プラトンの対話篇の一つに「エウチュプロン」がある*1。さほど有名な対話篇とは言えないであろう。登場人物はソクラテスとエウチュプロンの二人だけ、エウチュプロンは若い預言者である。扱われているテーマは、敬虔(eusebeia; piety)とは何かであるが、確たる結論にいたることもなく、二人の対話は唐突に終わる。
対話の表面的な流れは、次の通りである。
ソクラテスは、バシレウス(basileus)の役所の前でエウチュプロンと出会う(2a)。バシレウスは祭祀を司るほか、不敬神に関する公訴と殺人に関する私訴を管轄していた*2。ソクラテスはアテナイの父祖伝来の神々を否定して新しい神を導入し、若者たちを堕落させた罪でメレトスに訴えられたため、予備審問のためにバシレウスの役所に出頭するところである*3。
他方、エウチュプロンは、自分の父親を殺人罪で訴えるためにやってきた(4a)。父親は、自家の奴隷を殺した雇人の手足を縛って溝の中に投げ込み、事件をどう処理すべきかを役所に問い合わせていたが、その間に雇人は死んでしまった。そこで父親を訴えにきたとエウチュプロンは言う。
ソクラテスは、そうした複雑な事情の事件で自分の父親を殺人罪で告訴すれば、それこそ不敬虔だということにならないのかと問う(4e)。エウチュプロンは、自分は何が敬虔で何が不敬虔かを正確に知っていると答える。何しろ、彼は預言者なのだから。つまり、神々に関する専門家である。
ソクラテスは、何が敬虔で何が不敬虔か、是非教わりたいとエウチュプロンに言う(5a)。そうすれば、自分が不敬虔の罪で訴えられる理由のないことを明らかにすることができるはずである。エウチュプロンは快諾する。
ところがエウチュプロンは、何が敬虔かについて、相互に矛盾する答えを次々に繰り出す。彼の最初の答えは、今自分がしていること、つまり不正を犯した父親を告訴することが敬虔だというものである(5d)。もっとも正しい神であるゼウスがしたこともそれである。
父祖伝来の神話によれば、ゼウスの祖父にあたるウラノスは、妻ガイアとの間にもうけた巨人たちを憎んで地底に投げ込んだため、ガイアに唆されたティタン族のクロノスが、ガイアに与えられた大鎌でウラノスの生殖器を切り取って海に投げ捨て、父の支配権を奪った*4。そのクロノスも、妻レアとの間にもうけた子らを次々飲み込んだため、怒ったレアはゼウスを密かに産み育て、成長したゼウスはクロノスの吐き出した兄弟神たちと共に戦ってついにクロノスとティタン族を大地のはるか下のタルタロス(Tartarus)に幽閉した*5。つまり、クロノスもゼウスも、不正を犯した父親に制裁を下している。
ソクラテスはエウチュプロンに、一体君はそんな神話を信じているのかと問う(6b)。神々は本当に戦ったりするものだろうか。それにエウチュプロンは、敬虔とは何かというソクラテスの問いに答えていない。彼は敬虔な行為の具体例を挙げただけである。
エウチュプロンは第二に、神々に愛されるものが敬虔であり、愛されないものが不敬虔だと言う(6e)。これに対してソクラテスは、もし神々が互いに争うのであれば、神々が愛するものは一つには決まらないはずだと指摘する。同じものが敬虔であると同時に不敬虔でもあることになるのではないか(8a)。
これに対してエウチュプロンは、すべての神が愛するものが敬虔なのだと応ずる(9e)。そうであれば、同じものが敬虔であると同時に不敬虔であることはないはずである。
ソクラテスは、神々に愛されるから敬虔なのか、それとも敬虔であるからこそ神々が愛するのか、どちらだろうかと訊ねる(10c−d)。敬虔だから愛されるのだとすると、敬虔とは何かはなお解明されてはいない。愛されるからこそ敬虔なのだとしても、どうすれば愛されるのかはなお解明されていない。結局、敬虔が何かは分からないままである。
ついでエウチュプロンは、正しいもののうちで神々の世話に関わる部分が敬神にして敬虔なものだと言い始める(12e)。人間たちの世話に関わる部分が、正しいものの残りの部分である。
ソクラテスは、神々の仕事を助けることが神々の世話をすることになるはずだが、神々はどんな仕事をなし遂げるのかと問う(14a)。エウチュプロンは、それを正確に知ることは困難だと答える(14b)。結局、敬虔が何かは分からない。
ソクラテスはそこで、神々に正しく捧げものをすることが敬虔なのではないかと問い(14c)、社会通念に沿った敬虔の観念へとエウチュプロンを誘導する。エウチュプロンはその通りだと答える。
しかし、なぜ神々に捧げものをするのか、神々に願い事を聞いてもらうために取引きをしているのかとソクラテスはさらに問う(14e)。エウチュプロンは、そんなはずはないが、神々は捧げものを受け取れば喜ぶはずだと答える。
ソクラテスは、では神々は何を喜び、何を愛するのかと問う。これはエウチュプロンの第二の答えが行き着いた(行き詰まった)問題である(15b)。
敬虔とは何か、結論が出ないまま、ソクラテスとエウチュプロンは別れる(15e)。
レオ・シュトラウスは、「エウチュプロン」に関する講義を行ったことがあり、その記録と講義のために彼が作成したノートが最近、刊行された*6。シュトラウスは、エウチュプロンの最初の答えには、エウチュプロン自身の気づいていない重要な含意があると指摘する。それは、敬虔とは神にまねぶ(imitating gods)ことだとの含意である*7。われわれは、神々と同じことをするべきである。それは、正しいことをすることである。だからこそ、もっとも正しい神であるゼウスと同じこと、つまり不正を犯した父親に制裁を加えるべきだということになる。
しかしだとすると、神にまねぶこと自体に意味があるのではなく、正しいことをすることに意味があるはずである。神を敬うことではなく、正義を尊ぶことに意味がある。つまり正義のイデア(idea)こそが尊重に値する*8。
イデアはソクラテスの導入した「新しい神」に相当する。その限りではメレトスの主張は正しい。ただイデアは、神でもないし新しくもない。イデアは神の存在に先行している*9。
神々が争うはずはないというソクラテスの指摘も、真実らしく語られるにすぎない神話など信じられないというだけの話ではない*10。かりに神々が争うとしても、正義が何かが判明すれば、それにもとづいて争う神々のうちどの神の行動が正しいか、どの神を敬うべきかも判明するはずである*11。
つまり神も正義を尊ぶべきである*12。それが神のなし遂げるべきことである。何の根拠もなく恣意的に行動する全能の神だから敬うべきなのではなく、正義に即して行動する神だからこそ尊い。それは、一神教でも多神教でも変わりはない*13。
そうだとすれば、実は神の存在を措定する必要はない。直接に何が正義かを問えば足りるはずである*14。
神が何を愛するかもやはり問題ではない。何の理由もなくただ愛すること(盲目的愛)に意味はない。ここでも何が正義かが問題であり、それは正義のイデアを探究すること、つまり哲学にいそしむことこそが求められる。
エウチュプロンは、彼の最初の回答の含意──神が問題なのではなく、正義のイデアこそが問題──に全く気がつかず、次々とそれに矛盾する回答を繰り出す。見かねたソクラテスは、社会通念(doxa; opinion)としての敬虔、つまり伝統に即して国家の認める神々に正しく捧げものをすることが敬虔だという観念へとエウチュプロンを誘導した。
しかしこの通念としての敬虔は、彼の最初の回答と正面から衝突する。そもそも神は神に捧げものをすることはない*15。神々は、社会通念からすれば敬虔ではない。言い換えるならば、神にまねぶことこそが敬虔だとの彼の最初の(黙示の)回答は、社会通念に反する(heterodox)。
ところでなぜ人々は神々に捧げものをするのか。ソクラテスが示唆しているのは、神々に捧げものをすることで、人々は自身のコントロールし得ないこと、つまり偶然や運命を支配しようとしているというものである*16。神々は敬われるどころか人々の使用人として扱われており、捧げものをすることは神々との取引きだということになる。神々は買収されるのだろうか。
買収されてしまうような存在であれば、神々は敬うべき存在とは言えないであろう。つまり社会通念としての敬虔は敬虔とは言えない。敬うべきものが何か分からないまま、あるいは、そうすることが本当に敬うことになっているのか分からないまま、捧げものをしているだけである。
エウチュプロンは、敬虔が何か分からないまま、去っていく。ソクラテスが示唆している答えは、敬虔は必要ない、なぜなら神々がそもそも不必要だからというものである*17。もっとも大衆にとっては、敬虔は必要であるが(それとは意識しないまま、取引きをしているつもりになるために)。
神は存在しない。少なくとも賢者にとっては。これで終わりだろうか。
プラトンは神が存在するかのように語ることがある。『法律』の第10巻では、アテナイからの客人が、最初の始動因(first mover)としての神について語っている*18。物体を動かす因果関係の起点になり得るのは、物体ではなく魂のはずである。あらゆる因果関係の起点になるのが神である。ただし、彼のこの議論は、建設されるべき国家マグネシアにおいて、立法者が人々に法律を遵守させるためには神々の存在を論証する必要があるという文脈で行われている。
直ちに想起されるのは、ジャン=ジャック・ルソーが『社会契約論』第2篇第7章で描く立法者の物語である。立法者は人民に政治制度の枠組みを与え、それを通じて彼らの人間性を変革することができるほどの異能の持ち主である。立法者の考えは、そのまま人々に説いても、あまりに宏大で長期にわたる人民の利益にかかわるものであるだけに、理解されることがない。そのため、立法者は分かりやすい神の権威に頼って制度の軛を課し人々を公共の福祉の実現に向かわせる。宗教は政治の道具である*19。
アテナイからの客人による始動因としての神の存在証明も、宗教を政治の道具として使い大衆を説得しようとする立法者の「高貴な嘘」なのだとすれば、額面通りに受け取るわけにはいかない。
「クリトン、アスクレピオスに雄鶏をお供えしなければならない」という、いまわの際のソクラテスのことばはどう受け取ればよいのだろうか*20。死を迎えることで生という病が癒されることへの感謝を、医学の神であるアスクレピオスに捧げものをすることで伝えようとしたと説明されることがしばしばある。
しかし毒薬を服用した後、死を目前にしたソクラテスにとって、そこに神に頼ってまでコントロールすべき偶然や運命は残されていない。そもそもこの場面で、感謝すべき神を措定する必要はあるだろうか。賢者たるソクラテスにとって、その必要はなかったはずである。
節目ごとに神々に捧げものをする社会慣行を遵守するよう、残された友人たちに助言したというのが、一つの回答である。大衆に理解されることのない哲学者は、社会通念に沿って生きるかのように装いつつ、密かに知を探究し続けるしかない。そのことにソクラテスは改めて注意を促した。
そうしなければ、大衆の反感を買って、人民裁判で死刑判決を受けることになりかねない。すべての哲学者がそうした目に会えば、知の探究は途絶えてしまう。
シュトラウスは、『スピノザの宗教批判』に自ら寄せた序文において、神の啓示は、拒絶さえしなければ、誰にも経験可能だと言う。それはマルティン・ブーバーの言う汝(Thou)としての神、人類すべての父であり王たる神である。あらゆる一般法則や概念と隔絶した、紛うことなきその命令を今、ここで耳にすることができる。おのれの魂と力のすべてを尽くして彼を愛せとの神の叫びかけを経験してはじめて、人は他の人々を自身の兄弟として、そしておのれ自身をも愛することができる*21。
シュトラウスはこの絶対的な経験(the absolute experience)において、経験されているものは何かと問う。それが顕現(the Presence)であり叫びかけ(the Call)であり、血でも肉でもなく、全き他者(the wholly other)であり、死かあるいは無だということ以上のことが意味されるとき(傍点筆者)、そこで主張されているのは、人によるイメージであり、解釈であると、マルティン・ブーバーを参照しつつ指摘する*22。ある解釈が真の解釈(true interpretation)であるとは、そう信じられているだけのことである*23。真の解釈である確実な根拠はない。啓示を否定するスピノザの立場からすれば、当然の結論であるが*24。
啓示の拒絶は論理的には可能である。啓示を受け入れ、経験することが必ずしも魂の平安と救済を保証しないのであれば*25、なおさらである。
しかし、哲学の選択も必然ではない。スピノザも啓示の可能性を否定することはできない*26。ひたすら知を探究する哲学の選択は、信仰と同様に、合理的根拠抜きの意思にもとづいている*27。
事態は全く対称的である。どちらの側にも、決め手はない。
啓示を拒絶したとき、何が残されているか。シュトラウスは、ハイデガーの『有と時』第57節の参照を求める*28。逃れようもなくそこへと突き進む自らの死から逃避し、忘却しつつ日常生活に埋没し、世間なみの人(das Man)と化して生きる現存在(Dasein)も、自らの内奥からの叫びかけにより、隠蔽していた死に直面し、対峙を迫られる。そこには何の救済もハッピー・エンドも神の加護もない。ただ思惟すること、それのみがある。
神が立ち去ったいま、それを目の前にしてあらゆる世間なみのもの、あらゆる虚飾、まがいものが悉く壊滅するのは、おのれの死である*29。
モンテーニュは、おのれの死という事態を前に立ち止まり、まっすぐに注視しつつ、自然でさしたることのないできごととして扱うことは、ソクラテスのような偉人でなければなし得ないと述懐する*30。
「エウチュプロン」に関する講義の末尾で、シュトラウスは次のように述べる*31。
哲学者たちの理解する哲学の端緒は、主への恐れではなく、驚嘆(wonder)の念にある。その精神は、希望や恐れやおののきではなく、諦念にもとづく心の清澄さ(serenity)である。清澄さにより近いのは、悲嘆ではなく、哄笑である。
死を前にしても、悲嘆にくれることなく、ユーモアを湛えつつ思惟する。ソクラテスには簡単になれそうにないことが分かる。
*1 プラトン「エウチュプロン」西尾浩二訳、同『エウチュプロン/ソクラテスの弁明/クリトン』(京都大学学術出版会、2017)所収。
*2 アリストテレス『アテナイ人の国制』村川堅太郎訳(岩波文庫、1980)第57章。
*3 プラトン「ソクラテスの弁明」同 (n 1) 24b−c。「エウチュプロン」のテーマは、ソクラテスの生死にかかわっている。
*4 ヘシオドス『神統記』廣川洋一訳(岩波文庫、1984)154行以下。
*5 同上453行以下。
*6 Leo Strauss, On Plato’s Euthyphro (Hannes Kerber and Svetozar Y Minkov eds, Pennsylvania State University Press 2023).シュトラウスは、「エウチュプロン」に関する講義を1950年と1952年に行っている。本書に収録された講義録は1952年のものであり、講義ノートは1950年の講義用に用意されたものと推測される(Hannes Kerber and Svetozar Y Minkov, ‘Introduction: The Significance of Strauss’s Notebook on Plato’s Euthyphro’ in ibidem 6−7)。
*7 Strauss’s Lecture ‘On Plato’s Euthyphro’ in Strauss (n 6) 85.
*8 Ibidem 88; Hannes Kerber, ‘Reading Strauss’s Notebook on Plato’s Euthyphro’ in Strauss (n 6) 148.
*9 Strauss (n 7) 88.
*10 ソクラテスは『国家』藤沢令夫訳(岩波文庫、1979)[595]以下で、彼の理想国家から真実の模倣にすぎない芸術──詩を含む──が排斥されるべき理由を説明する。
*11 Strauss (n 7) 88.
*12 Ibidem 90.
*13 唯一全能の神といえども、他の神々を創造したり、自殺したりすることはできない。神も必然性を破ることはできない(ibidem; see also ‘Strauss’s Draft for His First Lecture on the Euthyphro (1950)’ in Strauss (n 6) 118)。
*14 Strauss (n 7) 87.
*15 Ibidem 86.
*16 Ibidem 91.この論点には、長谷部恭男『神と自然と憲法と』(勁草書房、2021)122−23頁で触れたことがある。
*17 Strauss (n 7) 93.
*18 プラトン『法律(下)』森進一・池田美恵・加来彰俊訳(岩波文庫、1993)259頁以下[890−899]。See Waine Ambler, ‘An Introduction to Strauss’s “On Plato’s Euthyphro”’ in Strauss (n 6) 180−81.
*19 ルソーの描く立法者については、さしあたり、長谷部恭男『法とは何か──法思想史入門〔新装版〕』(河出書房新社、2024)79−81頁参照。さらに、トマス・ホッブズ『リヴァイアサン Ⅰ』水田洋訳(岩波文庫、1992)第12章「宗教について」におけるホッブズのアイロニカルな観察を参照。
*20 プラトン『パイドン』岩田靖夫訳(岩波文庫、1998)[118]。See Strauss (n 7) 93.
*21 Leo Strauss, Spinoza’s Critique of Religion (EM Sinclair trans, University of Chicago Press 1997) 8−9.
*22 Strauss (n 21) 11; see Martin Buber, Eclipse of God: Studies in the Relation between Religion and Philosophy (Princeton University Press 2016, first published in 1952) in particular 39−40, 106.
*23 Strauss (n 21) 11.
*24 Leo Strauss, ‘Reason and Revelation’ in Heinrich Meyer, Leo Strauss and the Theologico-Political Problem (Marcus Brainard trans, Cambridge University Press 2006) 150.
*25 Strauss (n 21) 10.
*26 啓示を否定するには、啓示がもっとも完全な存在である神の本質──全能で、その意思は計り知れず、人と異なる途を歩む神が存在し得る──と両立し得ないことを論証する必要があるが、スピノザはそれに成功していない(Strauss (n 21) 28; Strauss (n 24) 153)。
*27 Strauss (n 21) 29−30.
*28 Ibidem 272, n 23. ハイデガー『有と時』辻村公一&ハルトムート・ブフナー訳(創文社、1997)第57節「慮の叫びとしての良心」。
*29 Heinrich Meyer, ‘Death as God’ in Meyer (n 24) 51.ギリシャ哲学に毒されたキリスト教の神ではなく、神々の帰還を待ち望む後期ハイデガーとの対話は、ここには見受けられない。
*30 モンテーニュ『エセー 6』宮下志朗訳(白水社、2014)101頁[第3巻第4章]。
*31 Strauss (n 7) 94.
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第33回 わたしは考える
第34回 例外事態について決定する者
第35回 フーゴー・グロティウスの正戦論
第36回 刑法230条の2の事実と真実
第37回 価値なき世界と価値に満ちた世界
第38回 ソクラテスの問答法について
第39回 アラステア・マッキンタイアの理念と実践
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