コヨーテ歩き撮り#220
雨の公園、人はいない。人なつこい白鳥が近寄ってきた。ただ一羽。何をねだっているの? 久留米市の石橋文化センター庭園にて。 It’s raining and there is no other person in the park. A tame swan comes swimming toward me. It’s all alone, too. What do you want? Sorry, my pocket is empty.
雨の公園、人はいない。人なつこい白鳥が近寄ってきた。ただ一羽。何をねだっているの? 久留米市の石橋文化センター庭園にて。 It’s raining and there is no other person in the park. A tame swan comes swimming toward me. It’s all alone, too. What do you want? Sorry, my pocket is empty.
憲法学、もう少し広くとって法律学の世界では、内的か外的かが、いろいろな局面で問われる。H.L.A.ハートは、規範一般について、内的視点と外的視点とを区別した。 規範に則した行動には、内的側面と外的側面とがある。 毎週末に、新宿のデパートに出かける習慣のある人がいるとしよう。……
笑顔のとなかいです。ところで、ぼくがとなかいをとなかいと平仮名で記すのはなぜ? 答えは小島敬太との共著『サーミランドの宮沢賢治』(白水社)をごらんください! You know the reason why I always write tonakai in hiragana? Seek the answer in the book Miyazawa Kenji in Saamiland, co-written with my friend Kojima Keita!
あ、この人こんなふうに笑うんだ、と、ミニマリズムの彫刻家ロバート・モリス(第11回・第12回記事参照)についての1995年の解説映像『ロバート・モリス 心/身問題』に登場する、美術批評家ロザリンド・クラウスを見て思った。クラウスはこの映像の中で始終かしこまって教壇から解説するのだが、威圧的な教授たらんと装う最中、映像を投影するスクリーンとして使用していた、教壇に貼り付けられたボール紙が剥がれ落ちて、ふふっと笑ってしまう。……
ハワイ島の南端はカ・ラエ、ハワイ語でただ「岬」を意味する。タヒチから移住してきたポリネシア人の最初の上陸地点か。ここに立ってアオテアロア(ニュージーランド)の方向を眺めるのが好き。 The southern tip of Big Island is called ka lae, which simply means "the cape" in Hawaiian. Probably the first landing point for Polynesian immigrants from Tahiti. I love to stand here and look across the Pacific to the direction of Aotearoa.
私はかもめ。人間世界の暦には関係なく、春は春。ジョナサンのように飛ぶぞ。 I am a seagull. Regardless of how humans establish their calendar, come spring it’s new light all over. I’ll fly high as Jonathan Livingstone Seagull once did!
本連載もいよいよ最終回です。アントレプーシップとは何か、さらには高橋先生のアントレプレナーシップの捉え方、そして「想い」を十二分に受け止めてください。[編集部]
メキシコ国立人類学博物館のシンボルはこの雨の木。崇高な宇宙樹の存在を思い出させてくれる。 The rain tree located at the entrance of the National Museum of Anthropology in Mexico City. It’s a perpetual reminder of the sublime cosmic tree.
メキシコではどくろはかわいいものと考えられている。死がつねに身近な文化。 In Mexico skulls are abundant and considered cute! It’s a culture in which death is always close by.
これまで、何人かの作者たちの芸術実践に触れながら私が述べたかったことは、仮面を選択する行為が、一方では作り手や書き手に自由と解放の可能性を与え、他方では自己喪失の危険をもたらしてきたということだ。これから展開する議論はそれとは別種の問い、すなわちどのような選択が真の自由と言えるのか、という問いと部分的に関わる。……