「名もなき家事」の、その先へ――“気づき・思案し・調整する”労働のジェンダー不均衡 連載・読み物

「名もなき家事」の、その先へ――“気づき・思案し・調整する”労働のジェンダー不均衡vol.12[対談]社会はケアをどのように分有し、支えるべきなのか/山根純佳・平山亮

 
「名もなきケア責任」のジェンダー不均衡をめぐって始まった平山亮さんと山根純佳さんの往復書簡連載。ここまで11回にわたり続けられてきた応答の最後を飾る対談を、本編・後記の2回に分けてお届けします。
新型コロナウイルス感染拡大に伴う世界的「緊急事態」のなかで、生(life)を支えるケアという営みの重さを、私たちは改めて噛みしめています。同時に、切迫した状況でそのケアを担う人びと・担わざるをえない人びとをどのように支えるべきなのか、また、不安と不調に直面し、ケアを待ち望む人びとのニーズにどのように応えていくべきなのかという問いもまた、この上もない喫緊の課題として私たちの眼前に突きつけられています。
社会はケアをどのように分有し、支えるべきなのか。現実を注意深く観察し、よりよい社会を構想するために。[編集部]

 
 

他者のニーズに応えること・応えようとすることで失われるもの

 
山根 連載第10回の平山さんのお手紙を読んで思ったのは、男性が公的領域でやっている「忖度」と、これまで私たちが考えてきた「SA」(“気づき・思案し・調整する”労働)は似て非なるものではないか、ということでした。なので、まずこの点からお話を始められたら。似て非なるものというのは、つまり、忖度は自己利益のためにやっているけど、他者のニーズを思案してそれに応えようとするSAって、自分の利益を逸してもおこなわざるをえないところに苦しみがあるのではないか、ということです。相手にとって最適なことをしようと思ったら、自分の時間や労力を削ることになる。男の人が脆弱な他者のニーズを「察知」したり「思案」したりしないのだとすれば、それは、自分が損するのを避けようという機制なのではないか、と。
 
平山 忖度とSAがそれを行うことによって得られるものという点で異なるというのには100%同意するんですけど、私が忖度を持ち出したのは、「社会化の違いにより、男性には他者のニーズを汲み取り、それに応える能力が女性に比べて少ない」という性差に関する言説を否定するためでした。自己利益のためならば忖度するし、できるのであれば、男性はニーズをそもそも汲み取れないというわけではないはずだから。わたしがお手紙で言いたかったのは、そちらのほうです。
 
他方で、男性がSAをするのは見返りがあるからだ、という考え方については、特に、そこでいう見返りとは何なのか、という点について、もう少しちゃんと考えたほうがよいかもしれないな、と思いました。わたしたちは「察知」と「思案」に加えて「調整」も含めましたが、これもお手紙に書いたように、男性は専門職との協働が求められる場面であれば、「調整」に至るまでのSAのプロセスにせっせとコミットする可能性があることが過去の研究からわかっています。この「調整」は、脆弱な他者のために自分の資源を削って行わざるをえない「調整」ですから、その意味ではたしかに男たちは損もしてると思うんです。つまり、損失を避けることが必ずしもSAをしなくなる動機づけになるわけではないということですよね。では、男性が仕事上せっせと行う忖度というニーズ対応と、専門職との関わりのなかで行うSAの共通点は何かっていうと、それは、私的な関係にある者以外の人の目に触れ、その相手から評価される可能性がある、ということじゃないかと。忖度は明らかにそういう評価を求めてやるわけだし、専門職とせっせと関われば「一所懸命やっている僕」を家庭の外の人に見てもらえるわけだし。山根さんのおっしゃっている自己利益というのが、必ずしも経済的な利益のことではなく、主にはそういう社会的評価のことだとしたら、仕事上の忖度から専門職との協働まで、その自己利益で一貫して説明できることになりますね。
 
山根 いまおっしゃったような「自己利益」はそれをすることによる得失がわかりやすいものですが、SAの特徴はもっと別のところにあると思うんです。たとえば、ケアの受け手といっしょにいる時間があって、はじめてSAをしているっていうところもあると思うんですね。いっしょにいる時間があってこそ、相手の変化を察知したり、「最善」と思われる方法を再考せざるをえなくなる。
 
原発事故の話で言えば、「現在の生活で被ばくする可能性」を思案して、外で遊ばせないようにしたり避難したりという「方法」を選ぶのだけど、外で遊べない状況に対する子どもの反応や避難先での生活における子ども状況を察知して、「今のやり方がいけないのもしれない」「子どもにとって最善な方法ではないのかも」と思い悩んだりする。こういうSAって相手といっしょにいる時間があるからこそ、(必ずしもやりたいものではなくても)せざるをえなくなる、子どもの最善を守るために「察知」や「思案」をしてしまうことで、自分の生活だったり、仕事だったり、自由になる時間だったり、SAしている側が失っている利益があるはずです。夫側が避難したがらないケースでは、「自分の生活を壊してまで、経済的な犠牲を払ってまで」というのが避難に反対する理由になるのです。
 
平山 うんうん。
 
山根 「ほかを犠牲にしてまで、なぜ避難なのか」というのは、「俺の仕事もあり、ここの生活もある」という。今までの生活とか経済的な利益みたいなものと、子の教育の機会みたいな――自分が達成してきたものを維持するのではなく、それを全て捨て去って、その子のため、これをすることが正しいかよくわからないけれども、その子の見えない将来のためっていう決断が自主避難なので。「避難」というのは極限の状況ですけど、日常生活のなかでもそうです。子どもが何か言ってる、ああしてほしい、こうしてほしいというニーズをもってる、でもそれに気付いちゃうと自分がご飯食べているのを中断しなければいけなかったり、風呂上がりに髪をかわかす時間だってないよ、と。「利他性」という言葉でまとめちゃうとちょっとわかりにくくなるけれども、「困っている人のニーズに気づいた人が損しちゃう」ことってケアの場面では多々ある。介護施設のように「ニーズに気付くこと」が仕事とされている場合だって、トイレにいけない、休憩時間ない、帰れないという不利益をケアワーカーは被るわけです。何らかの自分の利益を無視してまでこうしてあげなきゃいけないとか、こうしてあげようというようなところに、SAの特徴がある。その負担をみずに「母親・娘らしさ」、もしくは「介護職の職業倫理」などと評価するだけでは十分ではないと思います。
 
平山 損失を避けるため、というのが、男性がケア責任から逃げる理由であり、それが性別分業に繋がっているのだとしたら、ケアにコミットしても可処分時間や稼得可能性に今ほど影響が出ないような制度さえできれば、男性は家庭内のケアもせっせとやるのかしら。つまり、男性がケアから逃げ続けるのは、例えば両立を支援する制度が不備だからで、働きながらケアに関われる権利を保障する制度さえできれば、逃げていた男性は一斉にケアに戻ってくる、ということ?
 
山根 できるだけそうなってほしいと、こっちは思っているんだけどもね。
 
平山 ただ、私にはまだ、本当にそう言っちゃっていいのかな、っていう躊躇いがあります。本当に制度の不備だけで説明できるのか、説明しちゃっていいのか、という。
 

ケアへの「承認」と、そのジェンダー非対称性

 
山根 ケアのジェンダー不均衡には、いわゆる「ジェンダー化された規則」というか、男性はケアをしなくても承認されるけども、女性はケアをすることで何かしら間接的には承認されるというのがあるかもしれない。
 
ミクロな相互行為の話と、社会的役割とは、ちょっと切り分けて議論したほうがいいかもしれないですけれども。個々のケアの場面で「よくやった」とは誰も評価してくれないけれども、「母親としての困難や経験を共有する」というサークルをつくるみたいに、社会的役割を担った当事者が集まってお互いを承認しあう、女性には社会的にはそういうチャンスが転がっている。
 
だから、お母さんたちは仕事を持っていても頑張ってPTAもするわけでしょう(笑)。仕事休んで、今までどおりのタスクをやって、かつPTAもやってなんぼ、という。それが美徳なんです。
 
平山 「息子介護に見るケア経験のジェンダー非対称性」という論文を『介護する息子たち』とほぼ同じタイミングで出したのですが、自分に割り当てられた性別に関する役割と、そうでない性別に関する役割、その両方をこなすことへの評価はジェンダー非対称だということを、そのなかで強調しました。
 
男性の場合、稼得役割もこなし、かつ家族へのケアにもコミットしていると周囲から大絶賛される。もちろん、パタハラのように職場で酷い扱いをされることもあるんだけど、そのときに、そういう男性を応援してくれるのは女性たちだったりするんですよね。自分たちもそういう目に遭ったことがあるから、我がことのように応援してくれたりする。
 
一方、女性の場合、ケア責任も担いつつ就労にもコミットすると、否定的な目で見られる人も少なくない。「そんなに仕事にかまけて、本当に家族の世話はきちんとできているの?」と。そして、パタハラに遭う男性を支えようとする女性ほど、仕事とケアの両立に苦しむ女性を、我がことのように共感をもって応援する男性は多くない。だから、仕事を持っていてもPTAを頑張る、というより、仕事を持っているからこそPTAをおろそかにできない人も少なくないと思う。仕事のせいでケア役割がおろそかになっている、と思われないために。
 
ただ、一方で、男性がケア責任だけを担っていたら、それはそれで否定的な目で見られるんですよね。男性がケアラーとして評価されるためには、仕事も持っていないといけない。ただこれは、女の人が仕事だけしているとやはり「かわいそう」に見られるのと一緒で、自分に割り当てられたほうではない性別役割だけをやっている場合に否定的に見られる、という意味では変わらないのだけど。
 
山根 家庭内で誰も見てくれない場面って、あるじゃないですか。「そこで誰がおむつをかえるのか」みたいな話とか。「名もなき家事」もそうですよね、お茶わんを洗うのはやるけど、その時洗剤きれたのに気づいても、入れかえなくても、まぁ、いいや、みたいな。やっぱり、誰も評価してくれないし、達成感もないところは、やらないというね。
 
平山 配偶者の評価じゃしょうがないということですかね、男の人からすると。
 
山根 うん、そう。
 
平山 リチャード・ラッセルの話と一致しますね。ラッセルは男性ケアラーの論文をいくつか出してるんだけど、ラッセルによると、男性ケアラーのストレス源って、よく言われているような家事スキルの不足では必ずしもない。家事スキルに関しては、上手い人も下手な人もいて、一概には言えないから。彼らにとって何が苦痛かっていうと、会社と違って家庭でのケアは、公的な評価の対象にならないからだと(Russell, R.(2007) The work of elderly men caregivers: From public careers to an unseen world. Men and Masculinities, 9(3),298-314)。上手いことやれば公的な評価に繋がるのが当然、繋がらなければおかしい、というのが、男性が独占してきた公的領域の常識ですから。
 
山根 うんうん。だから、息子介護の話で自立した存在とみなしつづけて親の脆弱性に向き合わない、ミニマム介護を男性がしがちという話も、社会的文脈をみる必要があるのではと。親の依存に向き合わないというのは誰も評価してくれないケアラーと受け手の二者関係のなかだからこそ起きることで。切り離されたプライベートな空間で、弱っていく他者、自分がコントロールできない他者のニーズに応えていくことってすごくつらい作業で、だから思考停止してしまう。第三者からの評価がないケアラーと受け手の二者関係のなかでは、誰も評価してくれないことは「やらない」、もしくは「やれてる」って自己暗示かけてる。
 
平山 でもやっぱり私はまだ、承認や評価が得られないから男性はケアにコミットしないとかコミットできない、と説明してしまって本当に良いのだろうか、という躊躇いを抱えてる(笑)。私は、自分が男性だからそう感じるだけかもしれないけど、男って女性よりもケアで評価されるの、簡単なのよ。女性がやったら非難されるような、子どもへのぞんざいな接し方だって「男の子育て」として評価してもらえちゃったりするじゃない。だから、男性がケアにコミットすることでそこまで承認が得られないのか、逆に、ケア役割を担う女性は本当にそこまで承認されているのか、っていう疑問がまだ残っている。ただ、山根さんがおっしゃっているのは、ケアのしかたやスタイルへの承認というよりは、その役割を担うことそのもので得られる承認のことですよね。
 
山根 うん。間接的には、ケア役割を担うことで得られる社会的な居場所みたいなものが女の人にはあるという話だけれども。ただ、日常的に、テーブルでご飯を食べている最中に、台所にいく用事ができた場合に、夫と妻どっちが立ち上がるんだ、みたいなところでは、べつに女の人がそれをやったからって誰も評価はしてくれないですよね。
 
あともう一つ別に、ケアという、その達成感が明確ではないものに対してコミットしていく「つらさ」がケアにはつきまといます。自分がやっていることが、最終的によかったのか悪かったのかは明確ではないけれども、この人のために、というふうにやるというのは、自分のスキルを活かせていると実感できたり、成果がみえたりという公的領域の「仕事」とは違うところがあるのかなという。
 
まずは、そこのケアの独自性――達成感も曖昧だし、アウトカムもわからないけれども、その人が今求めていることを、時には「あぁ」と思いながらも、話を聞いたり、ケアを調整していくというようなこと――が、男の人は、つらいんだと。
 
ホックシールドの『タイム・バインド』(Arlie R.Hochschild著、坂口緑・中野聡子・両角道代訳、明石書店、2012)で論じられているのは、女性もケアがつらいということです。ここに出てくる大企業で働く女性はできる限り職場にいたい、いわゆる男性化していると言えるかもしれません。なぜかというとケアのつらさ――この動かない子どもを動かす、その労力に私の時間をとられたくない、そういうことをなるべく最小化しようとして職場に長い間いる。自己達成感とか、自己の承認の感覚を職場に求めているという話です。
 

男たちは、見えない仕事・見てもらえない仕事には耐えられない……のか?

 
山根 この「仕事」と「ケア」の分断と葛藤を、田房永子さんがA面とB面って分けています(『上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!』田房永子・上野千鶴子、大和書房、2020)。上野先生には、『家父長制と資本制』で私が論じている「市場と家族」のモデルを、オリジナルでつくったのね、と褒められまくってます。
 
A面B面問題は、ここでの議論にひきつけると、それをすることが自己の利益や経済的利益になったり、社会的威信につながったりするA面と、そうではないB面。で、このB面で生きていくことのつらさみたいなのを男の人が受けとめきれない。私は平山さんの本(『介護する息子たち』勁草書房、2017)もこういうふうに読めたんですよね。
 
平山 B面で生きていくつらさに耐えられないのか。どうなんだろうな。男の人が、例えば介護をやりたがらなかったり、あるいは、男の人のケアの特徴として言われているもの、例えば、男の人は察したり配慮したりするのが不得手だ、みたいなものもそこから来ているということですか。
 
山根 平山さんはそれを「男性の特徴として見えているだけだ」と言ったり、「男性の特徴だ」と言ったりというけど、どっちが主な主張なんだと。この数年ずっと私はお尋ねしているんですけど(笑)。
 
平山 ええ、なぜならわたし自身が、どちらとも決めかねているというか、どちらかに決めないといけないなんて全然思ってないというか(笑)。わたしの関心は、それが男の人の特徴なのかどうか、よりも、それが男の人の特徴だと皆が思うことで何が起こるかのほうであって。特に、みんなが「男の人ってそういうものだよね」と思っちゃうと男性の優位はますます不動になるのかどうか。そういうことのほうに、ずっと興味をもっているので。ていうか、わかんなくないですか、それが単にそう見えているだけじゃないのか、本当にそういう特徴があるのかなんて。
 
山根 でも、男性は察知できない、鈍感に見えても構わないと思ってやっている、という話ですよね。
 
平山 もう数年も尋ねられているのに、またこういうこと言うと怒られそうだけど(笑)、察知できないこと、鈍感であることにしておいても、多くの男性は困らないから、「そういうことにしておこうか」みたいにしてる可能性もありますよね。
 
で、B面のつらさの話に戻りますけど、それに関連して、わたしが調査で出会った男性で思い浮かんだケースがあります。それは、B面に入ることが男性にとってはつらい、という話とは、一見すると対照的に見える例です。
 
例えば、学歴においても世間的に褒めてもらえるようなものではない、仕事も続かなかったのでキャリアも積んでいない、伝統的な男性の価値序列でいえば成功していない男性が、親を介護する役割に没頭している、というケースはいくつも見てきました。就労の経験もほとんどなく、自分自身の経済基盤もないわけで、一見すごく不安になりそうな状況なんだけれど、なかにはすごく生き生きしている人もいました。「自分を育ててくれた親だもの、ここで恩返しをせずにいてどうする」と、すべてを投げ捨てて要介護の親に尽くす自分を誇らしく語る人もいるんです。実際、彼らは、社会との唯一の繋がりだった職場を自ら放棄したりと、客観的に見ればどんどん自分の生活を不安定にさせる方向へと進んでいく。そうやって、B面だけしかない生活を自らつくりあげていたんです。
 
山根 A面をあきらめてね。いわゆる代償なんじゃないですか。
 
平山 少なくとも本人は、あきらめたとは言いませんよ。もしかしたら、思いたくないだけかもしれないし、それはわからないけれども。いずれにせよ、本人の語りは一貫して「私はB面のほうに生きる価値を見出した」というトーンでしたよ。
 
山根 それは多分、A面を獲得できない代償としてB面にという、まさに母や妻役割に価値を見出す主婦と同じ機制ですよね。で、息子介護は「親孝行」という承認のストーリーがあるから、シングルファーザーよりは楽なんだと(笑)。
 

ケアの何が「承認」されるのか、誰に「承認」されるのか

 
平山 山根さんがおっしゃっていることのなかで、わたしがまだ理解できていないのはそこかも。つまり、そこでいう承認は、誰から得られるもの、得られるべきものなのか、というところ。
 
山根 原発事故で自主避難した母親の場合には、その意義を社会的に承認してもらえなかったわけですよ。普段は「子どもの健康を守るのは女性の責任だ」っていう社会通念があるくせに、です。社会が期待するケアをしている限りにおいて、母親は承認されるけど、それ以外は「余計なことした」って切られるんです。
 
平山 さっき話題になっていた承認は、「ケア役割を担っていること」や「母親であること」への承認でしたよね。つまり、社会通念に照らして、その人がそのときに担っているべき役割を、実際に担っているかどうかでジャッジされるもの。
 
それに対して今おっしゃっていた承認は、役割の遂行のしかたに対する承認なのかな。つまり、「母親であるか」「子どものいる女性であるか」ではなくて「母親として子どもに何をしたか・しているか」がジャッジの対象。
 
もう一つ、承認の次元については「誰から受ける承認か」というのもあります。ドミナントな社会的ルールに一致しているかどうかと、顔が見える関係のなかで「それでよし」と言われるかどうかは必ずしも一致していませんよね。例えば、「世間受けする『良き妻』ではないけれど、夫は認めてくれている」とか、「いわゆる『母はこうあるべき』からはズレているけれど、子どもは認めてくれている」とか。
 
山根 そんな美しい話、ある?(笑)
 
平山 可能性としてね(笑)。
 
逆もある。一般的に良しとされていることをするのに夢中で、目の前の相手がそれに満足しているかどうかに気づいていないし、気にもしていない人とか。いずれにしても、周囲の具体的な誰かによる承認と、規範に照らして望ましいことをしているといえるかという意味での社会的承認は、区別しないといけないと思う。
 
仮に、ケアへのコミットメントが、承認してもらえるかどうかに左右されるんだとしたら、「誰からの承認か」を整理して考えることも必要じゃないですか。具体的な誰かの承認がないとだめなのか、逆に、顔の見える関係のなかで認めてもらうだけじゃだめなのか。具体的な誰かからの承認が重要だとして、その「誰か」は誰でもよいのか、などなど。
 
例えば、妻がやり方を認めてくれないから男は家事育児から離れていく、っていう話がよく言われますけど、妻が認めたら本当に男は、誰も彼もがやるようになるのか。妻がいくら言ったところで家事育児から平気で逃げていく男があちこちにいることを考えると、妻からの評価なんて男にとって実はなくてもよいものなんじゃないか、って私は疑ってるよ。いずれにせよ、男性のケアへのコミットメントが議論されるときって、妻がそれを承認しているかどうかがやたらと問題にされる傾向はありますよね。
 
山根 ややこしいですけれどもね。妻に承認されたい夫(笑)。
 
平山 もちろん、妻の支えがあるから育児にコミットし続けられる夫もいるはずです。職場では「あの人、いつも早く帰っちゃうよね」とか白い目で見られているけど、妻が自分の味方になってくれている感覚があるから、その白い目に押し潰されないで済む夫とか。ただそれは、妻が夫を評価するから育児にコミットするようになったとは必ずしも言えなくて、夫がもともと育児にコミットしようとしていたからこそ妻は協働相手として評価し、いま味方になってくれているんだと思いますけど。もともとやる気がないくせに、そういう事例に飛びついて「俺が育児に一所懸命になれないのは妻が評価してくれないからだ」とか思い込んでる厚かましいのもいる。
 
一方で、妻からはそのように評価されていないのに、周囲からは、育児にコミットしている、いわゆるイクメンとして認知されている男性もいますよね。本人も自分はそうだと思っているし、周囲にもそのように見てもらいたくてアピールする。でも、妻が本当のところどう思っているかなんて、向き合わないケースもあります。『来る』っていう映画で妻夫木くんがやってた夫みたいなのね。
 
イクメンとしての地位が得られるかどうかには、パートナーの評価は必ずしも関係ないのでは、と思います。彼らのケア提供者としての役割遂行を、最も間近で見ているのがパートナーであるにもかかわらず。逆に、そもそも家庭のなかで彼らが日常的に何をしているかなんて知れないはずの周囲の人びとの評価で、イクメンとしての承認が下りることはままある。つまり、ここでの承認は、実際にケアラーとして何をしているかということではなくて……
 
山根 承認を得るための……
 
平山 そう、実際に自分が何をしているかよりも、「育児にコミットしているお父さん」として、第三者から承認を得られるかどうか、それが目的になっている人もいるでしょう。そして、ひとたびそういう「お父さん」として見なされると、その人のやっていることがあれもこれも「すばらしいこと」に見えてしまう場合もある。イクメンとしての地位は、必ずしもその人が何をしているかとは連動していないし、むしろその地位自体が、その人のしていることの解釈に影響を与える場合もありますよね。
 
話を戻すと、誰が承認するのかということと、何について承認するのかということは、整理をする上ではちゃんと分けなくちゃいけないと思う。「誰が」については、少なくともケアの受け手と、一緒にケアにあたる人と、ケア責任を直接的には共有しない第三者がいる。そのそれぞれが、その人のしていること、つまりケアの内容を承認しているかどうか。そして、その人がそれらのどれを重視したり、その評価に左右されたりするのか。
 
山根 ケアの内容に対する承認ってなると、そのケアの中身に対する価値、文化的な価値みたいなものも入ってくるから、その価値観がずれている姑とかが出てきたときに、「あなたの子育ては」みたいな話になってくると結構複雑になってくるんだけども。
 
もうちょっとシンプルに――たとえば、赤ちゃんがパパにだっこされても泣かないから、赤ちゃんからケアラーとして承認されている、とか。高齢者が他のヘルパーさんには言えなかったけど「本当はこうしてほしかったんだ」とあるヘルパーさんには言えるか、とか。
 
ケアされる側にとっての承認という問題と、社会的承認という分け方が一つ、とりあえず今の段階では、わかりやすいかなと。父親のケアに関して議論すべきは、「イクメン」という地位のためや妻からの評価のためではなく、ケアの受け手から信頼してもらえる親かというところで勝負しているかどうか、です。
 
この前授業で「10歳くらいで両親が離婚するとしたら、どちらについていくか(ついていきたかったか)」と聞いたら、100人の授業で、全員、「お母さん」だったんですよ。つまりお母さんのケア能力を承認している。お母さんが稼げないのはわかっているけれども、お父さんといても仕方ないというね。まぁ、女子大だからね。男子に聞いたら、違うかもしれないですけれども。
 

男性の「気づかなさ・気づけなさ」は社会化のたまもの?

 
山根 で、信頼の話につながっていくけれども、受け手の側から、「この人は信頼できる」というふうに思われるかどうか。
 
ただ、「家事をお母さんがやって、お父さんが子育てをしている」問題も出てくるので。「お父さんは、子育てはするけれども、遊びはするけれども家事はしない」みたいな話も出てきちゃうと、ちょっとややこしくはなる。子どもを喜ばせることは上手だけれども家事はしない問題は別にあります。そこはさておき、ケアされる側からみて、自分が信頼できる相手なのかを意識しながらケアしているかどうか。
 
平山 わたしがときどき例に出してる、要介護の親にとっては食べにくいし、そもそも好きでもないものを、栄養価が高いからといって一所懸命つくって食べさせようとする息子、そうすることが最善だと思っている息子の場合だと、ケアの受け手である親にとって彼らは、心からは頼りにできない存在ですよね。しかたなく頼らざるをえないということはあっても。
 
山根 それが、私には、平山さんが書いていることのすごいポイントに見えていて。男の人は、ケアの受け手から承認されてもされなくてもかまわないと思ってる、気にしないですまそうとしているように見える。
 
平山 うーん、承認されていないとも思っていないんじゃないかな。
 
これもあちこちに書いてきたことだけど、お母さんの身体機能を維持するために何としてでも歩かせる、みたいな介護する息子を何度も見てきました。実際にほとんど歩けないお母さんもいて、それこそ引きずるようにして歩かせるんですよ。信頼というのとはちょっと違うけど、「こんなことしてたら実は嫌がられているかも」って想像してしまいそうなものだけど、その息子さんたちは必ずしもそうは思っていなかった。逆に、「親は自分を頼りにしてるんだ」と感じている人もいた。その理由の一つは、お母さんが、あからさまには嫌がらないからなんだよね。今の高齢の母親のなかには、家族の世話は女のしごとで、それをしなきゃいけないうちの息子は不憫だ、って思っている人も少なくない。息子に面倒をかけていることが申し訳なくて、自分のしてほしいことや、してほしくないことを、息子の前では出さないように努めてるお母さんもいるのよ。
 
いずれにしても、自分のしていることが受け手から承認されていないかも、なんて思ってはいない。むしろ、母親は抵抗してないんだから、自分のやり方を認めてくれてるんだ、という感覚を強めている人もいる。だから、受け手からの評価を気にしていないかどうかは、ちょっとわからない。
 
山根 ここからがSAの議論のポイントで……相手のニーズというか、本当はどう思っているかというところまでつき合うよりも先に、自己満足とか、達成感を得ることにしてしまう。じゃあ、なぜ女性はその達成感とかよりも、相手のニーズにつき合おうとするのかと。
 
平山 そこで連想するのはセクハラの話なんですけど。ハラスメントの加害者は圧倒的に男性が多いわけだけど、加害者は、相手の一挙一動を自分のニーズというか欲求にあわせて解釈するわけだよね。
 
山根 肯定的にね(笑)。
 
平山 相手が拒否のサインを示していても、それすら自分の都合にあわせて肯定的に解釈してしまう。徹底して付き合っているのは、相手のニーズじゃなくて自分のニーズだよね。
 
山根 そう。その男性のサインに気づかない機制、「鈍感さ」も社会的につくられたものだと言うかどうかですよね。幼少期からの社会化過程を無視して、男性が鈍感であることを許す社会的文脈があるからそうしている、とまでは言えない気がする。つまり、もうちょっと能力的なものになっていく。インターナライズされているものじゃないというかね。
 
平山 たしかにね。気づけるのは、内面化された何かによって自然に行われるものではなくて、認知機能を動員して、相手のニーズに気づこうとする構えをつくっているからこそ気づけるのだ、というのがSA概念できちんと言えたことでした。
 
じゃあ、女性があえてそういう構えを解くというか、気づこうとしないことがあるとしたら、それはどういうときなんだろうか。
 
山根 さっき言ったホックシールドの話は、多分、そういうことを間接的に言っている。母親だって相手のサインに対応しつきあうようなケアは最小限にしたいと。彼女たちにとって自己実現はA面=職場なのだから。そこには大企業で働く白人女性という職業・階層・エスニシティ的要因が文脈としてあるのですが。子どもがチョコレートをくわえながら、「マミー」と呼んでもさっさと会議に行く、みたいな。朝ご飯ですよ、チョコレートが(笑)。
 
それが、A面=公的領域で生きているからそうなるのか、いや、さっき言った、全く公的領域に出ていなくてもそうなるのかという、そこが気になるところで。
 
平山 公的領域で生きているから、というのは違うかな。さっきの忖度の話でいえば、公的領域では、というか公的領域でも、他者のニーズを察知することは不可欠なわけでしょ。だとしたら察知のための能力は、公的領域ではむしろ鍛えられそう。
 
問うべきなのは、男性にしても女性にしても、私的領域でその能力を発揮しなくてもいいや、と思えるのはどういう場合なのか、ということだし、それがどうやら男性に多いのはどうしてか、ってことじゃない? いずれにしても、男性が状況超越的に、一貫して気づけないとか、そもそも気づく能力を身につけてこなかった、みたいな話は私は支持しません。
 
山根 でも、今まで吹っかけられてきませんでしたか。「なぜ男性がこれ、できないんですか」みたいな聞かれ方というのは、今までになかったですか。
 
平山 いや、すごくされる。講演で、よく質問が出る。
 
山根 それ、どう答えてきたんですか。
 
平山 「そう言い切っていいかは、わからないですよ」って(笑)。正直に、「その男性も、あらゆる場面でそれができないかどうかはわからないですよ」って。特定の場面、特定の関係において男性がそれをしていないからといって、男性がそうする能力をそもそも持っていない、そういう意味で「できない」のかどうかはわからないじゃないですか。
 
山根 うん。そこは議論はできないところですね、という答えでいいと思うんですけれども。
 
平山 ただ、「それは社会化の過程で身につけた特性や能力の違いによるものだ!」と説明しちゃうジェンダー論のほうが、ポピュラーではありますよね?
 
山根 それを前提にしないと、例えば上野さんのこの本(『女ぎらい:日本のミソジニー』朝日文庫、2010)とかも成り立たないんですよ。男はそういうものだと、そう社会化されているという前提を持たないと議論が成り立たないというところがある。
 
男子の多様性とか、男性の可変性とか、ふるまい・行動の文脈依存性みたいなものを、どこまで前提にして議論するのか、難しいところですね。
 
平山 そのほうがわかりやすくて受けがいいから、というのもあります。
 
例えば、連載でも書いたように、親のケアにともにあたるための「足並みをそろえる負担」の話。そういう調整の負担を、息子よりも女きょうだいが丸抱えすることになりやすいのは、研究からわかってる。他方で、じゃあ男性がそういう調整を一切できないのかというと、家族外のケア提供者とはせっせと意思疎通を図ろうとする男性が結構いる。こっちも研究からわかってる。でも、「息子介護者と、そのきょうだいとの関係」というテーマで話してください、というときには前者だけ話すほうが明快だし、依頼のテーマにも合ってるわけじゃないですか。
 
山根 うんうん。
 
平山 でも、前者だけを話すことによって「男性は調整をしない、できないものなんだ」と変換されて広まっていくのはやはりまずい、と思っているんです。もっと文脈依存的なものだということを理解してもらわないと、と。
 
だから例えば、男性は場面によってはまったく「男らしく」振る舞っていないときもあって、しかもそれを周囲も本人もまったく何とも思っていない。だけれども「『男らしく』なければいけない、という圧力に男はずっとさらされている」かのようなリアリティを私たちがもってしまう。それこそがジェンダーの作用なんだ、という話をするようにもしているんだけど、これが全然受けないときがある。やっぱり男には男特有の行動パターンがあって、社会がそういう行動パターンをつくってきたんだ、という話にしないと、「何これ、ジェンダーについての講演なの?」っていう反応をする人が一定数いる。
 

ぺットは世話できる男性

 
山根 でも、「男も困っている」と言いたい人には、ニーズがあるんですね。そこがまた、ややこしくなるところで――さっきの夫婦の承認とか、ケアマネの承認とか、そこの議論を整理したほうがいいような気がしますね。「承認」というのは、今までに議論していないファクターなので。
 
承認の対象が、「対妻」か「社会」か、みたいな話でいくと、動物を育てている男性って、いっぱいいるじゃないですか。男性って動物のケアは、多分すごくやる。動物、ネグレクトして死なせないですよね。
 
平山 死なせないように気をつけるどころか、動物相手の察知・思案・調整を過剰なくらいしてる男性を何名か知っています(笑)。仕事から帰って犬は元気にしているんだけど、もしかしたら昼間、暑かったかもしれない。明日はエアコンの温度をもうちょっと下げておこうか。喋れないんだから、具合が悪くなったときにはこっちが気づいてあげないと。みたいなことを言う(笑)。相手にとってはもしかしたら十分じゃないかもしれない可能性に、常に思いを至らせてるのよ(笑)。
 
山根 母ですよね、まさにね(笑)。
 
平山 さしあたり問題は起きていないのに、不在で見えていない間に本当は困っているかもしれない、って気にし続ける。だから、やっぱりカメラをつけておかないといけないのでは、とかって。
 
山根 その人が子育てとか介護したら、同じことができそう?
 
平山 どうでしょうね。わからない。
 
山根 そういう意味では、ペットのケアって、ジェンダー化されていないからできるんだけども、子育てとか介護はジェンダー化されているからできない、というふうにも分けられるような気もして。
 
平山 確かに、人相手のケアに比べて女性と結びつけられていないんでしょうね。虫を捕ってきて熱心に世話して育てるのも、少なくとも私の子ども時代は男の子の遊びでした。
 
山根 家畜の世話だって、男性がメインでしてることが多いですよね(笑)。
 
だから、ある種の社会的期待というのは、やっぱりあるはずで。で、一生懸命家族のニーズや健康を思案して料理をつくっちゃう女性も、社会的な承認を得るためにという部分があるんじゃないか。一方で、女性のSAをすばらしいものと本質化するのもよくない気がする。「SA」大好きっていう人は、本当に困ってはいないのに困っていると思ってやってあげちゃう、みたいな部分もあって、だから、それはどっこいどっこいかもしれない。
 

家族の多様性を前提に、ジェンダー不均衡の是正を考える

 
山根 ファインマン(M.A.Fineman『ケアの絆』穐田信子・速水葉子訳、岩波書店、2009)的な、母子対だろうが父子対だろうがケア関係を「対」とみなすとなると、誰かがメインのケアラーになるという発想を強化してしまうのではないかと危惧します。少数であれ、親密圏の複数のケアラーが平等にSAできているからこそ、うまくまわっているケアというのがあるはずです。実際には「母子」のユニットが多いなかで、男性をケアのユニットからはずしちゃうとなると、他者のニーズに寄り添う非効率で思うようにならない活動を男性がやらないままの社会を是としてしまうわけです。それはフェミニズムが求めてきたものなのだろうか、と。
 
でも一方で、ケアのジェンダー不均衡の政策的な是正をどのような方向でやっていくか、ということで『ノルウェーを変えた髭のノラ』(三井マリ子、明石書店、2010)でクオータ制をすすめてきた政治家のこういうセリフがでてきます。父親政策が主流になるなかで、一番困っているのはシングルマザーだ、と。低賃金とか労働時間とかももちろんだけど、帰宅しても愚痴を分かち合える相棒もいないから、日々ストレスを抱えて暮らしている、シングルマザー問題は悪くなる deteriorating! 一方だと。
 
平山 異性愛のパートナーシップを前提に、ケア責任のジェンダー不均衡の是正を考えるから、そういうふうになるんですね。連載の第11回に、非異性愛の高齢者カップルの困難についてどうしても書きたかったのはそのためです。ケアにおけるジェンダー不平等をいかに変えていくか、ということについて、これまで出されてきた論点や処方箋が、異性愛のパートナーシップを基礎とした家族というものを前提にしていないかどうか、という点については、もっと点検されるべきだと思ってます。
 

受け手からの(不)承認を省みないケアラーたち

 
山根 それとは別に、男性は男性なりのやり方で子どもに耳を傾けたり、思案したりしているのに、それをきちんと評価してもらえない、という問題もあると思います。
 
平山 私の本への感想として、そういうことを言われたことはあります。『介護する息子たち』は、男性がいかにSAを女性に丸投げしているか、いかに女性のSAにただ乗りしてケアに携わっているかという話です。「妻が何を怒ってるのか、ようやくわかった」という男性もいたけど、「やってはいるけど『やってない』と思われてしまうのだが、どうしたらいいのか」という男性もいました。
 
山根 個別にはあるんですよ。私の授業でも、学生もさかんに「うちのお父さんはそんなことはない」って言ってきますよ。いやそういう話をしてるんじゃない、と(笑)。
 
平山 「ケア提供者が男性というだけで、そのケアは承認を受けにくくなる」というのは、個別のケースとしてはありえます。それは、男性のケアへのコミットメントの少なさに怒っている女性だって、当然知っているはず。
 
私が警戒しているのは、それを強調することで、「僕らがケアをしないのは、承認してくれない女性の、社会のせい」と、ケア責任のジェンダー不均衡から男性を免責してしまったりする、その言説の効果のほうです。
 
たしかに個別に見れば、ケアにおける思案や調整をやっていないわけではないのに、男性だというだけで、十分やっていないと思われるケースや、それは不適切なやり方だと承認を受けられないケースはありますよね。まあ、「やってないわけではないのに」と堂々と言えるほどやっている男性がどれだけいるのか、とも思いますけど。
 
山根 逆を言うと、依存してくる、干渉してくる「重い母」というのもあって、女性がやっていることが何でもかんでもすばらしいわけでもないのに、そちらはさておきというのと、男性のケアが承認されづらいというのはセットかなと。
 
だからこそ、ケアされる側とする側を1対1の対[つい]とか、セットとらえるモデルはどうなのかと。ケア関係の基本は、ケアされる側の信頼――平山さんが第1011回で書いている――なのであり、「信頼」の対象は複数でありうると思う。
 
平山 何をもって「信頼された」といえるのかっていう、その問題に戻ってきますけれどもね。
 
信頼というよりは評価に近いんだけれど、「自分にこのようにされることで、相手はどう思っているんだろうか」「さしあたり不満そうには見えないんだけれど、本当は不満に思っている可能性はないんだろうか」って相手の評価を気にするよりも、自分のケアの正しさを疑わない息子たちがいたのは、わたしが調査した限りではその通りです。つまり、相手がそれを承認してくれているかを一切経由しない、僕の・僕による・僕のための承認にもとづいてケアが行われていたケースが少なからずあった。お母さんが食べられないごはん、食べたくないごはんを熱心につくって食べさせることで、ケアラーとしての自信を募らせる息子しかり。
 
山根 娘にとって「重い母」というのも、お母さんが食べられない料理をつくる息子の例と変わらないわけで。母の側も、役割への承認に向かっちゃって、ケア対象からの承認と切り離された――結局、娘には向かず、自己満足を求めているということですね。ケアの受け手からの承認じゃなくて、自己満ケアになっている。
 

「信頼の対象を拡げる」というケア責任

 
――最後に、社会がケア関係を支援する際にケアする方の利益(負担軽減)を重視するのか、ケアされる方の利益を重視すべきなのか、という点ですが。
 
平山 ケアする側の利益とされる側の利益は対立しやすいものではあるけれど、その対立がどのようにして起こっているのか、どういう条件のもとでは対立が深まるのか、っていうところから始めないといけないようにも思います。
 
山根 でも、ケアする側を支援するというときには、「対立しない」という前提を持ちすぎていると、虐待や権力関係が隠蔽される。
 
平山 確かにそうですね。ケアする側の利益は、すべてケアされる側の利益になる、という考え方はありますね。する側とされる側が、ユニットにされてしまう。

山根 子育てで言えば、母子ユニットだけが重要じゃなくて、父親じゃなくてもいいんですけども、信頼できる大人が2人いるって、すごい安心なんですよ。それがおばあちゃんであろうが、おじいちゃんであろうが、近所のおじさんであろうがいいとは思うんですけども、1人ってすごくしんどい。で、「あなたが、とりあえず主ね」って言われても、しんどい。
 
それがヘテロのカップルである必要はないんだけれども、という意味での分有問題と、シングル問題って、すごく難しくて、分有と言ったときに、それは親密圏での分有なのか、ほかの社会的サポートというのを指しているのかというところは、最終的になんかすごく複雑に議論しないといけない。親密圏というのをどこまでにするかというのが……
 
平山 私は、誰もが信頼の対象になりうる、という前提を置きたくないんだと思います。信頼の対象を複数にすることに反対しているのではなくて、信頼の対象は限定的にならざるをえない、というところは外せないのでは、ということ。
 
山根 ちょっと話題を戻すと、「信頼の対象って一緒にいる人じゃない?」という、そこでこの連載の第9回の時間問題が出てきちゃうんだけれども。全くいないお父さんは信頼できるのか、みたいなことで、その時間という話も出てくるのかなと。全く会ったことのないケアマネは信頼できないし……
 
平山 なるほど、そういうことか。私は、山根さんが「SAには時間が必要」とおっしゃったとき、「時間がどんなにあっても満足のいく思案ができるとは限らないよ」って異を唱えたつもりだったんだけど、的外れな応答だったんですね。山根さんがおっしゃっていた「必要な時間」っていうのは、思案の材料となる情報、受け手についての情報を収集するための時間のことだったんだ、って今はっきり理解しました。そういう意味なら「SAには時間が必要」に異論はまったくありません。
 
山根 「される側の信頼」というのを基底に置けば、信頼の相手先は無限じゃないじゃないですか。あと、「質が違う信頼」みたいな話は、また細かく議論すべきなのかもしれませんけれども。
 
ただ、その信頼の関係性づくりというのは、社会的にできる話なので。保育園だとかケアマネさんとか。本人が信頼するかどうかは、本人の自由だけれども、機会は、社会的に保障されるべき。
 
平山 そうですね。受け手自身が、自分にとって信頼できる相手は誰かを選ぶ機会は必要だし、そのためには複数の、いろんな相手からケアを受けてみる機会が要る。ただ、その機会は、受け手自身ではつくれないことが多いから、与え手の側でつくってあげないといけない、ということですね。この受け手にとっての信頼の対象は自分以外にもいるかもしれないし、自分以上の信頼の対象がいるかもしれない、という可能性も念頭において。
 
信頼の対象になれるのは自分だけ、と信じて、受け手がほかの誰かにケアされる機会を奪ってしまうと、その与え手は「重い母」のようになっていく。
 
山根 そうそう。最後に「される側」の話が出てきたのは、すごくよかったんじゃないでしょうか。ケアの分有とは、単に育休とったり早く帰ることではなく、この不確実で成果がみえない活動に男性がどれだけコミットしてくれるか、にかかっています。もちろん「される側」から「信頼されている」かどうかだって、明確に判別できるわけではない。それでも「もうトイレ行く時間も髪かわかす時間もないし」となりながら、他者のニーズにかかわっていく活動がなければ、子どもは育っていかないし、安心して老いることができない。だからこそ、その活動を社会のなかの特定のカテゴリーの人がおこなうのではなく平準化できたほうがよいのです。
 
 


 
 
次回は、対談後記を近日公開予定です。[編集部]
 
【プロフィール】山根純佳(やまね・すみか) 1976年生。東京大学院人文社会系研究科修士課程・博士課程修了し、博士(社会学)取得。2010年山形大学人文学部講師、同准教授を経て、2015年より実践女子大学人間社会学部准教授。著書に、『なぜ女性はケア労働をするのか 性別分業の再生産を超えて』(勁草書房、2010年)、『産む産まないは女の権利か フェミニズムとリベラリズム』(勁草書房、2004年)、『現代の経済思想』(共著、勁草書房、2014年)、『正義・ジェンダー・家族』(共訳、岩波書店、2013年)など多数。
 
【プロフィール】平山 亮(ひらやま・りょう) 1979年生。2005年東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了、2011年オレゴン州立大学大学院博士課程修了、Ph.D.(Human Development and Family Studies)。東京都健康長寿医療センター研究所 福祉と生活ケア研究チーム研究員を経て、現在、大阪市立大学准教授。著書に『迫りくる「息子介護」の時代』(共著、光文社新書、2014年)『きょうだいリスク』(共著、朝日新書、2016年)。気鋭の「息子介護」研究者として、講演、メディア出演多数。『介護する息子たち 男性性の死角とケアのジェンダー分析』のたちよみはこちら→「序章」「あとがき」
 
 
》》山根純佳&平山亮往復書簡【「名もなき家事」の、その先へ】バックナンバー《《
vol.01 見えないケア責任を語る言葉を紡ぐために from 平山 亮
vol.02 女性に求められてきたマネジメント責任 from 山根純佳
vol.03 SAには「先立つもの」が要る――「お気持ち」「お人柄」で語られるケアが覆い隠すこと from 平山 亮
vol.04 〈感知・思案〉の分有に向けて――「資源はどうして必要か」再考 from 山根純佳
vol.05 思案・調整の分有と、分有のための思案・調整――足並みを揃えるための負担をめぐって from 平山 亮
vol.06 なぜ男性はつながれないのか――「関係調整」のジェンダー非対称性を再考する from 山根純佳
vol.07 SAの分有に向けて――ケアの「協働」の可能性 from 山根純佳
vol.08 Sentient activityは(どのように)分けられるのか――構造、自己、信頼の3題噺 from 平山亮
vol.09  ジェンダー平等化の選択肢とケアにおける「信頼」 from 山根純佳
vol.10 SA概念で何が見えるか(前編)――「男は察知も思案も調整も下手」で「やろうと思ってもできない」のか from  平山亮
vol.11 SA概念で何が見えるか(後編)――“ゆるされざる”「信頼」の対象と“正しい”思案のしかたをめぐって from  平山亮
vol.12 [対談]社会はケアをどのように分有し、支えるべきなのか/山根純佳・平山亮
vol.13(最終回) [対談後記]連載の結びにかえて/平山亮・山根純佳

「名もなき家事」の、その先へ

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ジェンダー研究者・山根純佳×『介護する息子たち』著者・平山亮による、日常に織り込まれたジェンダー不均衡の実像を描き出し、新たなジェンダー理論の可能性をさぐる交互連載(月1回更新予定)。「ケアとジェンダー」の問題系に新たな地平を切り拓き、表層的な“平等”志向に陥らない「家族ケア」再編への道筋を示します。