料理は、その人が生まれ、育ってきた文化や環境を物語るもの、人生の欠片ともいえます。世界各地で生きる人たちの姿、人生の欠片のレシピから多様なSaveur 香りが届きますように。【編集部】
――ウイグルの肉包みパイ・ゴシュナン――
新疆ウイグル自治区、ウルムチ、外気摂氏マイナス10度。
「後ろを振り向かないでください。わたしたちは監視されています。」
観光客は行くことのないウイグル自治区の内地を案内してくれるガイドとの待ち合わせをした喫茶店の窓は、静かな息で曇っている。中国という国にあって、この地に生きる人々の顔は典型的なテゥルク族の系譜だ。その多くは回教徒である。
今でこそ国際的な問題になっている中国政府によるウイグル民族のジェノサイド。
2009年以前、すでに写真家トニーはこの地に数度足を運んでいる。彼と接触を持った者たちはおそらく中国政府に捕まり、連絡が取れなくなったという。
撮ってはいけないものをカメラにおさめてしまった。
ただの風景だ。しかしその風景の中に沈黙の秘密がある。
わたしたちの想像など及ばない内情は、昨今、日毎に届くウイグルの人々の小さな声からしか知る術がない。
2009年夏、佐渡での演奏の際、前年新潟公演でお世話になったギャラリーへ挨拶に行った。そこではある写真家の個展が開催されており、会場に流れているのはわたしの音楽だった。どうやらオーナーが彼の作品に合うだろうとかけているとのこと。
写真全体から、どこの地かわからぬも、アジアそしてイスラム世界の空気を感じとった。壁いっぱいに貼られた写真には、影でも光でもない、白い空気が溢れている。息をのむ深い白さだ。この個展が、写真家であるトニーこと、谷内俊文氏との出会いとなった。
その夜、彼は『Lineage(家系、一族)』と題した一冊の厚い写真集を片手に、ウイグルで見て、聞いて、食べて、撮った話を語ってくれた。わたしが知る由もない世界。歴史的背景、そして市井の人と権力の拮抗。抗う民を踏みつける理由は、彼らの生きる土地の、残酷さを誘うほど豊かな資源、経済至上主義的国際社会の中で、漢人政商、支配者が目の色を変えて狙う土地の条件が揃っているからだ。
地球儀を見てみればいい。中央アジアと呼ばれるソ連解体後にみる広域な土地。これらの地に眠っているまだ見ぬ資源。
以前タジギスタンで演奏する際に、ドゥシャンベ空港で日本人男性2人と席を隣にした。おおよそ商社マンであるとわかる会話。偶然にも演奏後の空港でも彼らとはちあわせした。彼らの肌はまるでゴルフをしたかのごとく焼けていて、話の脈絡からおそらく資源採取地の視察であったと察した。ウイグル、カザフスタン、タジキスタン、キルギス…etc
天然ガス、油田、ありあまる土地、この地域は世界の金の亡者たちの恰好の的である。
ライブツアーを終え東京に戻りトニーに連絡をすると、ウイグル料理のレストランへ行こうということになった。彼がどのような経由でウイグルに旅立ったのか、あまりにもその地での経験談が濃かったために聞き忘れていた。第一ウイグルの写真以外にどんな作品を撮っているのかも聞いていなかった。
「いやあ、モデルに惚れちゃってさ。」
普段はファッション、車、化粧品などいわゆる商業写真の分野でその才能を発揮しているとのこと。都会でバリバリ仕事をするカメラマンの風貌である彼が、モデルを追ってウイグルに旅立ったということに驚きはしないものの、さてウイグル美女の方が気になる。どんな美しさなのだろう。
初台にあるそのレストランでウイグル料理を食べていると、オーナーがわたしたちのテーブルに挨拶にきた。トニーが惚れたモデルとは、そのオーナーの妹さんだという。
羊肉の串焼き、独特な食感の麺など一通り食し、さて帰ろうとなった時、オーナーが手招きをして私を呼ぶ。
レジから一万円札を取り出し封筒に入れ、それを私に渡した。
「実は、妹二人は今パリにいるのです。事情はトニーさんからも聞いていると思いますが……このお金を彼女たちに直接渡してもらえないでしょうか。」
ずしんときた。この一万円札の重み、そして彼ら、彼女たちが置かれた状況、現実が目の前にあらわれた。中国政府による強制収容・労働から逃れるために2009年の時点ですでに、国外逃亡ができる者たちは、アメリカへ、カナダへ、欧州へ渡ったのだという。そして、トニーが恋に落ちてしまったモデルは今パリに身を潜めている。
冬のパリへ戻り、彼女たちに連絡をして例のものを届けることになった。
高級住宅街である16区。示された住所に着くと、そこはオスマン時代の19世紀末の建物。正規の扉から入るものの、最上階に行くエレベーターは裏口の方にあり、Chambre de bonne(女中部屋)と呼ばれる、当時の使用人たちが住む、一部屋15平米もない一室にたどり着いた。そこに姉妹二人が息を潜んで住んでいる。すぐに封筒を渡し、抱擁をする。
すぐに帰るつもりだったが、ささやかなウイグルのごはんを食べていってくださいと誘われた。ダンボールを小さな部屋の真ん中へ置き、下の妹が首にしていたスカーフを被せテーブルクロスとする。16区界隈の肉屋には自分たちが買える値段の羊肉は売っていないので、安価な牛肉のひき肉で作りましたが……と一言添えてだされたのは、ゴシュナンという肉包みパイだった。彼女たちの、ささやかなごはんに胸を詰まらせた。
持て成すとはこういうことだ。
「オ・モ・テ・ナ・シ」、と人の土俵で実態のない、外面だけ体裁を整えた輩の発した言葉には虚しさしかない。
訥々と彼女たちが話すフランス語での会話。ウルムチから北京へ渡り、渡航の準備をしたという。パスポートは中華人民共和国とある。しかし民族としての国籍はどこか置いてきぼり。そこから欧州にたどり着いた。
「わたしたちのように国からでた者がどこへ渡ったのか、政府関係の人々が家族にたずねるのです。そして言わなければ家族の誰かが連行され、拷問を受け、見せしめとして変貌した家族の写真が送られてきます。女性は漢人と強制的に結婚させられ、わたしたちの信仰であるイスラムの教えに反することを強いるのです。今、わたしたちには仕事がないのですが、何か当てはないでしょうか?」ちょうどわたしが住んでいる町界隈にウイグルレストランがあるので、スタッフとして雇ってもらえるか聞いてみようか、と口にするも、「そこは名前こそウイグル料理を名乗っていますが、経営者はウイグルの人ではありません」という。
彼女が話していた内容から、2009年のウイグル人によるあの暴動は彼らの唯一の抵抗の方法であったことがわかる。当時この暴動での死者数は200人弱と政府は発表しているが、実情はその5倍以上といわれている。トニーが撮った、あの淡々としたウイグルの風景から、現実を読み取ることを観る者はできるだろうか。
トニーは言う、「写真に言葉の説明は、いらないんだ。」
彼女たちはゴシュナンの作り方を、またウイグルの食文化、祈り、そしてムカームと呼ばれる音楽と詩の世界を教えてくれた。
伝統楽器をもちいる楽曲は今、インターネットでも聴くことができるので、さっそくフランス国営放送の民族音楽アーカイブOcoraレーベルでの録音を聴きながら、ゴシュナンを作るとしよう。
生地:薄力粉 400g、水 200g、塩 小さじ1
中身:羊肉 300g、玉ねぎ 中1個、ピーマン 1個(あるいは獅子唐2~3本)、クミンパウダー 大さじ1、ナツメグパウダー 小さじ1、 塩・コショウ 少々、 好みでレッドペッパー ひとつまみ、イタリアンパセリ 1束、卵の黄身 1個、サラダ油 大さじ2
【1】ボールに小麦粉と塩を混ぜ、少しずつ水を加え手でこねる。耳たぶほどの柔らかさになったらラップに包み、冷蔵庫(冬は常温)で30分ほど寝かす。
【2】羊肉をミンチにする。玉ねぎ、ピーマン、イタリアンパセリを細かく刻む。
【3】ボールに羊肉と刻んだ野菜、クミン、ナツメグ、塩コショウを入れ、手で混ぜる。トマトを入れる場合もあるが、この場合は水気がでるので、湯むきしてから種を取る。現地には長細いピーマンがあり、日本の獅子唐に似ているので代用可能、その場合レッドペッパーは入れない。またウイグルではパセリは入れないとのこと。
【4】生地を伸ばす。
【5】一枚目の真ん中に具をのせ、1cmほど残したのり代に溶いた卵の黄身を塗り、もう一枚の伸ばした生地をのせ、指でつまんではひねりながら閉じる。
【6】フライパンに油を引き火にかける。パイを壊さないようにのせ、中火で2~3分焼く(表面が焦げないように火加減に注意)。
【7】蓋をして、全体的に裏面に程よい色がつき、硬くなったら裏返し、再び蓋をする。この時点で約8分程度。
【8】おもて面の表面が硬くなったら再び裏返し、蓋をとりカリッとさせる。一口噛めば、皮から肉汁と具、香辛料の香り立つ熱々のパイを食す醍醐味が待っている。
シルクロード周辺の民謡や音楽、そしてペルシャの古典詩、イスラム神秘主義哲学などが融合し、音楽、歌、踊りの総合芸術として発展していったのが「ムカーム」muqamであるという。ムカームはアラビア音楽でいう音階「マカーム」を語源にしているものの、ウイグルでは狭義的な意味にではなく、ウイグルの芸術そのもの、その全体を表す言葉として使われる。長き年月をかけ伝来した信仰、食、音楽、詩、歌。わたしたちが想像する悠久のシルクロード。この道を人類が歩き、運び、生きてきた証拠はウイグルという土地に残るムカームと共にある。
時勢に翻弄され、また抗う人々の盾となったのはこのムカームの存在であり、時の権力者は隠喩によって批判や連帯を詠唱する者、ムカームを支える人々の命を奪った。ムカームを演奏する楽器の容相はいかにもイスラム教伝播地域に存在するものの融合的形態で、13拍子のリズムをシンプルに叩く打楽器のナグラ Naghra(ラジャスタンには同じ名称の打楽器がある)、あるいはイランではダフと呼ばれる手で叩く平たい太鼓、フレームドラム、ダプ Dapなどの音の粒が重なる。スルナイ Sunayはいわゆるダブルリードのチャルメラ。こちらはタジンのレシピで紹介したモロッコのライタと同じ。たとえば奈良東大寺の八角燈籠に描かれた、同じような楽器を吹く菩薩たちの姿にシルクロードの足跡が見て取れる。
写真家トニーとの付き合いは友人関係となり、彼の写真とのコラボレーションという形でコンサートを企画した。ウイグルの写真をスライドショーで上映しながら音楽を奏で、2010年時点でわかっている範囲のウイグルの現状を彼は話した。
そしておとずれた2011年3月。ウイグルへの情熱はそのまま福島第一原発へ潜入、写真を撮影した。匍匐前進で福島第一内部に入り、また人々の避難により、もぬけの殻となった町々をカメラにおさめた。ウイグルで起こっている人権侵害、拉致を前に、自身が被曝することのリスクは彼にとっては問題ではなかった。
原発20キロ圏内での撮影中に、警察に捕まった。尋問され、DNA採取への協力、写真削除の指示に従った。その9ヶ月後、東京地方検察庁公安部より、起訴された。ジャーナリズムへの規制、災害時に国民の安全を守るための情報としての写真、事実はどこに隠蔽されるのか。
「Deserted」と題した福島第一原発20キロ圏内への潜入写真の数々。写真の中にある事実。わたしはトニーが撮ったこれらの写真と音楽のライブを企画し、ツアーをした。芸術助成など乞うているいる場合ではない。生身の、リアルタイムの声を伝えるのに、書類一式を集め公的な機関へ申請する時間はない。東京、京都、名古屋、長野、etc。そして最終場所に選んだのは、南相馬にある「朝日座」という映画館だった。2011年にムスタファ・サイードという盲目のエジプト人ウード奏者と南相馬で演奏して以来、福島市-飯館村-飯野町-南相馬という線上に、わたしにとっての連帯があった。
東京駅から深夜バスに乗り通った南相馬への道。本来ならば国道6号を太平洋を右に見ながら北上すれば数時間で着くはずの土地だ。しかし原発事故以来、国道6号線は通れなくなっている(現在は通行可)。早朝に着く福島駅前から、南相馬行きのバスに乗り換え山々の中を走る。飯館村に積み重なる除染土を入れたあの黒い袋の山、山、山、そしてラジオ体操をする除染員を眺めた。
現地でこの公演に協力してくださる方々へ挨拶に行き、チケットの予約を受けつけ、町にポスターを貼った。一人でだ。最後の南相馬では、「Deserted」ではなく、ウイグルの写真を選んだ。46回に及ぶ核実験の場となっているウイグルの放射能汚染の地を撮った写真、そして音楽。
手配を済ませ、再び2時間、福島駅へ帰るバスに乗る。疲労困憊した体を「椏久里 あぐり」という、飯館村の住民の憩いの場所であった喫茶店で癒した。この喫茶店の名前はアグリカルチャー=農業からきている。農家として自立し、肥えた農地を次の世代に残し、都会と田舎の交流の場にもなりたいーーという思いを喫茶店の名前に込めたそうだ。福島市内へ移転を余儀なくされたオーナーの話に耳を傾ける。
避難後一度だけ飯館村に戻ったという。虫に食われたボロボロのワンピース、写真、すべての記憶、思い出はあの家に置き去り。自立した村として、農家の婦人会はドイツへ酪農の視察にゆき、飯館牛ブランドをはじめ、豊かな農畜作物を生産していた。飯館村の小さな小さなコミュニティーの生きるという営みは、阿武隈高地最北の美しき谷に位置するこの土地に溜まった放射線量を原因に破壊され、全村避難となった。現地視察、放射線量測定、実録はフォトジャーナリストの豊田直巳さんはじめ、多くの方が行い続けている。喫茶店椏久里のオーナーも、福島原発事故と共に生き、飯館村に生きた体験を『山の珈琲屋 飯舘「椏久里」の記録』(市澤秀耕・市澤美由紀著、言叢社)として綴った。
トニーとのツアーは順調に進み、新潟での演奏を終え、そのまま夜の高速道路を走った。途中睡魔が襲って運転の限界となり、会津近くの安旅館でスタッフ一同寝る。朝一で再出発。中途、朝靄の中に現れた磐梯山その姿に涙がこぼれる。昼、飯野町で毎月28日に行われる五大院の縁日で演奏をし、お振る舞いのだんご汁、漬物、お抹茶などをいただき、南相馬に入る。
お客様は来てくれるだろうか。不安の予感は当たった。大きな映画館に観客は6人。しかも南相馬の人は、朝日座を管理している方だけだった。来場されたのは、県外の方、喫茶店・椏久里のオーナー、そしてスタッフ数人。予約はくださったものの、来なかった人々。その意味はどこにあるのか。どんな力が働いたのか。疑問が巡る。それでも演奏は行わなければならない。トニーの写真は白い空気を放ち、画面いっぱいに写った。
公演後、会場の使用料を払う。出演者のギャラにあてる余剰はない。完全なる赤字。そんなことよりこの惨状に、一緒に演奏してくれた共演者、そしてトニーへの申し訳なさで胸がつぶれそうだった。
ロビーで来てくださったわずかな方々と明るく歓談し、さて夕食をと町のレストランへ行くも、そこで目にしたものは、満席で入れない夜の店の姿だった。除染員たちによる町の賑わいは、避難する住民、あるいはこの町に残る人々にどう映るのだろう。どこも満席。仕方なく、食事は出せないが飲み物とつまみであれば出す、というBarに入れば、溢れる若者のどんちゃん騒ぎ。朝日座の閑散とした客席との対比に言葉がでない。
遠くの国で起こっていることは、実は自らが住んでいる国の中でも起こっているという現実と、そうしたことへの想像力。
ダム建設、原子力発電所建設、あるいは基地建設。人々は抗ってきた。誰によって、何によってわたしたちの命は脅かされるのか。
新疆ウイグル民族への弾圧は国際問題として取り上げられている。そして国際社会と呼ばれるこの世界で、金の亡者は国を企業のように変容させ、国家と呼ばれる機関が守るはず人民の命を金に換える。
人はなぜ金を手中に収めようとするのだろう。しこたま懐に蓄えた金をもって火星に独立国家でもつくるのだろうか。
現在中国政府がタックスヘイブンとしての機能を発揮させているコルガス(ホルゴス)市は、カザフスタンとの国境際のウイグル自治区の中にある。この地が資源採取だけでなく、「一帯一路」構想と呼ばれるシルクロード経済ベルトの中心的拠点であることから、すべては開発投資の名のもと、その地に生きるウイグルの人々のアイデンティティーの消失=文化の抹消を行っている。
ウイグルの人々への同化政策。小さな声で発せられる、漢人との強制的な結婚の事実。彼らの文化であり道徳の中心でもある回教の否定。職業教育センターという名のもと、強制収容の中での拷問、洗脳。ウイグル人というだけで、権力から暴力にさらされている。
「災難の渦に巻き込まれ 逢瀬の宝石を探せなかった あふれ出る涙の一滴一滴が 海になる」
『ウイグル十二ムカーム』(集広舎・翻訳・解説/萩田麗子)
今日歌うはるかなる詩。ウイグルで、福島で、人々は伝えられた物語を胸に秘め、旋律、音律に乗せ、喜びも怒りも悲しみも音楽の中に見いだす。歌は語りだ。
ムカームの中にある様々な隠喩。多くの詩人は、その詩が思想の表現として機能していたことから絞首刑、あるいは生きたまま皮を剥がされる死刑に処せられてきたという。愛を謳う歌が、時の権力者によって抹殺される。
文化とは生活だ。そして生活は人々の命でもある。この根源的事実は金融政策という名目で、ある民族が文化もろとも抹消されつつあることにどう関わるだろうか?
画一的な経済都市に変貌していくその地で、人々は語りを、歌を、いつの日か忘れ去ってしまうだろう。目の前で奏でられる楽器の音は聞こえなくなり、2m先で奏でられる音でさえ、インターネット経由で聞くことになるだろう。
大地、山、川、そして海でさえ、今この地球で息をするものみなは消されゆく。
光でも影でもない、トニーがカメラにおさめたあの白い空気とは、わたしたちの息そのものなのだ。
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