掌の美術論 第21回
顔に触れる――彼女たちの仮面を介して(後編)

About the Author: 松井裕美

まつい・ひろみ  東京大学大学院総合文化研究科准教授。博士(美術史)。専攻は、フランスを中心とする近現代美術。著書に『キュビスム芸術史:20世紀西洋美術と新しい<現実>』(名古屋大学出版会、2019年)、翻訳にデイヴィッド・コッティントン『現代アート入門』(名古屋大学出版会、2020年)など。
Published On: 2024/12/6By

 
『掌の美術論――触覚と想像力に』、2026年7月2日発売です。みなさま、どうぞお手にとってください。[編集部]
 
 

顔に触れる――彼女たちの仮面を介して(後編)

 
 
白い仮面を裏返す――ファノンを介して
 
 これまで、何人かの作者たちの芸術実践に触れながら私が述べたかったことは、仮面を選択する行為が、一方では作り手や書き手に自由と解放の可能性を与え、他方では自己喪失の危険をもたらしてきたということだ。これから展開する議論はそれとは別種の問い、すなわちどのような選択が真の自由と言えるのか、という問いと部分的に関わる。それは、ある仮面を自分で主体的に選んでいることと、無意識に欲望を植え付けられ選ばされていることとを、いかに区別するのか、という問いでもある。結論を急ぐべきではないのだろうが、多分そこにはっきりとした区別はない。では、私たちにできることといえば、自分ないしは人が選んだ仮面を裏返してみて、選ぶ行為と選ばされる状況が個々の状況でいかに複雑に絡まり合っているのかを確認することくらいなのだろうか。もしそこから一歩踏み出すとすれば、一体どのような振る舞いが私たちには必要とされるのだろうか。これこそ私が連続する記事の最後で問いたいことである。
 
 フランスの植民地であったマルティニーク島出身の思想家フランツ・ファノンは、仮面を自ら選ぶことと植民地主義からの真の解放とが、黒人にとっては必ずしも一致しない状況があることを、『黒い肌、白い仮面』(1952年)で論じている。一方では黒人のうちに、白人のようになりたいという無意識の欲望を、ファノンは認める。「白い仮面」を被りたいというこの欲望は、植民地主義の構造の中で植え付けられた劣等感からくる。他方で彼が白人のうちに認めるのは、黒人を子供や未開人として扱う差別的な眼差しである。それは黒人を「黒い肌」としてしか、、見ないという姿勢にほかならない。こうした状況で、西洋の知の体系から学び、一人の人間として白人社会に参与しようとする黒人の知識人が直面するのは、冷酷な拒絶であり、相手が自分に対して押し付ける黒人のクリシェに否応なしに同一化させられる暴力である。白人社会で「黒人らしい」振る舞いを求められたファノンは、白人の眼差しが捉えた「黒い肌」に「ひきこもること、身を縮めること*1」を要求されたのである。
 
 精神医学を学んだファノンは、そうした状況に自ら直面しながらも、黒人が被ろうとする白い仮面の裏側を注視し、そこから見えてくる心理構造を分析しようとする。もちろん内側から仮面を観察するには少しだけ仮面を顔から離す必要があるのだが、彼は白い仮面を捨ててしまうのではなく常にそばに置き、黒人と白人の相互関係の中で構築される無意識の欲望を言葉にして意識化しようとすることから始める。たとえ黒人が選んだ仮面が、社会構造の中で選ばされたものであったとしても、重要なのはそうした欲望と「距離を置く」ことではない、と彼は述べる。むしろそうした欲望に近づき、多元的な要因を分析し、「葛藤の真の源に対する—すなわち、社会構造に対する―—行動(あるいは受動)を選べるようにすること*2」こそ、ファノンの目指すものであった。そのことでこそ、黒人は「自分を白くするか、姿を消すか」という絶望的な二者択一を超えて、主体的に行動することができるようになるはずだと、ファノンは信じた*3
 
 ただしファノンが詳述していない部分、すなわち自己の欲望や無意識について知ることと、すべての人が安心して対等に生きることができる理想を実現するために社会を変えようと行動することのあいだにはまだ距離があり、それを埋めるにはまた別種の挑戦が必要となる。一体そこでは何が待ち受けているのか。白人が定めた「黒人らしさ」を自らの身から引き離しつつ、自らが被る白い仮面を裏返し注視することは、黒人にとっての解放の一歩ではある。ただ次のステップに踏み出そうとした者たち、つまり仮面を裏返すことでファノンが示した黒人の心理的構造についての知見を足掛かりとしながら、その後さまざまな分野で実践を展開した人々の中には、行動するためにこそ黒い仮面を被るという選択肢をとる者もいた。こうした者たちは、もちろんただ単に無批判に黒い仮面を被るわけではない。行動の最中にもときおり顔から仮面を少し離してみて、その内側を注意深く観察するような慎重さが、彼らにはある。
 

 ここではこうした実践の芸術分野での例として、センベーヌ・ウスマン(ウスマン・サンベーヌとも表記される)監督の映画『黒人女性』(1966年)と、ローナ・シンプソンの1990年前後のいくつかの写真作品を例に取り上げ、状況によってその意味を変える仮面の表象について検討する。
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つづきは、単行本『掌の美術論』でごらんください。

 
身体を通して、世界に触れ、世界と戯れ、世界を模倣し、そして世界とずれていく。そのずれの中にこそ、芸術の可能性は宿っている。
 
2026年7月2日発売
松井裕美 著『掌の美術論――触覚と想像力に』

 
四六判上製・352頁 本体価格4000円(税込4400円)
ISBN:978-4-326-85207-9 →[書誌情報]
【内容紹介】遊びが手触りや感覚を頼りに新たなゲームや楽しさを創造し、ときに新しい認識や価値を開いていくように、触覚を軸にした鑑賞の方法を提示する。触覚に関わる美術史を整理したうえでフェミニズムや歴史・記憶と芸術作品の関係など、現代的な問題意識を織り込んだ作品解説を通し、触覚と想像力が拓く遊戯場としての美術史を紡ぎだす。

 
》》》バックナンバー 《一覧》
第1回 緒言
第2回 自己言及的な手
第3回 自由な手
第4回 機械的な手と建設者の手
第5回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(前編)
第6回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(後編)
第7回 リーグルの美術論における対象との距離と触覚的平面
第8回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(前編)
第9回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(後編)
第10回 クールベの絵に触れる――グリーンバーグとフリードの手を媒介して
第11回 セザンヌの絵に触れる――ロバート・モリスを介して(前編)
第12回 セザンヌの絵に触れる――ロバート・モリスを介して(後編)
第13回 握れなかった手
第14回 嘘から懐疑へ――絵画術と化粧術のあわい
第15回 キュビスムの楽器の奏でかた、キュビスムの葡萄の味わいかた
第16回 おもちゃのユートピア——その理論と実践の系譜(前編)
第17回 おもちゃのユートピア——その理論と実践の系譜(中編)
第18回 おもちゃのユートピア——その理論と実践の系譜(後編)
第19回 顔に触れる――彼女たちの仮面を介して(前編)
第20回 顔に触れる――彼女たちの仮面を介して(中編)

About the Author: 松井裕美

まつい・ひろみ  東京大学大学院総合文化研究科准教授。博士(美術史)。専攻は、フランスを中心とする近現代美術。著書に『キュビスム芸術史:20世紀西洋美術と新しい<現実>』(名古屋大学出版会、2019年)、翻訳にデイヴィッド・コッティントン『現代アート入門』(名古屋大学出版会、2020年)など。
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