料理は、その人が生まれ、育ってきた文化や環境を物語るもの、人生の欠片ともいえます。世界各地で生きる人たちの姿、人生の欠片のレシピから多様なSaveur 香りが届きますように。【編集部】
――民衆の音、贄を海辺で燃やす――
暁の果てに、海原の傷の上、きわめつけの、まやかしの、荒涼たるかさぶた。
証言しない殉教者たち。しおれ、おしゃべりオウムの鳴き声のように無益な風の中に散る、血の花。
ひからびた苦悩に唇を開き、偽りの微笑みを浮かべる古い人生。
静かに、太陽の下で腐敗していく古い悲劇。
生温い膿胞ではちきれんばかりの古い沈黙、
われわれの存在理由の恐るべき空虚さ。
――エメ・セゼール『帰郷ノート』(砂野幸稔訳『帰郷ノート/植民地主義論』平凡社)より
カリブ海の歴史の影とは、かつてのヨーロッパ列強による奴隷制植民地社会だ。
友人が住むサン=バルテレミー島、この島で演奏をしないかと誘ってくれた。
小アンチル諸島・リーワード諸島北部に位置する、サン・マルタン島のオランダ領からフランス領へ移動する。一つの島が二つの国の領土として二分されている摩訶不思議な事実を前に、大西洋を横断するもここがEU圏であることの意味を探す。
船に乗り南下し、21平方キロメートルほどの小さな島、サン=バルテレミーの港に着いた。
電車、タクシー、飛行機、船、移動また移動。熱帯の島の夕陽は今日も水平線へ静かに沈む。
目を伏せたくなるほどの観光でなりたつこの島は、1493年にコロンブスに発見されて以来、マルタ騎士団、スウェーデン、イギリスと所属が変わり、そして現在はフランスの海外県となっている。
カリブ海の島々に生きていた人々は、殺戮と、ヨーロッパから持ち運ばれた疫病によってその息の根を止められた。
入植者たちがブラックアトランティック・黒い大西洋を海流と共に渡りこの群島にたどり着き、三角貿易で富を築いた歴史。
その歴史の線上にクレオールという文化が生まれる。
演奏会場は、ブルターニュとグアドループを出自にもつアルノルドがオーガナイズする、観光客向けの場所だ。現地のミュージシャンとのリハーサルは、島に着いた翌日、丘また丘を越えて辿り着く林の中で行われた。
鳥の鳴き声、永遠に続くがごとく晴天に浮かぶ雲。熱帯にあって、どうやら楽器のコンディションに支障はなさそうだ。ギター、ドラム、ベース、そして双子のサックス奏者も参加し、ジャズ、シャンソン、すこしふざけてレゲエなどをセッションする。この中に、肌の黒い人はいない。
サン=バルテレミー島は、マルティニークやグアドループ、ハイチといった島々とは違い、奴隷たちを労働させるサトウキビ畑やラム酒蒸留所、農作物に適した土地いわゆるプランテーションはなく、そういった経済活動には全く不向きな土地である。
幾度の変遷を経てフランス領となり、戦後は観光に力を入れている。ご多分に漏れずこの島はタックスヘイブンの地でもある。
ホテル、あるいはロスチャイルド家が所有するビーチ以外は、地元の人でさえも少なくとも20分は岩、崖の淵を歩かなければ海岸に辿り着けない。島にある飛行場は世界で最も危険な滑走路といわれている。平地面積が限られていて、とても短いのだ。
この島の熱帯の2月は、鮮やかな色の砂糖鳥と、学校を終えた子どもたちがサーフィンボードを抱えて走る姿と共にある。
ちょうど謝肉祭カーニバルの時期と重なり、「灰の水曜日」の前日=カーニバル最終日のマルディグラ「肥沃な火曜日」に参加しないか、と誘いを受けた。
今では宗教的な意味よりも、民衆の祭りとしてこのカリブ海地域では大々的に行われている。
二つ返事で参加するグループの会合に行けば、そのグループとは、島で一番古いアソシエーションで「One heart No color」という名であることを知る。
山車に大型音響システムを乗せガンガン音を出しながら、派手な衣装の女性たちがいるグループや、子どもたちのグループ、あるいはドラァグクイーンの美しき姿など、島民、観光客それぞれのやり方でカーニバルに参加するのだが、「One heart No color」の人たちは、伝統的な太鼓、マラカス、法螺貝などで構成される音楽グループだ。
見たことのない楽器に興奮し、いろいろ試すものの、どうやら太鼓は叩かせてもらえなさそうだ。サックス吹きの意地ということで法螺貝を吹いてみる。幸い音は出た。少しの自信をもって、早速演奏をしながら街を練り歩く予行練習をする。反復するリズム、マラカスの軽音が気持ち良い。何よりみんなで奏でる音の重なりが心地よいのだ。お世辞と練習後のラム酒数杯ですっかり気分をよくしたものの、数日後に控える本番が、大変なことになるなど予想もしていなかった。
「One heart No color」というグループ名に象徴されるように、このグループには様々な人が演奏に参加している。その多くはグアドループ、マルティニークから出稼ぎに来た人で、彼らから音楽的指示を受ける。観光業に就くアルザス出身の人や、フィラルモニ・ド・パリと呼ばれるパリにあるコンサートホールの工事現場で塗装の仕事をしたというロワール地方のおじさんは定年後にこの島にやってきたという。
要するに様々な色が混ざり合っているということだ。
普段は清掃の仕事をしている、太鼓担当のマキさんという褐色の肌をもつ大柄なおじさんは、このグループのクレオール語での呼び名を教えてくれた。
「on kye pani koule」。
この群島から他の土地に行ったことはないけれど、メトロポール=本国(フランスのこと)にいつか行くことに憧れるよ、と語り、わたしがパリで食べたことのあるカリブ料理のことを話すと、彼はアクラという干鱈の揚げ物の作り方を教えてくれた。
家庭でつくる素朴な作り方である。
干鱈 200~300g 、ニンニク 一片、シブレット 3本、あるいは小さい玉ねぎ 3個、パセリ カップ1、フレッシュタイム、タバスコ 適量、卵 1個、小麦粉 200g、ベーキングパウダー 小さじ2、水 1カップ半、サラダ油(揚げ用)
【1】干鱈を皮を上にして途中水を替えながら10時間ほど塩だしする。
【2】鍋に水をはり、干鱈を入れて湯がく。沸騰したら火を弱めて8分ほど。
【3】湯搔き終わったら身をほぐす。皮、骨は取る。
【4】ボウルに小麦粉、水、溶いた卵、ベーキングパウダーを入れ混ぜる。
【5】パセリ、ネギ(あるいは小さい玉ねぎ)ニンニクを細かく刻んだもの、タイムの葉、タバスコを加える。
【6】サラダ油を熱し、180度になったら、種をスプーン2つで形成し揚げる。
【7】アクラが浮いてきてきつね色になったら取り上げる。
【8】ライム、タバスコを添えて食す。
マキさんのこのレシピのいいところは粉っぽくないところです。わたしはもう少し小麦粉を減らし、スプーンから種がすべり落ちるくらいの方が、鱈の味わいがあって好きです。またミキサーにかける方法もありますが、手でほぐしたほうが、食感が良いと思います。
タイセイヨウダラ=干鱈の作り方である塩蔵は、世界最古の保存方法であり、干鱈は数年間の貯蔵寿命を持っているという。
バイキングの時代から現在に至るまで、北海ー北大西洋地域で漁獲できる鱈は、10世紀末にはすでにバスク地方から周辺国に輸出されていた。加工に必要な塩は、大西洋岸に面した塩田、ゲランドの塩だったのではないだろうか。革命前まではフランスにおける塩の50%が、ゲランドを含む西海岸産だったという。
この塩田の近くにあるナント港は奴隷船の母港である。三角貿易の流れで労働する奴隷たちの食糧とされたこの食材のレシピには、揚げ物だけでなく、バスク地方の名物料理「バカラオ・アル・ピルピル」、フランス、ポルトガルで食す「タラのブランダード」、生の鱈であればブラジル北東部、バイーア州の郷土料理「ムケッカ」、そしてイギリスではフィッシュ&チップスなどがある。
さて、カーニバル本番がやってくる。
演奏は問題はないと高を括っていたら、衣装を自分で縫わなければいけなかったことをすっかり忘れていた。気づいたのは前夜。S,M,Lのサイズで裁断された布を事前に渡されていたのだ。今年のテーマはクレオパトラ(!?) 。マルティニーク始め、カリブ海の女性たちが伝統的に着るマドラスチェック柄の布でパンタロンと上着、飾り帽子を縫うことになる。アルノルドさんの奥さんが幸いにミシンを持っていたので、夜なべで縫製に勤しむ。
昼前に集合し、衣装を身につけ、顔に茶系のファンデーションで濃く化粧を施し、仮装完了。
景気付けにとラム酒とフルーツジュースを混ぜたポンシュと呼ばれるカクテルをひっかける。
道も目的地も分からず、先頭を行く太鼓隊についてゆくのだが、なんと4~5時間炎天下を歩きながら吹き続けることになると、この時、知る。
もちろん吹き続けるのは無理なので、中途法螺貝を離して口を休めるのだが、歩速はそのまま。
路地に、坂道に、陰を見つけては汗だくの体に涼を与える。次第に最終列の方へと後退する。そんな姿をみて、マラカスと交代してくれるメンバー。
手渡された楽器はココナッツの殻に豆を入れたもので、最初は法螺貝から解放された喜びがまさるも、しばらくすると、そのマラカスさえ重く感じてくる。しまいには空中に投げマラカスが重力によって手元に落ちてくるまでのわずかな数秒で、手を休ませる手法を生み出していた。投げる高さは次第に増す。
再び法螺貝に変えてもらい、続行するパレード。サポートカーとして飲み物を積んだトラックがわたしたちの歩調に合わせた速度で横を行く。そこにはシャンパンやらラムやらが積んであり、メンバーから促されるままそれらを飲み、汗で水分は蒸発するものの、体内を循環するアルコールで息切れ。しかし吹き続けなければならない。これはもう修行の域だ。身体的疲労に襲われるものの、共に演奏する仲間との結束を前に自己を叱咤する。もうこうなれば一杯も二杯も変わらない、と水分補給のアルコール摂取は続く……。
音の響き、そして同じフレーズを反復することによりトランスに向ったまま、最終地である港に着けば、演奏中の重たかった腕も足もまるで嘘のように軽くなっていた。達成感とはこのことだ。
しかしカーニバルはまだ終わっていなかった。
「明日は白と黒の服で来てください」
最後の日の「灰の水曜日」Ash Wednesdayには、カーニバルの象徴となるヴァヴァル Vaval王の焼却をするのだという。一年の中でこの日は、道化、滑稽の行為が許される。その年一等の権力を振るう者を槍玉に挙げて、燃やすのだ。いってみれば、民衆の憂さ晴らしともいえる。しかしそのやり方にはウィットに富んだ諧謔性が求められる。
2017年は、ドナルド・トランプを実物大の人形に仕立て、かっこいいスーツを着せ、男の逸物を粘土で付け、頭には、栓抜きがついた「ジャーラスターファーライ」と印刷された真っ赤なキャップをかぶせていた。
海岸に運ぶまで民衆が人形で遊びつつ、いざそれが燃やされる時がくる。喪に服した格好であるわたしたちと、着飾られた権利の象徴。燃やされるその姿とは、現実世界の揶揄であり、スペクタクルだ。
点火する直前、こともあろうにわたしは人形トランプが被る帽子を失敬した。この行為に皆がどっと笑う。この熱帯の島に来た思い出に、そして共に音楽を奏でた仲間たちとの時間の記憶として、とっておこう。
海岸から火の気がおさまり、三三五五帰る路地の夜の闇に、群星をみた。それらをプレアデス星団と信じ、カーニバルに参加したわたしたちの姿を、星の光に映した。そう思いたくなる、輝きだった。
冒頭の詩は、マルティニークに生まれ、ネグリチュードの中心的人物として植民地主義を批判した詩人、エメ・セゼールの『帰郷ノート』からの抜粋だ。
約100年前、肌の色の混ざるカーニバルの様子を誰が想像できただろうか。
セゼールとの交流を生み、このカリブの島々を数度訪れたやはり詩人のミシェル・レリスは、
カーニバルの仮装にまつわる一切が感じさせる死–
あるいは自分の外に出て死後の世界に根を下ろしついにはあれを、あの死を欺くためのように、自然の状態から遠ざかり、変装し、おのれの証人となるものを覆い隠す手段による種類の付け加え…。
という文節を『ゲームの規則/軍装』の中で記述している。
1948年にレリスはマルティニック、グアドループ、ハイチ周遊をし、その後アルフレッド・メトローと「ヴードゥーの聖所巡り」で憑依の場面に立ち会い、1955年に民族学として『マルティニークとグアドループにおける諸文明の接触』をまとめた。
――生きるために死を飼いならす。
生きると同時に死を飼いならしてきたカリブの島々の人々。
1848年ヴィクトル・シェルシェールにより奴隷制が廃止される。
1931年、セゼールが約8年間の学業を修めるために渡ったフランス本土では、国際植民地博覧会が開催されていた。それはフランス植民地の栄光を示すための祭典であったが、民族学者による調査の結果、多数ある植民地の多様で豊かな文化や生活様式を伝えるものであり、植民地の人々が展示を通して自らの文化を再認識する機会になったという側面もあったようだ。
35年には植民地である島々の海外県化をうたうポスターが既につくられていた(実際にマルティニークの海外県化法案の起草が実現するのは45年)。第一次世界大戦での黒人兵の貢献によりフランス本土における彼らへの意識の変化や、アメリカの黒人文学運動の流入などによって、1920年代の「狂乱の時代」以降、パリでは黒人文化が注目され、彼ら自身によるさまざまな文化や運動も沸騰していた。
彼が過ごした当時のパリ。そこに集まっていた植民地出身の黒人学生たちと共に起こしたネグリチュード運動への傾斜。
その後、帰郷したマルティニークの島で、セゼールは偶然にアンドレ・ブルトンと出会う。ブルトンは『帰郷ノート』を絶賛した。
本土の彼ら=”精神の征服”を被植民地に強いる白人が持つ、”異国情緒 エキゾチスム”というイメージ。”正しい”フランス語でこのイメージに強度を添え、「世界の終わり」という絶望を、詩に託したセゼール。
彼が肌に携えた島の熱、言葉の温度。熱帯(トロピカル)の涙。
植民地と宗主国という二項対立を思考の出発点としてしまうと、植民地解放の契機でさえ、ヨーロッパ「発」の啓蒙思想やその副産物である自由・平等・民主主義のおかげで与えられたものだという思考のくびきから逃れることはできない。
(『黒い大西洋(ブラック・アトランティック)と知識人の現在』市田良彦+ポール・ギルロイ+本橋哲也著/小笠原博毅編、松籟社)
宗教を起源にしているものの、カーニバルというものにあるのは海と土と風の中にある民衆が生きる姿だった。
東洋人のわたしがカーニバルの一員として音楽を奏でること。この島において外部者でしかなく、主体ではないわたしは、しかし音楽の中にいた瞬間、複合的アイデンティティーを持つこととなったのだ。
白、黒ではない。エスニシティーに帰属する立場にいるのではなく、一人の人間であることはその存在自体が諦念を生むが、それでも音楽とはそういった絶望にほんの少しだけ微笑んでくれる。
音楽と食べることを介した「One heart No color」のみんなと過ごした僅かな時間は、彼らが、そしてわたしたちが「複数の根」(『フランス植民地主義の歴史』平野千果子著、人文書院)をもっていることを教えてくれた。
《バックナンバー》
〈1皿め〉サックス奏者、仲野麻紀がつくる伊勢志摩の鰯寿司
〈2皿め〉シリア人フルート奏者、ナイサム・ジャラルとつくるملفوف محش マルフーフ・マハシー Malfouf mehchi
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〈5皿め〉しょっぱい涙と真っ赤なスープ――ビーツの冷製スープ――
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