料理は、その人が生まれ、育ってきた文化や環境を物語るもの、人生の欠片ともいえます。世界各地で生きる人たちの姿、人生の欠片のレシピから多様なSaveur 香りが届きますように。【編集部】
――買う時間、作る時間、あなたとわたしの距離――
小麦粉を使ったレシピ、連載番外編の2回目となります。
人類生まれてこのかた、移動とともに、たべものと音楽も広範に移ろい、現在に至ります。
移動という行為のもとにあるのは生きるということであり、移動の中にも定着の中にも生活があります。その生活において、人々は食べ、働き、語り、眠り、信仰を内に秘め、生きる空間に響く音を毎日の支えとする。こうして音楽が絵が文学が、何かが生まれる。
今日食べる皿の中に、今日聞く音楽の中に、育てる作物の中に、手の仕事の中に……生活の中に文化があるのだと思います。
アレンジとインプロヴィゼーション――。音楽を奏でるにあたり、この2種類の演奏方法にわたしは長く魅せられてきました。わたしにとっての音楽を奏でる醍醐味とは、原曲をアレンジし、共演者と共にその瞬間にしかない音を紡ぐ=インプロヴィゼーションをするところにあります。あるいはまったく何もない空間に一瞬の音を放ち、それに応える共演者との演奏。作曲家の意図に反することもあるかもしれませんが、音楽が持っている寛容性とは、このアレンジメント、インプロヴィゼーションと密接に関係しています。コードを変え、あるいはリズムに変化を与えることで生まれるアーティキュレーションは、今まで演奏者が経験してきた音世界から導きだされる独特なものになります。
はたと、毎日のごはんを作る時にも同じようなことをしているのではないかと気づきました。今日ある素材(音または楽曲)から生まれる料理(演奏)。もしかしたら、レヴィ=ストロースが云う、あるものを寄せ集めて工夫し間に合わせることを意味する「ブリコラージュ」も、アレンジとインプロヴィゼーションに通じるものがあるかもしれません。彼のこの言葉による思考の試みは、事物や状況が分離されるのではなく、すべてがささやかな関係性の中で支えあっていることの探求、であると今のわたしは捉えます。
さて、小麦粉と卵白で作るグジェールもどきをご紹介しましょう。グジェールとはシュー皮(シュークリームの「シュー」)のおつまみで、シャンパンやブルゴーニュのワインによく合います。今回は卵白を使い、カリっと仕上げます。これはマヨネーズを作った後いつも残る卵白の利用としてアレンジ、インプロヴィゼーションしたものです。
卵白 1個、塩 大さじ1、薄力粉 大さじ3、オリーブオイル 大さじ1、おろしたグリュイエールチーズ 大さじ2 (あるいはエレメンタルチーズ、コンテチーズ)
【1】ボウルに卵白と塩、オリーブオイル、チーズを入れ混ぜる。
【2】振った薄力粉を加えてさっくりと混ぜ合わせる。
【3】クッキングシートにスプーン一杯ずつ並べる。
【4】170℃に予熱したオーブンで10分ほど焼いて完成。
人類の食の変遷のあるとき、麦の栽培がはじまり、小麦という素材に適した調理方法が生まれました。様々な情報を携え、移動をした商人たちが持ち運んだ小麦の食文化。彼らの歩みには音世界も共にあったのではないでしょうか。人々が生きる土地、風土により生まれ、伝えられていくレシピと音楽のヴァリエーション。
現在、私たちは実に様々な小麦粉を手に入れることができ、また様々な食べ方を知ることができます。それは音楽も然り。只今現在このヴァリエーションを知ることができる媒体は、旅人や商人や布教の民よりも、インターネットだといえるでしょう。
貨幣価値社会の中に生きる音楽家の仕事とはなんでしょう。YouTubeに演奏をアップし、フォロアーを獲得し、そこから派生する広告システムにより金銭を得る。配信技術によって、人がいない空間で演奏をして収入を得る。人前で演奏するということはアウトプットといえます。しかし演奏者にとって他者からは見えない練習の時間、インプットこそが仕事の時間ともいえます。では、表舞台ではないこの練習には仕事としての対価は生まれるでしょうか。
見えない労働とでもいえるものは、どんな職業にもあるかもしれませんが、例えば、農家の人々が自然の中で農作業をする時間も然りです。直接対価が発生するのは労働の結果としての農作物に対して。それとも農作業へも対価が発生するでしょうか。雇われない立場で仕事をする場合の、時間給という形ではない労働に、対価として値段をつけることはできるでしょうか。
鳥取県の智頭町にある、タルマーリーという独特な哲学を持ったパン屋の店主で、『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』の著者である渡邊格さんはその著書の中で、パンの価格に関する問いかけをわたしたちに投げかけます。
彼らが作るパンの価格は、信頼できる素材、その土地にしか生まれない天然酵母、製造の手間によって生まれた、真正で旨いパンであるという証明になっています。既にあるパンの一般的な価格を鵜呑みにするのではなく、パンの買い手が、タルマーリーの見えない仕事に価値を見出し、その対価を価格に織り込んでいること。
もちろんタルマーリーのパンには値段が表示されています。価値と値段のバランス。それをわたしたち買い手がどのように判断し、理解するか。タルマーリーからの問題提起ともいえるでしょう。彼らのパンを買って食べることは、それが旨いという意思表示であると同時に、安全な素材を使う、地域内循環を実現しているといった作り手の思想への賛同です。そして貨幣の有効利用だとわたしは思います。
外出規制下、スーパーマーケットの棚から一目散に消えたパスタ。現在のフランスにおける一般的なパスタ1kgの値段は2ユーロから4ユーロの間です。所変わって自然食品店の棚には、この状況下でも充分な量のパスタが陳列していました。お察しの通り、スーパーで売っている価格より割高です。それは有機栽培によるものだからでしょうか。
パッケージにはこうあります。
「有機栽培の生産と消費とは、人生と環境への強力な切り札です。」
このパスタを買い、食べるということは、より安心安全な食べ物を自分に与えることであり、環境を悪化させない側に立とうとする作り手のささやかな革命と思想を体内に入れ生きることであるとわたしは理解します。
演奏家は平均的な演奏料というものがあってないような世界にいます。現在は相場価格というものがあるのも事実ですが、心身に沁みいる音楽を聞いたとき、人は自発的に演奏者に対価を渡すという可能性もあると思いますし、現に存在していると考えています。
以前、Kaba-koカバコという西アフリカ、ブルキナファソの楽師たちを日本に呼んだ際、満員御礼となった千秋楽のコンサート会場で、彼らへの謝礼、経費すべてを記載した収支報告なるものをA4の紙一枚にまとめ、来場したお客様へ配りました。
この会場では入場料を設定したのですが、その値段はいわゆる来日した演奏家のコンサートとして”一般的な”価格ではありませんでした。ある会場では入場料をとらず、演奏終了後に箱を用意し、聴者それぞれに彼らの演奏への対価の決定を委ねました。エンターテイメントという観点からすると、このようなやり方では商売がなりたたない、という意見もあります。
しかしわたしは主催者として、目の前で繰り広げられる演奏にはどれだけの経費がかかっているのか明確に聴き手に伝え、聴き手の方それぞれに彼らの演奏の価値を決めていただきたかった。
このコンサートの実現のためにかかった経費、どれだけの人が動いているのかを知ることをきっかけとして、彼らの練習の時間、音楽への情熱、音楽への向かい方なども想像してもらえるのではないかとも思いました。実際に演奏を聴いて、彼らがどう音楽に取り組んでいるのか、彼らの見えない労働が見えた方もいるでしょう。
コンサートを開催することは演奏者も聴き手も当事者となることであり、それを実現させるために、これがわたしにできる唯一の方法だったのです。お金を集めるクラウドファンディングというやり方もあります。事前に資金として用意するお金。画期的なシステムであると思います。このシステムを肯定すると同時に、目の前で奏でられる彼らの演奏に対して、リアルタイムでわたしたちはどのような反応を行動としてできるでしょうか。
Kaba-koのコンサートの途中で、この報告書を配った理由とともに、アフリカでは、聴者が演奏をたたえるために、演奏中に演奏者のおでこにお札を貼ることもお話ししました。そうすることで、聴者と奏者の間に互酬性と相互扶助を生む。これは第三者の観客がこの空間に居合わせる人々の間で起こる、一種のゲームでもあることもお話ししました。お札を貼ることにより、聴者自身が「自分はこの演奏に価値をおくことができ、そしてお金を払うという行為をすることができる」という誇負が生まれます。これはとても道化的に行われます。
あの日、カバコのコンサートの際、大使館の奥様方がまず率先して舞台の上に上がり、5000円札をおでこに貼っていたのは印象的です。彼女は自分たちの立場を意識し、またアフリカ的やり方を私たちに見せてくれた。舞台の上をお札を貼りながら歩く彼女たちの姿の、なんと優美であったことか。そのあと、もちろん演奏者(歌い手)は彼女たちを讃え、感謝する内容の歌を歌っていました。あるいはジャンベ(牛の革と木でできた、両手で叩くパーカッション)の鳥肌は立つようなソロは、彼女たちに向けて鳴り響いたのです。演奏者と聴く者の直接的な関係。
ブルキナファソ現地での録音風景。感染症による恒常的な死が隣り合わせにあるこの地アフリカで、彼らは今COVID-19をどう捉え、生活を続けているでしょうか。
前述したパン屋、タルマーリーの渡邊さんは「利潤がでない経営」という発想を著書の中で論じています。「利潤がでない」というのは、「赤字になる」ということではありません。渡邊さんは、利潤を「腐らないおカネ」のひとつとして挙げます。
「時間による変化の摂理から外れたものがある。それがおカネだ。おカネは、時間が経っても土へとは還らない。いわば永遠に「腐らない」。それどころか、投資によって得られる「利潤」や、おカネの貸し借り(金融)による利子によって、どこまでも増えていく性質さえある。これ、よく考えてみるとおかしくないだろうか?(「田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」)
腐らずに溜めていくことができる「利潤」。この「利潤」を生むことを最優先した生産体制では、お金が中心になり、人間はそれに振り回される。利潤を生むためには、この価格にしなければならない、そのためには原価はこれだけ、そうしたら人件費はこれだけetc……中心になっているのは数字としてのお金だ。そうではなく、人間や生活や自然のサイクルを中心にして、自分も周りも人も豊かに暮らしつづけることのために、お金を使う。そのお金は溜まっていては意味がなく、循環することで意味を持ちます。
「利潤」をつくり出そうとする人たちではなく、安全な食糧や使い続けられる道具を作っている人たち、生活を豊かにするものを提供してくれる人たち、環境を整え、木や土を作る仕事をしている人たちにお金を使う。利潤ではなく循環にお金を使う。こうした考え方にわたしも共感を覚えます。
演奏者とは、演奏して手を差し出し金を得て、その金を生きる糧にする。この構図は、お金のやりとりが一部複雑な形態に姿を変えても、本質的には今も昔も変わりがないと思います。
この構図の中で生きてきた演奏者も、循環する経済に参加してきたし、これからも参加してけるはず。そのためには、どのように演奏者と聴者は繋がり、どのような関係性をつくっていけるのか。演奏者が奏でる音楽のある時間に、聴く者はどのようにお金を使えるか。私たちは試されています。
ラテン語Cultura(耕す)を語源とするCultiverというフランス語は「栽培する、つくる、やしなう、研究する、育てる、関係を大事にする」を意味します。この言葉から、Culture=文化という言葉も、Agriculture=農業という言葉も派生しています。
ここから発想を膨らませ、音楽家も、農を営む者も、とどのつまりは同じ職能であるとわたしは考えます。
農業者が畑や田を耕し、植物を育て人間を養うように、音楽は音を耕し文化を育て人間を養うとはいえないでしょうか。
文化とは、人々のあいだで共有、伝達される行動様式、生活様式であり、個体と社会と呼ばれる外的要素との交通や様々な関係性の中でアップデートを繰り返していくものです。生活そのもの、ということすらできるかもしれません。農業が食物をつくることによって生活の根本に位置づけられるように、音楽も生活の根本を担っているとは考えられないでしょうか。
最後のレシピは、捏ねるのも、生地を寝かすのも面倒。即効性のある一品を、という時に役立つ、いわゆるお焼きです。
これも南米、マグレブ世界からアジアの果てまで様々な方法で食されていることでしょう。
ラマダン(断食月)の期間は、女たちが路上で、鉄板に油を敷き生地をたらし、フライ返しで押さえては焼き、焼きあがったものにはちみつをたっぷりと織り込んだものを見ることができます。積み重なったそれを買い求める男たち。陽が沈んだら、家族と共に食べる喜び。
ゆるい生地を焼き垂らす方法を、秩父ではたらし焼きと呼ぶそうです。土地柄、しゃくし菜漬を使うそうですが、今回は蕪の葉で代用しました。中国であればおそらく高菜漬けというところでしょう。あるいは関西であればネギ焼きとなるのでしょうか。
薄力粉 100g、水 120cc、味噌 10g、蕪の葉 3束程度、サラダ油 大さじ1、塩 少々、ゴマ油 小さじ1、醤油 少々、砂糖 小さじ1
【1】蕪の葉を細かく刻み、フライパンにゴマ油をひき炒める。
【2】途中水分が飛んだら水あるいは酒を少々足し、醤油と砂糖を加え炒める。
【3】ボウルに小麦粉と水と味噌を合わせまぜる。
【4】 フライパンにサラダ油をひき、生地をお玉で垂らす。その上に具を散らし、再び生地を垂らし焼き上げる。
【5】裏返し、焼きあがったらできあがり。
わたしたちの「作る」という行動のひとつである、料理。
食べるとは、修行であったり、宗教儀式であったり、他者との交信であったりすることもあります。しかしその多くは慎ましく、ささやかで、よろこびを与えてくれる、そして命を支える毎日の行為ではないでしょうか。
誰かがごはんを作る。それを味わう。誰かが音楽を奏でる。それを聴く。そこにお金が介在することもしないこともあるけれど、介在するのであれば、この豊かな行為と時間、人との相互関係を継続、循環させるための使い方があるはず。それが貨幣の有効な使い方であるはずです。
1回目の連載に登場したパン屋のやまちゃんは、セーヌ河岸でサックスの練習するわたしに、時々パンの差し入れをしてくれました。パリの西に位置する凱旋門から東の国民広場を走るメトロ6番線。セーヌを渡る高架線上の車窓からわたしの姿を見つけては途中下車し、練習するわたしの横で音に耳を傾け、水面を眺めながら、陽も昇らぬ早朝からの重労働後の体を休める。
わたしは奏で、あなたはパンをくれた。
そして、明日の命が生まれた。
考える自由を、このグロテスクな世の中でいかに保っていられるでしょうか。
生きている人間が、生きている人間のいる空間で音を奏でる、ともに食すということが禁じられうる世界で、わたしたちは、ありうべき生活を思索している途上にあります。
この思索を、パリならばカフェで、ベイルートであれば水パイプを吸いながら語る夜の場で、アルジェであればマグレブのお父さんたちがミントティー片手にすごす午後のひとときに、誰かと共有できたことでしょう。しかし誰かがいるその空間へ足を踏み入れることに、わたしたちは今、懐疑を抱かなければなりません。わたしたちは各々が考えることを、今、誰と、どのように語り合うことができるのだろうか。
最小でいい。直接的でいい。原点に立ち返る。
あなたとわたしという関係の中に、生きる術が生まれるのではないでしょうか。
アナログ、デジタル、様々なツールを使い、今後も新たな音と食の交換が生まれてくると信じています。
秩父を拠点に活動するギター奏者笹久保伸氏との演奏。いみじくも録音の際はパーティションを立てて各楽器の特性である音量の交じりを抑えます。しかし、音自体はどこまでも交じり合う。
《バックナンバー》
〈1皿め〉サックス奏者、仲野麻紀がつくる伊勢志摩の鰯寿司
〈2皿め〉シリア人フルート奏者、ナイサム・ジャラルとつくるملفوف محش マルフーフ・マハシー Malfouf mehchi
〈3皿め〉コートジボワール・セヌフォ人、同一性の解像度――Sauce aubergine 茄子のソースとアチェケ――
〈4皿め〉他者とは誰なのか Al Akhareen ――パレスチナのラッパーが作る「モロヘイヤのソース」――
〈5皿め〉しょっぱい涙と真っ赤なスープ――ビーツの冷製スープ――
〈6皿め〉同一性はどの砂漠を彷徨う――アルジェリアの菓子、ガゼルの角――
〈7皿め〉移動の先にある人々の生――ジャズピアニストが作るギリシャのタラマΤαραμάς――
〈8皿め〉エッサウィラのスーフィー楽師が作る魚のタジン――世界の片隅に鳴る音は表現を必要としない――
〈9皿め〉ブルキナファソの納豆炊き込みごはん!? ――発酵世界とわたしたち――
〈10皿め〉オーディオパフォーマー、ワエル・クデの真正レバノンのタブーレ――パセリのサラダ、水はだれのもの――
〈11皿め〉風を探す人々――西ベンガル地方、バウルのつくる羊肉のカレー――
〈12皿め〉生きるための移動、物語――アルバニアのブレクBurek――
〈13皿め〉ジョレスの鍋――マッシュルームのスープ――
〈14皿め〉国に生きる、歴史に生きる――オスマン帝国の肉団子、キョフテ――
〈番外編1〉旅する小麦――買う時間、作る時間、あなたとわたしの距離――
〈番外編2〉旅する小麦――買う時間、作る時間、あなたとわたしの距離――