連載・読み物 医学史とはどんな学問か

医学史とはどんな学問か
第1章 ギリシア・ローマ文明とキリスト教における医学と医療

2月 23日, 2016 鈴木晃仁

医学に個々の患者を観察する範例を与え、記述するスタイルを与えたと同時に、この症例の主人公は、無名の一病人であることにも注目しなければならない。偉大な政治家、戦功をあげた将軍や兵士、影響力を持った宗教家、文学者、思想家などではなく、無名の個人について、これだけの密度の観察を行い記述するジャンルを医学が持つようになった起源は、ヒポクラテス派の症例の伝統にある。このような言説が、近代社会において、規律と権力を構成する大きな要因となったことは、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』で詳述したし、また、20世紀の後半から歴史学の大きな潮流となった社会史にとって重要な史料となった。そのような言説で医者が記述しているのは、患者自身が感じる状態(痛みや渇き)、体温、熱、痙攣、不眠などの、医者と患者の双方が感じる状態、便や尿や痰の量、色、様子などである。これらは、患者の身体の外部にあらわれたものであり、それを記号として、体内の変化を読み取ろうとしていることが伺える。X線やCTスキャンや化学的分析などの、身体の内面の変化を読み取る方法と発想を持たなかった医学においては、患者の体の外側に現れ、医者と患者が経験を共有する現象に注目することが重要であった。また、この症例がまさにその例であるが、ヒポクラテス派の医師たちは患者が死亡したことを平然と認めており、「流行病」第1巻と第3巻の2つの巻に掲げられた42の症例のうち25例が死亡で終わっていることも付言しなければならない。

臨床における記号の観察を通じて、身体の中で起きている変化が読み解かれたが、それを解釈する理論的な枠組みは、体液 (humour) のバランスの発想であった。人体や動物の解剖を行わず、解剖の発想が希薄であったヒポクラテス派にとって、骨や内臓などの人体における固体ではなく、複数の種類の体液が重要であった。体液の種類と数については、「ヒポクラテス集成」のさまざまなテキストによって違いはあるが、最も著名になったのは「人間の本性について」で挙げられている、血液、粘液、胆汁、黒胆汁の4つの体液である。この4つの体液は、熱と冷、湿と乾という、2組の対立する性質の組み合わせを持っていた。健康とは、これらの体液のバランスが取られている状態であり、疾病は、そのバランスが失われていずれかの体液が過剰になることである。バランスが取れている状態をクラシア、そうでない状態をディスクラシアという。バランスの乱れを直すために、その時点の身体に欠如している性質を与えることが治療の基本概念になる。これらの体液と熱冷湿乾の枠組みは、同時代の自然哲学から学んだものであると同時に、「熱い」「湿っている」のような、誰でも感じることができる特徴を含みこんだ説明の装置であった。

4体液のバランスは、すべての個人に関して同じではなく、それぞれの個人によって適当なバランスが異なっている。個人によってクラシアのかたちが異なり、それを「体質」といい、血液が多い体質、粘液が多い体質などが存在している。これらの体質は、その個人の精神や性格などにも影響を及ぼし、血液が多い体質の人物は陽気で活発であり、黒胆汁が多い体質の人物は陰気で思索的である。また、疾病に対する治療は、その個人のクラシアを取り戻すことであり、疾病という実体を攻撃することではないので、別々の個人が同じ疾病にかかっていたとしても同じ治療法が成立するわけではなく、その個人の体質によって治療法が変わってくる。古代医学が「疾病ではなく患者を治療した」と言われるのは、もともとこのような意味においてである。この治療法のパターンは、ヨーロッパでは19世紀まで主流であり、後に、とりわけ感染症の脈絡において疾病という実体の発想が現れたときに、この問題は大きな論点となっていく。

個人の違いだけでなく、住んでいる地域の違いによっても体液のバランスが変わると考えられていた。風土や気候などによって、四体液の構成バランスはそれぞれ異なり、その住民たちの体質や気質が変わってくる。そのため、穏健な気質の住民、尚武的な気質の住民などの違いが生じ、政治体制も変わってくる。強力な王権に従順に従うような体質・気質を持つ住民もいれば、自立と勇猛を貴ぶ住民もいる。この主題を発展させたテキストは「空気、水、場所について」という比較的長編の論考であり、この中ではヨーロッパと小アジアの違いが論じられている。当時、地中海の各地に活発に植民していたギリシア人たちがどのように「異民族」を解釈したか、気候と身体と精神・文化の違いを解釈した枠組みを教えてくれる。この枠組みは、後にヨーロッパが世界各地に植民するときに、進出先の人々の気質や社会を捉える重要な医学的な要素を提供した。

ヒポクラテス派の医師たちの医療の社会的な側面は、文献が少なく、難しい主題である。これは、ヒポクラテス派に限ったことではなく、当時のギリシアに存在した他の医療教育の拠点、たとえばクロトンやキュレネのような地で教育された医師たちについても同じである。当時のギリシアにおいては、アテーナイを例外として都市の規模は小さく、人口のほとんどが中小都市と村に居住していた。そのため、医療者たちは、定住して兼業するか、都市から都市へ、村から村へと旅をした巡回医師であったと考えられる。後者の場合、医師は滞在した都市において患者の信頼を得て「お得意」を作り出す必要があり、その時に患者の現状をみて、過去の病歴を的確に言い当て、これから何が起きるかという予後を的確に予告することは、重要な心理的な武器であり経済的な成功の基盤であった。ヒポクラテス集成の著作「予後」においては、すべての患者を治療することは不可能であり、患者の過去の病状、現在の病状で患者が告げていないことを補い、予後をすると、その医師は評価を高めて患者の信頼を得ることができると述べられている。遍歴医・巡回医というと、中世以降のセンセーショナルな売り込みを行ったいかさま医療者を想像してしまうが、ヒポクラテス派は、遍歴することと質が高い観察と予後を組み合わせた医者たちを含んでいたと考えられる。

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鈴木晃仁

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すずき・あきひと  静岡県生まれ。静岡県立清水東高等学校卒、1986年、東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学専攻を卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究(イギリス文化)に進学、1992年にロンドン大学ウェルカム医学史研究所で博士号を取得した。博士論文は啓蒙主義時代イングランドの精神医学思想史を主題とし、指導教官はロイ・ポーターであった。その後、ウェルカム財団医学史研究所リサーチ・フェロー、アバディーン大学研究員などを経て、1997年に慶應義塾大学助教授となり、2005年から慶應義塾大学経済学部教授。