに係る負担は不平等のままになりうる、ということでした。日々の生活のなかでどうタスクを組み合わせ回せばよいのか、という「察知」と「思案」の成果こそが、タスクがケアとして結実するカナメになっているのに、その見えないしごとの部分は女たちに任せきり。どうタスクをこなせばよいのか男たちがわかっているのも、彼らがするタスクがケアとしてうまくいっているのも、女たちの成果にただ乗りしているからじゃないのか。つまり、タスクに(のみ)いそしむ男たちのケアへの参加は、男女間でのケアの「分かち合い」とはほど遠い――それを訴えるために、メイソンはSAを「察知」「思案」に限定し、タスクをそこから区別しておこうとしたのでしょう[2]。

「思案」と「調整」の微妙な関係
 
 繰り返しになりますが、わたしはマネジメントにタスクを含めることに異存はまったくありません。わたしがここでお伝えしたいのは、タスク込みのマネジメントを丸ごとSAとしてしまうこと、SA概念の拡張への懸念です。拡張SAのもとでは、見えないしごとも見えるしごとも、同じSAの構成要素として並列されます。その場合、見えるしごとは見えないしごとの上に行われているからケアになる、という依存関係は見えづらくなりそうですし、マネジメントにおけるタスク(だけ)を男性が担うことも男女間でのSAの「分かち合い」だと言うことが可能になります。概念をどう定義するかによって現実の描き出し方が変わることを踏まえ、SAをどこまで拡張してよいか、という慎重な検討が必要でしょう。
 
 ところで、お気づきのことかと思いますが、わたしはさっきから「察知」と「思案」という単語はたびたび出しているものの、もう一つの「調整」には全然触れていません。というのも、山根さんのお手紙を読んでいて、「調整」(の一部)を「思案」に含めてしまってよいかな、という気がしてきたからです。
 
 山根さんが「マネジメントにはタスクも含まれている」と明確にしてくださったように、自然資源や社会資源の調整は、目に見える作業をすることで初めて可能になります。頭で思っていただけでは実際に資源を調整したことにはなりませんから。ただし、見える作業としての調整をどう行うかという、いわば「調整プラン」を考える作業は、頭のなかで行われている。これは「思案」に入ると言ってよいでしょう。
 
 SAを目に見えないしごとに限定したいわたしは、「調整」のうち、頭のなかで行われているプランニングの過程だけをSAにしたい。でも、そういうプランニングは既に「思案」の語で言えてしまっているから、敢えて「思案」と「調整」、と言わなくてもよいかな、と思うようになりました。(逆に、「思案」と「調整」、と言ってしまうと、そこでの「思案」は「調整」のためのプランニングを含まないもの/含めないものだよ、だから分けているんだよ、という意味にもなってしまうでしょう。)そういうわけで、わたしは「察知」と「思案」いう言葉しか使っていないのですが、それは「調整」を忘れたわけでも軽んじているわけでもないことを、このあたりで一度、ちゃんとお伝えしておこうと思います。

活動とは、やろうと思わなきゃできないこと
 
 SAを見えないしごとに限定することには、別の意味もあります。それは、わたしがメイソンにならって「察知」や「思案」を活動(activity)と呼び続けた理由でもあります。
 
 山根さんは、わたしがSAを労働ではなく活動と表現していることについて、SAを通して行われる調整は労働の一つにカウントできるし、その他の家事とあわせて家庭で行われているアンペイドワーク(不払い労働)に含められる、と書かれましたが、わたしもこれに100パーセント同意します。いや、わたしだけでなく、おそらくメイソンもこれには賛同するはずです。前便でも触れたように、メイソンはSAの好例としてマージョリー・ディヴォートの研究を挙げていますが、ディヴォートの研究の目的は、料理というタスクに先立って行われている諸々の段取りや、食事中に、あるいは食事を通して行われる家族関係のメンテナンスも、女性ばかりが担わされているアンペイドワークである、と論じることだったからです[3]。
 
 ではなぜメイソンは、「察知」や「思案」を活動と呼ぶことにこだわったのか。それは、相手の求めているものに気づいたり、「何とかしてあげなくちゃ」と思ったりというのは、それを「やろう」「やらなければ」という構えなしにはできないこと、その意味で、能動的(active)に行われていることなのだということを、強調したかったからです。そして、このことは意外と忘れられています。
 
 例えば、ケアに含まれるさまざまなしごとのうち、目に見えるタスクの方であれば、それを行うことを活動と呼ぶことに違和感を覚える人は少ないでしょう。台所に立って調理をするのも、汚れた衣服を集めて洗濯機にかけるのも、「やろう」「やらなければ」と思って自分で自分を動かさなければできないことだからです。
 
 それに対して、「察知」や「思案」は、しばしば「お気持ち」や「お人柄」の問題にされてしまいます。例えば、「子どもを心から慈しんでいるからこそ、その子の発するメッセージに気付けるのだ」とか。あるいは、「あの人は思いやりにあふれた人だから、よく気を回してみんなを助けてあげられるのだ」とか。要するに、それらは愛情や人格の結果であり、慈しむ気持ちや、思いやりにあふれた性格さえあれば、「自然」にできるようになることだ、という理解です。
 
 「察知」や「思案」も活動である、という見方は、こういう理解に疑義を呈します。タスクと同様、それらも活動なのだとしたら、相手が求めていることに気づいたり、その求めにどうしたら応じられるかと心を砕いたりできるのは、能動的にアンテナを張り巡らせ、自分の認知機能を相手のために割くことによって初めて可能になっているからだ、と。動ける身体さえ持っていれば自動的にタスクができるわけではないように、「察知」も「思案」も愛情や人格さえ備わっていれば「自然」にできるわけではない。積極的であれ消極的であれ、それを「やらなければ」という立場を引き受け、自ら「やろう」と思っているからこそやれているのだ、と主張することができるようになるのです。このように「察知」や「思案」がいかに能動的に行われている活動であるかを独立して且つ徹底して論じるために、メイソンはSAを見えないしごとに限定して考えていたのだと思います。

資源の問題を見えなくする「お気持ち」「お人柄」
 
 タスクの実行と同じく「察知」や「思案」も活動なのだとすれば、そのどちらについても、それを行うための資源が必要であり、したがって、それをどのように行えるかは、利用可能な資源の量に制約されている、と考えることもできます。例えば、一つ一つの家事タスクをどれだけじっくり行うことができるかは、その人がもっている時間的資源や経済的資源、それから、健康という資源にも左右されます。就労や他の仕事が増えれば家事に割ける時間は限られますし、同じ家事を行う場合でも、お財布の余裕によってそれをどのように行うかのオプションの幅が狭まります。例えば、家事を助けてくれる便利な道具や器械はいろいろ売っているものの、そのうちのどれをどれだけ使えるかは懐具合に左右されるからです。また、心や体の状態に不調が生じれば、家事のタスクを思うように行うことができないのは、言うまでもありません。(ついでにいうと、これらの資源は相互に関連しあっています。経済的に困難を抱えるがゆえに、収入を上げようと仕事を掛け持ちして、家事も含め、仕事以外のことに割ける時間がなくなる。そして、十分に休む間もなく働き続けることで、メンタルの健康も体の健康も損なわれていく、というように。)
 
 タスクの実行が資源の量によって左右されるなら、同じく活動である「察知」や「思案」だって、そのやりやすさは資源の制約を受けている、と考えることができるでしょう。限られた時間のなか一人で誰かの世話をせざるをえず、経済的にぎりぎりのところで日々の生活をまわすことに常時不安を抱えながら、心も体も限界に近づいている状態では、目の前の相手に何が必要かに気づいたり、どうしたらそれを叶えられるか、その手立てをいろいろ考えてみたり、という(目に見えない)活動はどんどん難しくなります。だとすれば、上に書いたことは少し訂正をしなければいけません。先ほど、活動は「やろう」「やらなければ」という構えのもとでないと行いえない、と書きましたが、そういう構えがありさえすれば、活動は行えるというわけでもありません。「やろう」「やらなければ」という構え自体、利用可能な資源の制約によって挫かれることもあるからです[4]。
 
 いずれにせよ、「察知」や「思案」が活動なのだとしたら、それを(どの程度)行いうるかは時間やお金、健康といった資源の量に大きく影響されている。したがって、もし「察知」や「思案」を行うことができないのだとしたら、そこで足りていないのは愛情や人格などではなく、そうした資源の量かもしれないのです。あるいは、こうも言えるかも知れません。子どもへの愛情や親にふさわしい人格というのは、時間やお金、健康といった資源によってつくられるのだ、と。なぜなら、上で述べた理解(「察知」や「思案」を「お気持ち」や「お人柄」の問題にする理解)のもとでは、子どもの発するメッセージに気づいたり、子どもの支えになる手立てをあれこれ考えてあげられたりすることこそ、子への愛情や親にふさわしい人格のあらわれだと考えられていましたが、そういう愛情や人格のあらわれを可能にしているのが諸々の資源だからです。
 
 誤解のないように付け加えますが、わたしは、時間やお金がなければ、あるいは健康でなければ、子どもを愛することはできない、と言っているのではありません。そうではなくて、子どもをどれだけ愛しているかと、どれだけSAができるかは同じではない、ということです。大切な存在だからこそ本当はもっと子どものサインに敏感でいてあげたい、と思いながらも、さまざまな資源の制約によりそれがなかなかかなわないことに、ジレンマを抱えている親御さんは多いはずです。だとすれば、SAだけを愛情のあらわれと見なし、SAが思うようにできないことを愛情の欠如のように直ちに見なすことはおかしい。わたしが主張したいのは、そういうことです。そして、そういう主張は、SAを、資源を要する活動と考えることで初めて可能になります。

構造が決める、誰がどれくらい資源を使えるか
 
 「察知」や「思案」といったSAも活動であり、それが時間やお金、健康といった資源に左右される、と考えることは、SAがうまくできないことの原因を個人の能力や素質ではなく、その資源を配分する社会の構造に求めることが可能になります。例えば、就労によってSAにかける時間がままならなくなるのだとしたら、それはケア責任を誰かに委ねることを前提として働くことを認める就労制度のせいかもしれない。経済状態・生活状況の厳しさからSAがおざなりになってしまったり、あるいはそもそもその厳しさ自体、ケアを要する誰かを抱えることによって生じているのだとしたら、それは育児や介護を担う人々それぞれに十分な資源が流れるようできていない再分配のシステムのせいでしょう。
 
 時間やお金に関しては、「資源が構造に規定されている」というのは見当がつきやすいと思いますが、健康という資源については少し説明が必要かもしれません。
 
 端的に言えば、身体・精神の機能が直ちにSAの実行可能性に繋がるような状態をつくっているのが、社会の構造だということです。わたしたちは多かれ少なかれ、自分の心身に関してどこか「ままならなさ」を抱えています。その「ままならなさ」には、病気やケガなどで一時的に生じるものもあります。あるいはもっと恒常的に抱えているものや、生まれたときから抱えているものもあるでしょう。このような「ままならなさ」が、SAを行うことを難しくさせるのだとしたら、人々が「ケアする権利」――ペナルティを受けることなく誰かのケアに携われる権利――を平等に有するためには、SAが難しい場合/難しくなった場合には必ずフォローが得られるよう、社会のしくみができていなければなりません。
 
 しかし、現実はそうではない。「ままならなさ」によってSAが難しくなれば、わたしたちはただ難しい状態のままにとどめおかれます。だからこそ、身体・精神の機能がSAの資源になりうる(あるいは、なってしまう)のです。そして、「ままならなさ」へのフォローがまったくない社会では、「ままならなさ」をまったく抱えていない状態という、生身の人間としてはありえないくらい特殊な状態でない限り、ケアに携わる上での何かしらのハンディを経験することになります。資源とは希少価値があるからこそ資源になるわけですが、「ままならなさ」からの解放(=健康と呼ばれる状態)に希少価値を与えているのは、そのようなフォローなき社会です。健康という資源が構造に規定されている、というのは、そういう意味です。
 
 「察知」や「思案」といったSAが構造に規定された資源に左右されている、という事実は、それらが愛情や人格の問題とされている限り、見えてきません。「お気持ち」「お人柄」による理解は、SAの責任のすべてを個人に押し付けます。「子どもが発するサインを見逃したのは、子どもへのあなたの愛情が足りていないからだ」「子どもの求めるものに応じる手立てをちゃんと考えられないのは、あなたが親としてなっていないからだ」というように。でも、ここまで繰り返し述べてきたように、子への愛情や親らしい人格があれば「察知」や「思案」が「自然」にできるものでもないし、逆に言えば、「察知」や「思案」が期待していたようにできなかったからといって、それが直ちに愛情不足や人格的問題を示すわけではないのです。
 
 SAをどのように行いえたか、それがどのような結果を招いたかというSAのプロセスと帰結をすべて個人に原因帰属する理解によって隠蔽されてきた、構造的な資源配分の問題を語れるようにすること。それは、見えないSAを能動的に行われる活動として理解することで、語れるようになったのだと思っています。

「ケアはあなたの務め」「ただし資源はご自分でまかなって」
 
 すみません、勢い長々と書いてしまいましたが、「察知」や「思案」が「お気持ち」や「お人柄」から生まれるものでないことについては、山根さんには釈迦に説法であることは重々承知しています。女性のケア能力に関する理解のされ方を批判的に検討されるなかで、ケアの受け手に必要なこと・ものを察知することが愛情によって達成されるわけではないことを論証されたのは、ほかならぬ山根さんですから[5]。
 
 他方、わたしが「お気持ち」「お人柄」による理解をしりぞけ、資源を要する活動として「察知」や「思案」を考えたいと改めて思ったのは、山根さんのお手紙のなかで、福島から自主避難されたお母さんのお話を読んだからでした。お母さんたちの苦境は、SAには資源という基盤が必要であること、にもかかわらず、その資源が不足したままSAの責任を負わされ続けていること、そして何より、それがいかに難しい状況であるかがきちんと理解されていないことに由来しているように思えたからです。
 
 山根さんがおっしゃるように、子どもの健康に対する責任を、社会が母親にばかり求めてくる、というのはその通りだと思います。ただし、より正確に言うならば、社会は責任を求めるだけで手は貸さない、(あるいは、むしろ邪魔立てしてくる)というのが実情でしょう。実際、山根さんのお手紙には、お母さんたちが子どもの心と体を健やかに保つための手立てをいかに自分ひとりで考え、実行しなければいけなかったかが克明に描かれていました。
 
 子どもの生活に関わる自然資源・社会資源を、SAを通して再調整するプロセスには、情報を集め、思案し、判断を下すという活動が含まれる、と山根さんはお書きになりましたが(後でもう一度触れますが「暫定的ニーズ」の判定ですよね)、これらの活動は認知機能を駆使しなければ行えません。この認知機能をどれだけ働かせられるかは、時間的余裕や心身の状態、すなわちSAに要する資源に左右されますが、原発事故後、それらの資源はむしろ不足していたでしょう。
 
 そのような非常時には、生活の再調整を迫られる局面が次々にやってきます。だとすれば、調整に係る資源は平時以上に求められるでしょう。しかし、その資源は、必要に応じて直ちに提供してもらえるものばかりではありません。たしかに前にも書いたとおり、使える資源は社会のしくみによって規定されているので、SAに要する資源を社会に求めることは、ある程度はできます。例えば、ケアに携わるための時間的資源をもっと得られるよう、長時間労働を「ふつう」とせず、また柔軟な働き方を可能にする就労システムに作り替える、といったように。でも、だからといって、非常時に足りなくなったSAの資源そのものを社会が補ったり増やしたり、ということは必ずしもできません。ちょっと突飛な例で恐縮ですが、災害に直面し、重要な決断を次々に迫られているからといって、じっくり考えることが可能になるよう一時的に使える時間を増やす、という対応は不可能でしょう。つまり、SAに必要な資源を必要に応じて提供する、ということには限界がある。そして、個人が得られる/もらえる資源には限界があるのなら、SAの責任を特定の個人だけに集中させてはいけない。だからこそ、山根さんが前便で書かれていたように、調整の責任をたった一人で負わずに済むしくみが求められるのだと思います。
 
 非常時にはSAに係る資源が特に求められ、にもかかわらず、資源そのものを直ちに提供することが必ずしもできないのだとしたら、そのような状況下でSAの資源は常に不足しうる。だとすればそこでSAを担うことは誰にとっても困難だったはずです。その、誰にとっても困難なことを、「子どもの健康=母親の責任」という構造のもと、たった一人で背負いこまされていたのが原発事故後のお母さんたちでしょう。そんな無理に近い状況マネジメントを母親として、あるいは母親というだけで、こなせなければいけない。お母さんたちが受けたそういう理不尽な圧力を視野の外において、事故の後にとったお母さんたちの行動を理解することはできないし、また理解しようとしてはならないでしょう。
 
 例えば、必ずしも一貫性のない膨大な情報が錯綜するなか、それらの情報を腰を据えて検討する時間的余裕は、おそらくなかったはずです。放射線被曝のリスクが実は高いのだとしたら、情報を吟味しているこの間にすらも、子どもの健康は脅かされるかもしれない。それならば、まずは今いる場所から遠ざかろう、そうして少しでも落ち着いて情報を吟味し、様子を見られる状況をつくろう――そう思って何よりもまず物理的距離をおくことを優先したくなるのは、SAに要する資源をお母さんたちが自分自身で捻出せざるをえないからでしょう。子どものためのSAという見えないケア責任を常に負わされ、それなのに必要な資源を社会に求めることもかなわない。そんな母親たちの構造的な位置を前提にすれば、マネジメントの一つの手段として、お母さんたちが「まずは避難を」と考えることには根拠があるといえます。その意味で、自主避難したお母さんたちのとった選択は、山根さんのおっしゃる通り、「理に適っている」とわたしも思います。
 
 急いで付け加えておくと、自主避難の選択が「理に適っている」からといって、避難しなかったことが「理に適っていない」という意味ではありません。そうではなくて、ここで強調したいのは、お母さんたちの選択も、選択の過程や選択後に経験した困難も、たった一人でSA責任を果たすことを求められるという、母親の置かれた理不尽な立場に照らして初めて説明可能になる、ということです。結果として避難を選んだ場合でも選ばなかった場合でも、その理不尽さにさらされていたことの影響は変わりません。むしろ、どちらかの選択だけを「理がある」とすることで、お母さんたちのあいだに差異を打ち立てようとする説明は、ジェンダーによる不均衡なケア責任の配分のもと、原発事故後、どのお母さんも、SAを果たさねばならないプレッシャーにひとり立ち向かわされていたという事実を覆い隠すでしょう。
 
 言い換えれば、お母さんたちの苦渋の選択を「非合理的」と簡単に言えてしまうのは、SAには資源が必要なこと、非常時にはとりわけそれが求められること、そして、女性たちはいつもその資源不足の困難を自助努力で解決させられてきたのだ、という現実がまったく見えていないから、と言ってよいでしょう。山根さんは、お母さんたちによる自主避難が「感情的」「女性のヒステリー」によるものだと否定的な眼差しを向けられてきた、と書かれていますが、このようにSAの結果をすべて「お気持ち」「お人柄」の問題にする理解こそが、SAの実行可能性が社会的に規定/制約されている――そもそもあらゆる資源が提供可能とは限らない、ということも含め――という事実を隠蔽してきたというのは、わたしが上に書いてきた通りです。

「何が必要か」と「どのようにそれをするか」の距離
 
 SAをめぐって、山根さんはもう一つ重要な指摘をされています。それが「暫定的ニーズ」についての指摘です。相手に何が必要かというのは、必ずしも明確に「察知」できるわけではない。したがって、誰かをケアする役割を担う人は、自分の知識や観察情報に頼りながら、その時点において相手にとって良いと判断されることを行うしかない。しかし、その判断は、必ずしも確信をもってなされるわけではないし、事後的に覆される可能性もある。ケアに携わる責任とは、相手にとっての最善に関する暫定的な判断の責任を引き受けることである、と。
 
 山根さんが「暫定的ニーズ」を言語化してくださったおかげで、「察知」や「思案」といったSAを前提にタスクを行うまでのケアのプロセスが、いかに単線的に進まないかがよくわかるようになりました。山根さんのお話に付け加えるとすれば、ニーズをいかに満たすかについてもまた「思案」が求められる、ということでしょう。「何が必要か」についてたとえ暫定的であれ答えを出せたとしても、それを実現させるための具体的な解はそこから自動的に出てくるわけではない。必要なものを、この状況でいかに提供できるかの判断がやはり必要になります。
 
 わたしは現在、高齢者の終末期ケアの研究をしています。いわゆる老衰の先の終末期では、本人の明確な意思表示を得られることはほぼないため、最期の時の過ごし方について事前に希望を聞いておくのが良いとされています。しかし、たとえ本人が希望を伝えていたとしても、ケアに携わる人が、その希望を具体的なケアの方法に「翻訳する」というしごとから解放されるわけではありません[6]。
 
 例えば、終末期に関する希望を尋ねると、「延命医療はやめてほしい」「過剰な処置は必要ない」と言う人は少なくありません。そして、この希望は一見、ケアのしかたについて指針を与えているように思えます。しかし実際のケアの場面で、この希望をどう反映させるかの答えは必ずしも簡単には出せません。まず、延命医療という名前の医療は、医学的にはありません。延命には「必ずしもやらなくてもよいことをして寿命を延ばしている」というニュアンスが込められがちですが、何が「やらなくてもよいこと」なのかどうかには、たとえ専門職であっても同じ理解をもっているわけではありません。だとすれば、「延命医療をやめてほしい」という本人の意思表示さえあれば、具体的なケアの方針が自動的に定められるわけではありません。
 
 「過剰な処置」についても一緒です。高齢者が最期に近づいてからの「過剰な処置」というと、一般的には管で機械につながれていることを想像する人が多いのですが、そういう「過剰」のイメージから最も遠そうな、例えば点滴による水分補給であっても、最期の場面では苦痛をもたらしうる「過剰な処置」になることがあります。要するに、「過剰はやめて」という希望を把握していたとしても、何をしたら「過剰」になってしまうのかは、そのときの状態・状況をもとにその都度判断するしかない。その意味で、希望には常に「翻訳」が必要となります。
 
 そして何より難しいのは、これらの希望は、必ずしも簡単に賛同できないわけではない、ということです。山根さんはお手紙で、「本人が表明した希望に沿うのがよい」わけでは必ずしもない例として、子どもが「お菓子を食べたい」と言ったからといって、その通りにお菓子を与えれば適切なケアになるわけではないことを指摘されました。だからこそケアを担う人は、受け手の希望にただ従うのではなく、自分自身で「この相手にはいま・ここで何が必要か」の現実的な判断をしなければいけないのだ、と。
 
 この指摘にはもちろん同意しますが、わたしが付け加えたいのは、仮にケアの受け手の希望がわかっており、また、その希望がケアの与え手にとっても賛同できるものであっても、個々の場面で何をするかという判断から解放されるわけではない、ということです。「昔のぼった富士山の上で最期を迎えたい」という希望に比べれば「最期に過剰な処置はやめて」という希望は「ではその通りにしましょう」と思いやすいかもしれませんが、それでも、その希望を日々のケアにどう反映させればよいのか、何をしたら反映させたといえるのか。それらをその都度考え、取り決める作業は、依然として残ります。そういう意味では、「希望に従う」という表現はミスリーディングです。「従う」というイメージから想像できるほど、本人の希望はそれがどのようなものであれ、明確で具体的なインストラクションをケアの担い手に与えてくれるわけではないからです。
 
 何を言いたいのかというと、ケアにおける判断の難しさや、判断の責任を負う不安は、自分にいま何が求められているのかが「わかった」としても解消されるわけではない、ということです。向かうべき方向(例えば、「最期が近くなったら過剰なことをしない」)は「わかって」いるけれど、自分が果たしてその方向に向かっているのか(例えば、今していることは「過剰なこと」に当たらないといえるのか)がわからないからこそ、ケアに携わることには不安がついてまわる、というほうが、わたしの不安の感覚には近いかもしれません。
 
 暫定的であれ、何が求められているかにいったん答えを出したとしても、ではそのために何をすればよいのかを考える日々の認知的作業=SAの負担は残ります。ニーズが「わかる」ことと、それを満たす方法が「わかる」ことには距離があること、明確且つ受け入れ可能な本人の希望があっても、何をするかという判断の責任と不安は残っていること。それを改めて強調しておきたいと思った次第です。

「名もなきケア責任」をどう分かち合うのか
 
 いずれにせよ、山根さんの「暫定的ニーズ」の議論を手がかりとして、この人には何が必要かを見きわめる場合はもちろんのこと、何が必要かを(暫定的に)判断したとしたのち、それをどのように提供するべきかを判断する場合でも、答えは複数ありうることを明確にできました。もちろん、選択できる答えは無限ではなく、山根さんがお手紙に書いてくださったように、「何がケアといえるか」という文化的な常識や、「先立つもの」を含めた物質的な環境・状況によって限定されています。だとしても、答えは自動的に定まるわけではない。ニーズを見きわめる場合も、それをいかに満たすかを考える場合も、答え探しには常にSAという活動が必要なわけです。そして、わたしが今回しつこいくらい強調したのは、そのSAをするのにもいろんな資源がいる、ということでした。
 
 さて、山根さんのお手紙に触発されながら、ここまで「SAとは何か」をあれこれと考えてきましたが、冒頭でも述べたように、山根さんとわたしの目線の先には「ケアの社会化」という共通の問題関心があります。SAも含めた「名もなきケア責任」を家族のような私的領域に閉じ込めるのではなく、どのように広く社会のなかで分かち合っていくかという関心です。
 
 これを考えるにあたって、わたしたちが必ず取り組まなければいけない問いがあると思います。それは、「どうしてここまでSAは――あるいは、SAも――女性が担うことになっているか」ということです。「名もなき家事」が注目を集めた理由がまさにそうですが、タスクレベルのことならする男性が増えたとしても、SAのような見えないしごとや、「名もなきケア責任」としてのマネジメントは女性ばかりがやっている。この認識は、山根さんとわたしの間でも共有されていると思います。これはどうしてなのか、というクエスチョンをもう少し突っ込んでみる必要があるのではないでしょうか。
 
 例えば、山根さんはご本のなかで、ケアの社会化が進んだとしても、それは必ずしも「ケア=女性の責任」という構造を揺るがすとは限らないということを、明らかにされましたよね。「介護の社会化」をうたう介護保険制度のもとで一般的になったケア専門職のあいだでも、男女間の階層性は残ってしまいうる。そしてそれは、家庭のなかでの女性への抑圧とも相互にリンクしている、というように。だから、ケアの社会化を考えるためには、性別分業を再生産させずにすむケアの社会化の方向を目指さないといけないのだ、と。
 
 同じことは、SAも含めた「名もなきケア責任」についても言えるでしょう。つまり、「名もなきケア責任」を社会化していくにしても、その進め方いかんでは、その担い手は公私領域を横断して女性に偏ってしまうのではないかと。だからこそ、なぜ「名もなきケア責任」は(あるいは、なぜ「名もなきケア責任」も)女性のしごとであり続けているのか、という問いは、きちんと考えておく必要がありますよね。例えば、山根さんがご本のなかで出された「なぜ女性はケア労働をするのか」への答えは、SAやSAを通したマネジメントにおいても適用可能だと思われますか。
 
 ちなみに、これと表裏一体になっている問いが、どうして多くの男性は「名もなきケア責任」を果たさずに済んでいるのか、という問いです。わたしは、SAには資源が必要だと書きましたが、だとすると、男性が「名もなきケア責任」を担わない/担えないのは、その資源が足りないからだ、という説明も成り立ってしまいそうです。そして実際、男性学の界隈では、そういう説明がされることがあります。例えば、男性はもっと家庭でのケア労働に携わりたいのに、長時間労働を前提とする現行の就労システムのせいでそれが叶わないのだ、と[7]。しかし、資源が不足しているのは男性に限らないはずです。現在の就労システムが女性にだけ柔軟な時間の使い方を認めている、なんてことはないはずだからです。だとすれば、「名もなきケア責任」のジェンダー不均衡の問題は、実際に資源がどれだけあるか、だけの問題ではない。資源が足りないことを「ケアをしない/できない」ことのエクスキューズにできてしまえる男性と、たとえ資源が足りない場合でも、ケア責任を引き受けることを求められる女性、という不平等にこそ、この問題の本質があると言えるでしょう。要するに、資源の不足を「言い訳」にできることこそが、男性の持つ特権なのです。
 
 ただ、そのお話まで始めるといつまでも締まらないので、ここでいったん筆を置かせていただきます。次の議論の呼び水っぽいものも垂れ流してみましたが、それに限らず山根さんの自由なお考えを聞かせていただけるような、そんなお返事をいただけたら幸いです

2018年2月
平山 亮
 


次回は、山根純佳氏が2018年3月にご登場です。[編集部]
 
【プロフィール】平山 亮(ひらやま・りょう) 1979年生。2005年東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了、2011年オレゴン州立大学大学院博士課程修了、Ph.D.(Human Development and Family Studies)。現在、東京都健康長寿医療センター研究所 福祉と生活ケア研究チーム研究員。著書に『迫りくる「息子介護」の時代』(共著、光文社新書、2014年)『きょうだいリスク』(共著、朝日新書、2016年)。気鋭の「息子介護」研究者として、講演、メディア出演多数。『介護する息子たち 男性性の死角とケアのジェンダー分析』のたちよみはこちら→「序章」「あとがき」
 

[1]Mason, Jennifer, 1996, Gender, care and sensibility in family and kin relationships. In Sex, sensibility, and the gendered body (pp. 15 – 36), edited by Janet Holland and Lisa Adkins. London, England: Macmillan.
[2]フェミニスト老年学者のトニ・カラサンティは、「男性もケアをしている」と主張する男性のジェンダー研究者の多くが、見えないしごととしてのSAの負担には触れずにそう主張していることを指摘しています。Calasanti, Toni, 2003, Masculinities and care work in old age. In Gender and ageing: Changing roles and relationships (pp. 15 – 30), edited by Sara Arber, Kate Davidson, and Jay Ginn. Maidenhead, England: Open University Press.
[3]DeVault, Marjorie L., 1991, Feeding the family: The social organization of caring as gendered work. Chicago, USA: University of Chicago Press.
[4]もちろん、見えるタスクと見えないSAでは、必要な資源は必ずしも同じではないかもしれません。しかし、「タスクとSAに要する資源がいかに異なるか」という問いは、見えるしごとと見えないしごとを区別するからこそ考えられる問いでもあります。
[5]山根純佳,2010,『なぜ女性はケア労働をするのか:性別分業の再生産を超えて』勁草書房 より「女性の感情、感情労働とケア能力」(pp. 159 – 61)。
[6]本人の事前の意思表示があったからといって、終末期の場面で何をすればいいのかが直ちにわかるわけではないことを示した実証研究としては、例えばDitto, Peter H., Joseph H. Danks, William D. Smucker, et al. (2001). Advance directives as acts of communication. JAMA Internal Medicine, 161, 421 – 430.
[7]例えば、男性学研究者の多賀太さんは、現代の男性は家事育児への参加が求められる一方で、旧態依然の就労システムのもと、一家の稼ぎ主とならねばならないプレッシャーにもさらされている「役割期待の増大」を、男性の「生きづらさ」の一つに挙げています。多賀太,2016,『男子問題の時代?:錯綜するジェンダーと教育のポリティクス』より「第2章=男性支配のパラドックス:男の生きづらさ再考」。
 
 
》》山根純佳&平山亮往復書簡【「名もなき家事」の、その先へ】バックナンバー《《
 
vol.01 見えないケア責任を語る言葉を紡ぐために from 平山 亮
vol.02 女性に求められてきたマネジメント責任 from 山根純佳
vol.03 SAには「先立つもの」が要る――「お気持ち」「お人柄」で語られるケアが覆い隠すこと from 平山 亮
vol.04 〈感知・思案〉の分有に向けて――「資源はどうして必要か」再考 from 山根純佳
vol.05 思案・調整の分有と、分有のための思案・調整――足並みを揃えるための負担をめぐって from 平山 亮
vol.06 なぜ男性はつながれないのか――「関係調整」のジェンダー非対称性を再考する from 山根純佳

「名もなき家事」の、その先へ

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ジェンダー研究者・山根純佳×『介護する息子たち』著者・平山亮による、日常に織り込まれたジェンダー不均衡の実像を描き出し、新たなジェンダー理論の可能性をさぐる交互連載(月1回更新予定)。「ケアとジェンダー」の問題系に新たな地平を切り拓き、表層的な“平等”志向に陥らない「家族ケア」再編への道筋を示します。