連載・読み物 医学史とはどんな学問か

医学史とはどんな学問か
第1章 ギリシア・ローマ文明とキリスト教における医学と医療

2月 23日, 2016 鈴木晃仁

現在につたわるヘロフィロスの業績は主として解剖に関するものである。彼は脳に注目し、アリストテレスの意見に反して脳を神経の中枢と認め、その脳室や血管などの詳細な記述を行った。造語においては、「十二指腸」は彼が観察して造語した組織である。臨床医学においては、ヘロフィロスはプロクサゴラスから学んだ脈拍に注目して、その異なるタイプを大きさ、速さ、強さ、リズムなどに着目して、「蟻のような脈拍」「カモシカのような脈拍」などの脈の特徴を記述した。また、脈拍の理論を音楽になぞらえて、音楽家が強拍と弱拍を考えるように脈を拡張と収縮で考えようとしていた。このことは、アレクサンドリアのムセイオンの学際的な性格に影響されているかもしれない。

同様に、エラシストラトスも、ムセイオンなどで研究されていた機械学におそらく影響をうけて、学際的で機械論的な解剖学と生理学を構築した。腎臓や肝臓や膀胱は「ろ過装置」であり、胃は穀物を粉砕する機械に例えられた。体内の血管を通って栄養やプネウマがいきわたり、血管が血液を送るメカニズムとしては真空の装置のアナロジーが用いられた。静脈と動脈を、その構造だけでなく生理学的な仕方でも区別して、前者は血液を運び、後者は空気(プネウマ)を運ぶものだと考えた。心臓と肺の関連にも着目して、心臓の4つの弁を区別して、それが一方向にのみ血液を流す仕組みになっていることを明らかにして、心臓と肺の間でどのように血液が流れるのかを考察した。これらの生理学的な議論は、当時の水準で言うと傑出したものであり、現代の視点から見れば誤った部分を含んでいるが、動物と人体を解剖した結果の詳細な観察と、動物に関する実験に基づいた理論を構築していた。古代のある資料によると、身体から目に見えない流出物が発散しているという学説を証明するために、生きている鳥の体重や糞の重さなどを測定する計量的な研究を行った。

このようなヘロフィロスとエラシストラトスらによる解剖学と生理学の発展は、短期間で急速に挙げられた業績であり、長期的に継続して蓄積された伝統にはならなかった。彼らの著作やその写本は失われ、その内容は、ガレノスをはじめとする後の時代の医者たちの記述を通して知られるにすぎない。彼らの研究は、あたかも彗星のように登場し、その痕跡を後の医学に残して消えていった。これは、人体を直接解剖するという、このタイプの研究にとって最も重要な資源が、他の地域に広がらなかったことが大きな原因であろう。アレクサンドリアにおいては、人体解剖、少なくとも骨の解剖は、ヘロフィロスらの時代のあと数世紀間は継続したと考えられ、紀元2世紀に当地で医学を学んだガレノスはその恩恵を被っている。

ガレノスの医学

ヒポクラテス集成とアレクサンドリアの医学、そしてそれ以外の医学思想を批判的に総合して、非常に高い水準の医学を築き上げたのが、2世紀後半のローマ帝国で活躍したガレノス(129-c.216)であった。ローマ帝国の公式語はラテン語であったが、医学についてはギリシア語がさかんに用いられ、帝国の首都のローマにおいても、記録に残る医師の半分以上がギリシア系の名前を持っていた。これは、ヒポクラテス集成をはじめとする医学の重要な著作や、その背景となる自然哲学の著作の大部分がギリシア語で書かれているという事情を反映していた。ローマ帝国は多民族・多言語の世界であり、医学はギリシア語の領域であった。この状況は、ローマ帝国の医者たちに外国人という地位を与え、それを諷してギリシア風の医学を嫌うものもいた。『変身物語』で著名な詩人でありローマの官僚であったオヴィディウスもその一人である。

ガレノスも、ギリシア語でその著作のすべてを書き、ローマ皇帝に仕えた医師である。ガレノスは、ペルガモンの富裕な建築家の家に生まれ、高い教育を受け、父親の夢のお告げで医師の道をめざした。スミルナとアレクサンドリアで医学を学び、ペルガモンに帰って剣闘士の医師の仕事をしたあと、162年にローマに赴いて解剖学の公開講義を行うなどの活動をして、医師として著名となった。166年に、「アントニウスの疫病」と呼ばれた当時帝国内で流行していた疫病を逃れるために一時ローマを離れたが、ローマ帝国の皇帝の医師となって数年後にローマに帰り、それ以後も数人の皇帝の侍医を務めた。ガレノスの著作は膨大であり、現存するギリシア語のテキストの書物の8分の1を占め、ある学者の試算によると、毎日2ページから3ページずつ書いて50年間かかる量であるという。その中で、特徴がある部分を選んで焦点を当てていこう。

ガレノスは、アレクサンドリアで学んだ人体の解剖と、ローマなどで実際に行った動物の解剖と生体実験を組み合わせて、身体のメカニズムとダイナミズムに関する理論を構成した。ギリシアやローマの習慣にしたがって人体は解剖せず、サルやブタ、そして皇帝からもらった象の心臓も用いた(図6)。
 
図6 豚を解剖するガレノス

L0020565 Galen, Opera omnia, dissection of a pig. Credit: Wellcome Library, London. Wellcome Images images@wellcome.ac.uk http://wellcomeimages.org Detail: dissection of a pig. Woodcut Opera omnia Galen Published: 1565 Copyrighted work available under Creative Commons Attribution only licence CC BY 4.0 http://creativecommons.org/licenses/by/4.0/
L0020565 Galen, Opera omnia, dissection of a pig.
Credit: Wellcome Library, London. Wellcome Images
images@wellcome.ac.uk
http://wellcomeimages.org
Detail: dissection of a pig.
Woodcut
Opera omnia
Galen
Published: 1565
Copyrighted work available under Creative Commons Attribution only licence CC BY 4.0 http://creativecommons.org/licenses/by/4.0/

そのため、ガレノスが人体として記述している解剖の中には、動物のそれも紛れ込んでおり、また、ガレノス自身も総体として人体解剖の記述が動物解剖に依存しているという自らの欠陥を意識していた。この解剖で得た構造と動物実験や観察から出発して、人間の生理学を、肝臓、心臓、脳を中心とする3つの独立した系が連関して総体をなすものとして理解した。現在の言葉でいう、栄養系、循環器系、神経系になる。この3つの系は、まず食物が取り入れられて消化され、肝臓で血液に変えられ、その血液は血管を通じて全身に潮汐のようにいきわたる。そこに肺から取り込まれた空気がプネウマを与え、身体と精神の活動を担うというメカニズムである。ヒポクラテスを高く評価していたガレノスは、前者の考えに従い、4つの体液が増減し、身体の熱冷湿乾の質が変化することで、疾病が起き、個人の気質が違ってくると考えた。また、この精妙な仕組みこそ、自然の創造者(神)が、人間身体をある目的にあわせて作っており、その目的のために、それぞれの身体の部分が機能を発揮するようになっている。神は、自然を通じて、人間身体がある目的を果たすようにしているのである。

疾病や不健康に対しては、ガレノスの方針は、自然が持つ癒す力を医学が助けることであった。身体には4種の体液があり、それらは4つの性質の組合わせの特徴を持っているが、生命と健康と病理の核になる性質は熱であり、この熱を操作するために身体の各所から血液を抜き取ることが重要な治療の方法であった。これが「瀉血」と呼ばれる方法である。当時、瀉血による治療は、身体の固体を重んじる医者、特にアレクサンドリアのエラシストラトスらによって有効でないと言われていたが、ガレノスはそれを批判して、瀉血によって過度の熱の原因となっているものを即座に望む量だけ取り去ることができると主張した。瀉血と同じ意味で、体液の素材となる食事の調整は重要な療法であった。ローマ帝国各地の食習慣や、異なった食物やワインなどについての情報と実物を集め、これらを消化のたやすさや4性質などに応じて分類した。白身の肉は赤色の肉よりも消化がたやすく、白ワインは赤ワインよりも病人にやさしい。これらのガレノスの食養生に関する考えは、現代でも共感する論者が多い。一方で、生の果物は体を冷やすので健康に良くないと考えたことも付言しておく。運動は適度なものがよく、運動選手のような過激な運動はむしろ悪い。薬物については、ガレノス自身はそれまで使われてきたものと自らの経験に基づいたものを数多く用いて、ディオスコリデスらの薬学、博物学から素材を集め、自ら地中海世界の各地に赴いて薬物を集めた。キャリアの晩年に、そこに理論的な正当化を試みているが、ガレノス自身が、その操作が非常に困難であると感じていた。患者自身の体質があり、そこに疾病によるディスクラシアがあるのだから、それぞれの薬物が身体を熱したり冷やしたりするのかを理論的に分類することが困難であった。植物由来の薬としては475種類のものを集めているが、その3分の1に関して理論的な考察を付すにとどまった。

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鈴木晃仁

About The Author

すずき・あきひと  静岡県生まれ。静岡県立清水東高等学校卒、1986年、東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学専攻を卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究(イギリス文化)に進学、1992年にロンドン大学ウェルカム医学史研究所で博士号を取得した。博士論文は啓蒙主義時代イングランドの精神医学思想史を主題とし、指導教官はロイ・ポーターであった。その後、ウェルカム財団医学史研究所リサーチ・フェロー、アバディーン大学研究員などを経て、1997年に慶應義塾大学助教授となり、2005年から慶應義塾大学経済学部教授。