料理は、その人が生まれ、育ってきた文化や環境を物語るもの、人生の欠片ともいえます。世界各地で生きる人たちの姿、人生の欠片のレシピから多様なSaveur 香りが届きますように。【編集部】
――アルバニアのブレクBurek――
あるフェスティバルでのことだ。演奏後楽器を片付けている私たちのところに高揚した面持ちで近づいてくる男性がいた。
「君たちと是非一緒に演奏したいです。わたしはクラリネットを吹きます。」
小柄な体格、フランス語の発音にアクセントがある。彼の隣には褐色の肌、深黒の美しい髪をもった女性と小学校5年生ほどの少女がいる。
彼は自身の出自をその時語らなかったが、後日アルバニアからの難民であると知った。
祖国アルバニアからイタリアを経由しマルセイユ、そしてパリに辿りついたのだという。
家族三人で路上で寝泊まりをしていたところ、市井の男性が難民援助団体に連絡し、それでもすぐには寝泊まりの場所が供給されなかったため、この男性が2日分のホテルを立て替えてくれたのだという。その後ブルターニュのとある街が家族を受け入れ、現在は小さな、本当に小さなアパートで生活をしている。フランスに着いて3年目。どこで学んだか三人共フランス語を普通に話す。
アルバニアという国名から私たちは何を想像するだろう。わたしの場合はすぐさま「コソボ紛争」を想起した。しかし2019年ただいま現在、あの惨事を原因とした難民というロジックはしっくりこない。彼らが祖国を後にしなければならなかったのは他の理由があるはずだ。
兎にも角にもまずは一緒に演奏をしようということになり、彼らの住む家の台所=ダイニングでセッションをした。あまり多くのことは聞かないほうがいいかもと音楽の話ばかりしていたが、休憩中にクラリネットを吹くサイミールがズボンの裾を捲り上げ、脚にある傷跡を晒した。明らかに銃撃によるものだ。
そうだった、悪名高きアルバニア・マフィアだ。臓器売買、人身売買、武器、薬物なんでもあり。あのコソボ紛争の影でコソボ解放軍~マフィアによるセルビア人の悲惨な臓器売買があったことは、当時政府さえも目をつむっていたという実態。
2010年12月に欧州評議会法務人権委員会のディック・マーティによって報告された「Inhuman treatment of people and illicit trafficking in human organs in Kosovo(コソボにおける非人道的行為と臓器密貿易)よって、その事実を国際機関も西欧諸国も認めた。
「僕の人生はマフィアからの襲撃によって一変したんだ」とサイミールは呟いた。商店を営み、トルコとアルバニア間の物産輸出入の仕事により、ティラナに一軒家を、ついで車を手にし、地に足をつけた人生を歩んでいたのだという。
クラリネットは父親から学び、物心ついた頃から冠婚葬祭で演奏をしていた。
奥さんのリリアナは見た目からして生粋のロマの血を引く。サイミールが演奏する楽曲、それに合わせて体を揺らす彼女の姿からは、彼らがアルバニアという地でどんな生活を営んでいたかがわかる。
それが、一旦マフィアに目をつけられ、住んでいた土地を不当な理由で手放さなければならなくなったという現実を前に、すべての物を置いてイタリアに渡ったのだという。さらに不幸は続き、サイミールの息子はマフィアの一人を襲撃したという理由で現在刑務所にいる。小学生の少女とは、サイミールの孫だった。
難民ヴィザであれ滞在許可書であれフランスで労働許可を得るまで正規の収入を得られないサイミールは、クラリネットを演奏することで日々生きつなぐしかない。
何度かリハーサルを重ね演奏の機会を得た。無数にあるアルバニアの楽曲、いやバルカンと呼んだ方がいいだろう。独特なクラリネットの節回しに私も感化され、私たちが奏でるミクスチャーな曲。それに合わせて、ここフランスで、今を生きるフランス人たちが踊っている。
サイミールは、2018年にブルターニュのBal(踊りのための音楽)賞をとったそうな。バルカン+ブルターニュの融合だ。
それは21世紀のフランス人すべてにとって、真のフランス人とは誰かという問いにもなる。――真正なフランス人とは?
わたしの友人を見回しただけでも、イタリア系2世、ポルトガル、ロシア、ベトナム、あるいはマグレブにカリブに由来のある彼ら……枚挙にいとまがない。
フランス人であることはミクスチャーであることと同義だ。
練習の度にリリアナはアルバニアのごはんを振舞ってくれる。その中でもサイミールの好物というブレク(Burek)の作り方を教えてもらった。
もちろんこの料理はアルバニアの特権レシピというわけではなく、セルビア、コソボ、トルコ……周辺の土地にもある。チュニジアにいけば“ブリック”となる。
サイミール曰く、アルバニアの男は料理をしないそうだ。
生地:薄力粉 250g / 打ち粉=コーンスターチ 大さじ3 / 薄力粉 大さじ3 / オリーブオイル 大さじ1 / 水 カップ1
具:ズッキーニ 500g / 牛乳 1カップ / 卵 3個 / バター 50g / 塩コショウ 少々
【1】 ボールに薄力粉とコーンスターチを入れ、混ぜる。
【2】 焼き皿の中に【1】を入れ、中央にくぼみをつくり、オリーブオイルと水を注ぎ、よくこねる。ラップでくるみ室温にしばし置く。
【3】 ズッキーニの皮をスライサーでカット、あるいはスピードカッターで細かくカットする。
【4】 寝かした生地を10等分に分け丸める。打ち粉(薄力粉とコーンスターチを混ぜておく)を敷き、一つずつ棒で薄く伸ばす。
【5】 伸ばした生地にオリーブオイルを塗り、その上にさらに生地を重ねる。5枚を合わせてさらに薄く伸ばす。5枚ずつ合わせて、最終的に2枚の生地にする。
【6】 スライスしたズッキーニに卵、牛乳、溶かしたバター、塩、コショウを混ぜ合わせ、具とする。
【7】 オーブンを200度で余熱。焼き皿にオリーブオイルを塗り、1枚目の生地を敷き具を流す。2枚目をかぶせ、端っこを指で塞ぐ。焼くことで水分が飛ぶので具が生地の端から多少漏れても構わない。
【8】 表面にオリーブオイルを振りかけ、オーブンを180度にして30分程度。焼きあがったら布巾をかけておく。
今回のブレクは野菜の甘さと牛乳によるやわらかな味。メインの付け合わせとして食べるそうだ。サイミールのお勧めは、ひき肉とトマトの具。ほうれん草やブドウの葉、チーズのブレクもあるので色々なブレクを作ってみたいものだ。また市販のズッキーニは小ぶりなものが多いが、家庭菜園などで自家栽培していれば大根ほどに大きくなるまで待つと、甘みが増しておいしい。
何度か演奏をし、ごはんを共にし、意志の疎通がはかれはじめたころ、コソボ紛争の話を少し尋ねてみた。すると、彼らの表情が強張り、口が閉まった。
「あの当時、ティラナで生活していたわたしたちは何も知る術がありませんでした。テレビにラジオ、イタリアや隣国の電波で情報を得ることは禁止されていたのです。もし見たり聞いたりしたことがわかったらすぐに警察に捕まるのです。そう、街にはスパイがいて、隣人だろうが家族だろうが警察に通告する可能性があったのです。」
冷戦終結後の1990年代、アルバニアが共産主義政権から民主化へと移行する中、1997年のティラナの街にはカラシニコフを持った男たちで溢れていたという。アルバニア暴動だ。1992年に誕生した非共産主義政権によって市場主義経済への移行がすすむ5年間の間にネズミ講が流行、国民経済は破綻に陥った。事を放置した政府への不満から一部国民が暴徒化し、政府は非常事態宣言を発動、無政府状態にまで至る。
この時期、買い物をするにもサイミールは週に1、2度自宅の駐車場から車で商店へゆき、すぐさま家に戻るという生活だったという。もちろんリリアナは幼い子供と共に外にでることはなかった。
「あの当時は街に普通に戦車があり、男性は銃を腕に挟み歩いていたのです。」
またリリアナはこう語った。「ある日庭で洗濯物を干していたら、近距離で放たれた流れ弾で足を負傷しました。わたしは運がよかったの。隣人の奥さんは、彼女の旦那さんの銃器で亡くなったのですから。玉が入っていないと思い、いたずらに扱った銃は彼女の命を奪ったの。しかも妊娠していたのよ……。だれでも銃器をもっているの。」
だれが武器を作り、だれが売り、だれが買うのか。攻撃から身を守るという意味でその存在を肯定される愚かな武器は、愛する者をも自らの手で死に至らせる。
今でもアルバニアの人々の家にはベッドの下に、トランクの中に銃器を隠しているという。
「共産主義時代は平等にね、みな平等に生活する場所があり、食べ物があり、寝るところがあり、みな平等に働いていました。」
アルバニア暴動で盛り上がった国民の不安、不満はやがて1998年のコソボ紛争勃発を促した。ユーゴスラビアの自治州であるコソボ・メトヒアには昔からアルバニア人とセルビア人のほかモンテネグロ人なども住んでいた。
しかし長くくすぶっていたアルバニア人とセルビア人の民族間の問題という名で紛争が始まり、NATO介入によりあの惨事に至る。NATOは国連決議のないままコソボに軍事介入、空からアルバニア武装勢力を支援した。セルビアとモンテネグロを空爆し、多くの死傷者を出した。
ユーゴスラビア軍~セルビア人によるアルバニア人追放と虐殺を阻止するという目的での攻撃だったが、先に述べたコソボ解放軍によるセルビア人虐待の黙殺のほか、劣化ウラン弾やクラスター弾の使用、誤爆などの問題が指摘されている。
またコソボ紛争時にアルバニアが麻薬輸送ルートになったことで、アルバニア・マフィアが力を増したと言われるほか、コソボ解放軍とマフィアの繋がりも指摘されている。コソボ紛争はアルバニアと直結している。
――諸悪の根源はどこにあるのか。
死の商人として武器を製造し流通し金を稼ぐ輩たち。
人類の存在に立ち塞がる問題。自己の存在とは人の死によって成り立つものなのか。
殺されるなら殺せということなのか。不正義。
「失われた生」を認識すること。その事実からと今あるわたしたちの生は「救われた生」であると気がつくことができるだろうか。
サイミールとの演奏で必ず演奏する曲がある。それはトルコの民謡と呼ばれている「ウスキュダラ」だ。
アデラ・ピーヴァAdela Peeva 監督(ブルガリア生まれ)が製作した「Whose is this song」という作品のは、この楽曲の発祥についての、つまりどの国、だれによる作曲なのかを探るドキュメンタリー映画だ。この作品は2004年にエスノグラフィー・フィルムフェスティバルにてバルトーク賞はじめ様々な賞を獲得している。
ドキュメンタリー映画の一部が公開されている。
https://www.youtube.com/watch?v=JO3SQ9886Bo
トルコ、ギリシャ、マケドニア、アルバニア、ボスニア、セルビアそしてブルガリアを旅し、この曲のルーツを探る。様々なミュージシャン、あるいは普通の人々が歌い、踊る。ここに現れる名称は、そう、バルカンだ。
この曲と共に人々は夜を過ごし、だれかの結婚のためにこの曲を歌い、杯を酌み交わす時間にこの歌と共に踊りが生まれる。こうして今日まで歌い継がれてきた。
この曲は、だれのものでもなく、どの民族のものでもない。
民族の誇りとは一体なんなのだろう。
誇りと高慢の差を確認してみようではないか。
アルバニアが鎖国的政策をとった1970後半~90年代初め、そしてコソボ紛争時に行った情報統制。隣国=他者の存在を認識させないという操作の中で、サイミール達にとって仲間との演奏、冠婚葬祭で奏でる音楽こそが生きる支えであった。
今日、フランスに住む彼はインターネットという手段で、アルバニアの友人、家族にコンサートやリハーサルの様子を動画でリアルタイムに送っている。
微笑ましい。と同時に、情報統制時、彼らが音楽によって仲間と耐え忍んだことを思う。その事実に対して、善し悪しの判断は無意味だ。
国の経済と戦争ー兵器の関係は深い。“民族”という言葉で戦争のAからZを語ることは決してできない。
戦争というのは人が死ぬということではなく、人が人を《殺す》ことであるという認識は今わたしたちの意識の中にちゃんとあるだろうか。
軍事介入、政治的立場。すべてを民族紛争などという言葉で片付ける。
防衛という名の武力行使の先には何があるのか。
それは、いつも名もなき人々の死、そして武器製造ー売買による金の循環。
一人一人の高慢さの結果だ。
それに対抗するのは、理性を有効にする意識。
だから、わたしたちは意識するしかない。
自己批判としての意識は保身を擁護するものではなく、どのように共生するかと問いかけるものなのだ。
チョムスキーは云う。「わたしたちは“彼ら”である」と。この想像力、人間が持っているはずこの力は、教育によって開花されるはずだ。そして同じく教育の中で生まれる理性の目覚めとは、人間としての寛容さを育てることでもある。
理性の中に正義が生まれるとするならば、自己の理性に問いかける努力、あるいは試みをしていくしかない。
その方法が教育であるならば、それを敢行する以外にどんな道があるというのだ。
前述した「Whose is this song」という映画の冒頭には「教育、教材、資産として」というイントロダクションがある。
フランス語で“響き”とは==Résonance レゾナンス。そして“理性”という語彙は、綴りこそ違うが発音は類似してRaisonレゾン。
他者の存在を己に響かせる=faire résonner 試み。それは同時にse raisonner=自制することによって他者とのあり方を模索する試みでもある。
アルバニアのクラリネット奏者の音楽とレシピを語る際に、アルバニアの歴史についての情報整理が必要だと思われた。その理由は、この地域の複雑さが“民族問題”として、あまりにもデリケートに捉えられているためだ。
デリケート、それは何が正しいとはいえないということだ。
どの民族にもそれぞれの物語がある。そしてこの物語を我々がジャッジすることはできない。では外野にいる我々には何ができるのか。それは、その物語を聞くことだ。
NATOのように武力を使ったジャッジは、果たして正当化できることだったのか。
最後にサイミールの音楽的背景、アルバニアの音楽を聴くことで、彼らの物語に触れてみよう。
10年ほど前マケドニアのミュージシャンと演奏の機会を得た。一応ジャズという枠組みでのコンサートであったが、彼らとの演奏はジャンルを決めての演奏というよりは即興的な運びとなった。
いわゆる括弧付きのフリージャズ的なものというよりは、お互いの楽器から放たれる旋律、音色に驚き、探り、演奏の初めから終わりへ至る過程で演奏者各人が持つその背景が浮かび上がるものになった。回りくどくなく、彼らのバルカニックな音色とリズム、そして唸るメロディーが即興演奏の中に盛り込まれていた、ということだ。
ではバルカン的とは何だろう。地勢が関係していることは決定的である。ロマ・ジプシー、トルコ、東欧のポリフォニー…etc。文章だけでは想像しづらいだろうか。
もっと焦点を絞ってバルカンの音楽は何かといえば、それは人と人との間に祝いを、喜びを、悲しみを奏で、踊りと共にある音楽だということだ。
だから、往々に「難しい」と言われ、あるいは「解釈」を求められるジャズの「即興演奏」という範囲でも、彼らが演奏することによって、理解や正しい解釈を探すのではなく、ただただ聞く人たちと共有する喜びを音楽の中に見出せる。
また、ヴァイオリンやクラリネットといったいわゆる西洋楽器で演奏したとしても、節やニュアンスによって、バルカン的になる。
それは、彼らの演奏が器楽を通じての「歌」でもあるからだ。日本でいえば「演歌」的ともいえるかもしれない。演奏の中にバルカンの物語、人々が共有する感情が立ち上がる。物語が語られる。
こういった典型的なバルカン性を全面にだした音楽と、そしてもうひとつ。紛争により移動、離散を課せられた人々が生み出す音楽。
この2つが合わさり、ジャズという分野で花開いた例がある。
アルバニア人歌手エリーナ・ドゥニ Elina Duni。彼女は詩人である母親と共に1992年スイスに亡命。音楽教育を得て、歌手の立場でアルバニアという国を発信している。
ジャズという分野に寛容性を見出すとすれば、演奏者、歌手のアイデンティティーを音楽に還元できることだろう。バルカン的な彼女パフォーマンスは、ジャズの手を離れ、音楽の大海を渡りはじめる。
彼女は現在様々なプロジェクトを立ち上げ欧州を中心に活躍している。わたしたちは彼女の存在によって、よりデリケートなバルカンの地域性を知ることになる。
Elina Duniの最近の試みはジャズのバンドスタイルを強調した展開。https://www.youtube.com/watch?v=jsAPe6cUI18
アルバニアの中でも北部、中央部、南部によってバルカン色の強いアンサンブル、あるいはオスマン風、そして歌唱ポリフォニーといった特色の違いがある。これら豊かな音の色彩がドゥニのパフォーマンスの中で交歓する。
ブレクはじめサイミールたちがたべるごはんの中にはひとつの基層がある。奏でる音楽も同様だ。
それはバルカンとよばれるだろう。しかしもっと広範にとらえると、人類が共有すべきものごとであるはずだ。
それは、すべての者がもちうる物語。この物語に耳を傾けることによって共生が生まれると信じたい。
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