料理は、その人が生まれ、育ってきた文化や環境を物語るもの、人生の欠片ともいえます。世界各地で生きる人たちの姿、人生の欠片のレシピから多様なSaveur 香りが届きますように。【編集部】
――世界の片隅に鳴る音は表現を必要としない――
加速するリズム、繰り返す旋律、脳天を突き抜ける高音。この音の空間の中、トランスに陥る人々がいる。
彼らを前に、音楽という語彙の意味はどこにあるだろうと問うてみよう。ここには、ここにしか響かぬ音がある。それだけだ。
モロッコ、マラケシュにあるフナ広場近くのバブーシュ屋(皮でできた履物)の店主に、風通しのいい、日帰りできる所はないかと尋ねたら「エッサウィラがいいのでは」というアドバイスが返ってきた。
バスに乗り約3時間。海辺に位置するこの街に昼頃着けば、足早にレストランを探し、絨毯が敷き詰められた店内でタジンを頼んだ。観光客相手のレストランであることは店にいる客の顔をみればわかる。
腹を満たし、ではスーク(旧市街市場)を物色とするかと歩き出せば、港の方から香ばしい煙が漂うではないか。何事かと歩いてゆけば、獲りたてのイワシを焼いているではないか!
腹はいっぱいなのに食の強欲さとでもいおうか、このイワシを食べないでマラケシュには戻れない。早速客引きの男達が待ち構える屋台の中に踏み込んだ。それのうまかったこと。レモンをぎゅっと絞った焼きたてのイワシを頬張りながら、「ああこれで一杯やりたいなあ」なんて不謹慎な妄想をする。
2度目の満腹後に歩いたこの街に2年後に戻り、街の中心となるハッサン広場のステージで演奏をして、市場で毎日食材を買うことになろうなど、このときは想像だにしなかった。
ということで、演奏の場となる、大西洋に面した港町エッサウィラで、アーティスト・イン・レジデンスという滞在をしながらの音楽制作(主にはリハーサル)をすることとなった。
総勢10名以上のミュージシャンが参加するのだから、毎日交代でごはんを作ろう、ということになる。
くじ引きで2、3人の組を作り、焼きたてのパンを買い、軒にぶら下がった鶏やら羊やら、香辛料、野菜をキロ単位で買う。女のミュージシャンはわたし一人なので、イカを魚屋で見つければコリアンダーと炒めたり、新鮮なトマト山盛りのモロッコサラダをボールいっぱいに作り、ナスをオーブンで焼いて皮をはがし、トマトとスパイスを混ぜるザーッルックなど、やや手の込んだものを作った。
一杯100円にもならないカニをみつけては皆でワイワイ。身を食べる沈黙の中、日本人女子はフランス人が食べないカニ味噌を一人いただく。
男のミュージシャン達が作る料理といえば、一緒に演奏をするスーフィー教団の楽師に教えてもらったタジンばかり。毎日手を変え品を変え、といっても、基本的な作り方は材料を切ってタジン鍋に入れるだけなので、簡単で楽な作業である。
うまいタジンを作るに要となるのは、鍋の中にどのような順番で材料を入れるかにある。そして食材の組み合わせもタジンを美味しくするのに大事。例えば鶏肉、魚介の場合はレモンコンフィを使い、羊肉、牛肉には甘いものを合わせる。具体的にいえばアプリコットだったりプラム、乾燥イチジクだ。甘いものとしょっぱいものの組み合わせは、例えばフランスではフォアグラにイチジクを乗せたり、ジビエにオレンジあるいはスグリのソースを添えたり、冬の定番でじゃがいもとサヴォワ地方のロブロションチーズのオーブン焼き「タルティフレット」に、はちみつをひと匙入れたりする。お国変われば食材のマリアージュは無限にありそうだ。
初めてタジンを食べたのは、パリ11区にあるアラブ人街のカフェで演奏した際だった。演奏後にまかないとして羊肉とプルーンのタジンをモロッコ人オーナーのモモが出してくれた。一人用の小さなタジンは年季が入っており、鍋の縁が焦げついている。
これとそっくり同じものをみたのは、迷路のようなエッサウィラの旧市街市場=スークの小径にあるレストラン。一人ものの男ばかりがチョルバ(スープ)やら臓物の煮込み、そしてタジンを食べている。そうか、女は家で食べ、そして男は外で、という文化なのだ。
2度目の滞在の時は箸を持参した。タジン鍋を囲み車座になり、パンに挟みながらタジンを食べる横で、箸で食べるわたしの姿に皆目を丸くした。
笑いとひんしゅく。皆で食べるタジンは焼きたての薄いパンと共に食すもの。
ラマダン(断食月) 中の演奏ツアーでは、日没後、野外ステージの脇にある、出番を待つためのテントの中での食事となる。絨毯を敷き詰め、クッションに肘を立てながら煙管を、煙草を、ミントティーを片手に出番を待つミュージシャン。演奏が終わった順に大きなタジン鍋が運ばれる。
一人分のタジンもいいが、たくさん作ってみんな箸でつつく、いや失敬、ぜひパンを手に頬張りたいものだ。
エッサウィラの楽師の中でも特に仲良くなったベナムから、タジンの作り方を教わった。レジデンスが終わった後も何度か一人でエッサウィラに行き、今は一人で住むベナムの家に泊まった。彼はよく魚のタジンを作ってくれた。
Le sabre(刀魚)と呼ばれる日本の太刀魚より3倍くらい大きい魚を使ったタジンで、ひたすらシンプルに魚とジャガイモだけ。
魚を三枚におろす、という手法はモロッコには見当たらない。ぶつ切りにして、タジンという方法で食すのは理にかなっている。理にかなっているといえば、タジンという料理は基本的に水を必要としない。ご想像の通りマグレブ世界は北アフリカ、砂漠のある地域。人類が食べて生きてきてこのかた、調理する中で道具が生まれたと想像することができる。もっと掘り下げて、この道具の発祥の時期を探ってみるのも面白いだろう。今ではガスコンロにタジンを乗せるが、日本でいう七輪と同じ機能をもった道具の上で、コトコトと炭火にかけるのだから、鍋の底が焦げるのを避けるために水を足す必要は本来ないのだろう。
それでは、エッサウィラのスーフィー教団、ハマッチャの楽師たちが奏でる、延々と繰り返される旋律、速度を上げるリズム、掛け声を聴きながら、ちょっと気分はトランス状態を感じつつ、魚のタジンを作るとしよう。
白身の魚(今回はLieu Jauneというタラ科の魚)600g / じゃがいも3個 / にんじん1本半 / かぶ2個 / セロリ2本 / 炒りアーモンド(塩が振っていないもの)50g / 種つきオリーブ(緑・黒など各種)100g / シトロンコンフィ1個(塩レモンで代用可) / 玉ねぎ1個 / にんにく1片 / 生姜1かけ / オリーブオイル大さじ5 / 塩大さじ2(日本の塩レモンを使用する場合は塩を少なめに) / 魚用タジンのスパイス(クミンパウダー、ラス・エル・ハンヌート、ジンジャー、シナモンなど混ぜたもの。あるいは市販のミックススパイスでもいいかもしれない)約20g / コリアンダー1束 / レモン汁1個分 / トマト1個
【1】 にんにく、生姜をすりおろし、オリーブオイルとスパイス、刻んだコリアンダー、レモン汁、塩をまぜ、大きめに切り身にした魚を30分その中でマリネする。モロッコのスパイス屋では、どんなタジンにするかでスパイスを調合してくれる。うまいカレーを作るのにスパイスを躊躇せず入れるように、6人分20gと表記したが、大げさなくらいに使いたい。
【2】タジン鍋の底にオリーブ油をしき、みじんにした玉ねぎをのせ、ざっくり切ったトマト、次にアーモンド、その上にマリネした魚とオリーブをのせる。
【3】魚のまわりに彩りを考えて同様の長さに切った野菜を並べていく。マリネ液を上からかけ、シトロンコンフィ、コリアンダーをのせ、蓋をして火にかける。この時タジン鍋と火の間には金属の板を噛ましたい。鍋の底の焦げ防止のためだ。
【4】火力は最初強火と中火の間。10~15分位で蓋の隙間から湯気がでてくるだろう。ご飯を炊くのと同じ要領でこの段階で弱火にする。野菜に火が通ればできあがり。
今回は魚なので羊肉などを使うタジンよりも短時間でできる。よって全体で火にかけるのは40分位だろうか。
ただ、途中で中の様子をみるために蓋を何度も開けてはならない。特に出来上がってすぐに蓋を開けてしまったら、鍋の中の蒸気が一気に飛んでしまうので、火から降ろしても蓋をしたままテーブルへ。しかし、肉のタジンの場合は途中で水を足すこともある。
ユダヤ人でありモロッコを出自に持つベーシストは、羊のスネ肉とほうれん草のタジンを作るのに3時間をかけ、タジン鍋が焦げ付かないように弱火で、それはもうほっくりとしたうまいタジンを作ってくれたものだ。
ここで登場するシトロンコンフィとは、日本的にいえば塩レモンのこと。日本の塩レモンとの違い、それは発酵の度合いだ。
モロッコのものは、ハラルの肉屋などでも大きな瓶に入れてあり、1個単位から買えるが、家庭でも作る。コンフィをつくり瓶に詰めたら、5ヶ月くらいは蓋はあけないで発酵させるそうだ。すると酸味が旨みに変わり、またレモンが丸ごと柔らかくなる。前述した通り、このシトロンコンフィと相性のいいタジンは、魚か鶏肉である。トロトロになったレモンに肉やら魚の身を付けて食べるうまさ。
ドキュメンタリー映画 « La cusine en hertage 料理という遺産 »の中で、今は失われつつあるが、かつてはモロッコの家庭に一人はいたDada(お手伝いさん)が話す場面がある。
「タジンを作るために潰した鶏の、睾丸が付いた手で料理したものは必ずおいしい!」
こう言いきって切ってしまう部分に、したたかに生きる姿、そしてうまいごはんを作る姿と生活の中の愛嬌がみえる。
映画自体は母から娘へ伝える女のごはん作りについての内容なのだが、このDadaのユーモアあふれる言葉も、きっとごはんにまつわる en hertage 遺産となることだろう。また、マグレブで美味しいごはんを食べたいならば、家庭に呼ばれることだ、と断言している。
エッサウィラのスーフィー教団ハマッチャの楽師たちは、みな楽師として糧を得ているのではなく、それぞれに仕事を持っている。医者もいればバスターミナルの管理をする人、あるいは配送屋。
彼らが家に呼んでくれる時は、いつも奥さんや娘さん、女たちが台所でご馳走を作ってくれた。わたし自身が女という立場で台所にいくと、彼女たちは笑顔で迎えてくれる。言葉ではなく、ただただ食べ物で人をもてなしたい、という気持ちだけで、わたしたちは会話ができるのだ。
今回のレシピを教えてくれたベナムは、生粋のエッサウィラっ子。なぜスーフィー教団ハマッチャのメンバーになったとか尋ねれば、「生まれ育った家がハマッチャの霊廟の隣だったからさ」という応え。幼い頃から彼らが奏でる音を耳にしていた。彼の表現を借りれば、母親のお腹にいた時からその音を聞いていた、という。「だから必然的に、僕はいつかスーフィーの楽師となると信じていたんだ。」
彼はライタと呼ばれるダブルリードの楽器(日本的にいえばチャルメラ)を主に吹く。毎週行われる儀礼の他、イスラームの教えに則る祭りで、音を奏でながら街を練り歩く。そこには老婆も、子供も、赤ちゃんも、そして観光客もいる。
ではスーフィーの楽師とは何なのか。
スーフィズム。イスラムの神秘主義と言ってしまえば手っ取り早いのだが、トルコ、ベンガル、マグレブetc…こういった地域にあるスーフィーたちの修行を一緒くたにはできない。それぞれの作法、方法がある。小さな街であるエッサウィラのスーフィーでさえ十数種の教団がある。わたしの経験を元にいえば、エッサウィラのスーフィー教団ハマッチャの音楽は、音による治療といえる。
内的痛みを個人が癒すことは可能だろうか。一人の医者、一人の患者という図式ではそういった治療方法が存在するだろう。しかし、ここエッサウィラには、こういった個人と個人の間で行われる治癒ではないやり方で、痛みを癒す場所がある。それが、霊廟であり、我々が音楽と呼称する音響世界なのだ。
実際に、この霊廟でのハマッチャの演奏(儀式)では、奏者はもちろん、それを聴くある男がトランス状態に陥っていた。ハマッチャ達が手と手をつなぎ、リズムに合わせて屈伸運動をはじめ、両足が地面から離れ、息が荒くなる。焚かれたお香が我々の意識をより一層現実からかけ離れた異空間へ促す。こうして彼は癒される。
今では禁止になったが、かつては自虐行為もこの空間において行われていた。トランスに陥る者はある時期まで、例えば煉瓦を、タジン鍋を、空中高くに放ち、落下する瞬間その真下で自分の頭に振り落ちるのを待つ。命中すればもちろん出血する。あるいはナイフで身体を刺す。またもや血が滴り落つ。しかしトランス状態に陥った者は痛みを感じないと言われる。痛みを通常とは別の次元で感受させるような空間、世界が開かれていると言える。
この空間に放たれる音とは、音楽ではないのだ。「音楽」という世界しか知らない人々が「スーフィーの音楽」と呼んでいるだけであり、わたしも含め、自らの経験範囲でしか音世界を語れぬ者は、このスーフィーの世界を目の前に戸惑うのは当然である。
ならばこういった音の鳴る世界を何と呼ぶのだろう。それは、音響だ。そしてこの場合の音響とは、すべてのものが震えの中にある、共振する世界といってもいいだろう。この音響の中で他者と共に時間を過ごしている、という現実を感知すること。
ゆるやかに速度を上げるパーカッションの音の中で、冷静に、あるいは無関心に、ただただ聞こえてくる日常の音響に身を委ねるエッサウィラに生きる老若男女。それは生活の中に音楽があるということ。音響としての音楽。そこに「表現」はない。だれも「表現」を必要としていない。
彼らを前に、「わたしが知っている音楽とは何なのか」と問わずにはいられなかった。
ある時、ベナムがわたしに一枚の写真をみせてくれた。それは彼の奥さん、そして子供たちの姿。
彼らは今どこにいるのかと、わたしは聞かなかった。
ベナムがライタを吹くことは、彼のchagrin(悲しみ)の表現のための行為ではもちろんない。ハマッチャの一員として音を奏でる時、目の前にトランスに陥る人がいる時、その空間には、演奏することによって楽師自身が内的癒しを得るということなのだ。
音楽と祈りの共生。ハマッチャが歌う歌詞には、きっとアッラーが登場するだろう。彼らが奏でる旋律は目には見えぬ神に捧げられたものなのだろう。加速するリズムは神の存在へ近づくにつれ高揚する体感的速度と比例する。音楽という言葉はさまざまな方法で説明され、カテゴライズされる。往々にして宗教的意味合いを持つ音楽は、聖性なる音楽と表現されてきた。
ではここでいう聖性とは、信仰をもつ者にだけ機能するのだろうか。彼らと同じ信仰をもたない者に、彼らの音楽―音響―治療は機能しないのだろうか。
彼らの世界を知ったわたしたちは、わたしたち自身にまたもや語りかけるのだ。「音楽とは何なのか」と。
それは音楽学という学問で語るべきなのか、宗教学の中で議論されるものなのか。とはいえ、そもそもここでいう学問自体がほとんどの場合、西洋世界で作られたものだ。
さらに生まれるのは「音楽家とは何なのか」という問い。音楽だけで収入を得られなければプロと名乗ってはいけないのだろうか。祈りの音楽、治療の音楽、ここに経済に還元される音楽はない。
では、彼らが「西洋人」と共に奏でる演奏に、祈りはないのだろうか。さらには「東洋人」である私が西洋の楽器で参加する場合には? レジデンス中に自問し続けたこの問いに、未だこたえは見つかっていない。
ひとつ言えるのは、彼らと一緒に演奏するということは、こういった彼らの世界を知るということであり、また彼らがわたしたちの奏でる楽器の音に触れるということだ。触れるとは、この場合、即物的な行為でもある。
西洋による世界の発見以前から人類は移動の中で物事の融合を試み、目に見えぬ時間軸の中で生活を彩なしてきた。
各々の音の存在に触れることで生まれる交通。ここでいう交通とは相互の歩み寄りを意味する。楽器にヒエラルキーは、ない。電子楽器に触れてはしゃぐパーカッション奏者で歌い手であるサラ。セミアコースティックのウードを爪弾くハッサン。サックスのマウスピースを咥えるナジ。今はぎこちなく、これらの楽器がハマッチャの音世界と共に鳴っている。いつの日か、「セッション」ではなく、真正な姿としてのエッサウィラ、あるいは世界のどこかに鳴る音響になる日がくるかもしれない。
食材の匂い、それを売る人々の匂い、音響、祈りが一体となった日常として、つまり生と死が、エッサウィラのスーク―市場という混沌の中にある。
こういった世界に生きる人々の営みがあるという当たり前のことを、では、言葉をつかって誰かに伝えることはできるだろうか。
音は体感することしかできない。その感知の仕方は経験に左右される。しかし、わたしたちには想像するという手段が残されている。既知の中に未知の音空間を想像することは、可能だ。
世界の片隅に、祈りという音響と共に生きる人々の存在をほんの少し想像してみること。この行為を、彼らが食べるごはんを作りながら、食べながら、楽しむレベルでできるならば、そこに少しの寛容さが生まれるのかもしれない。
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