憲法学の散歩道第39回 アラステア・マッキンタイアの理念と実践

About the Author: 長谷部恭男

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第8版』(新世社、2022年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)、『法とは何か 新装版』(河出書房新社、2024年)ほか、共著編著多数。
Published On: 2024/6/4By

 
 
 エミール・ペロー=ソウシン(Émile Perreau-Saussine)は、パリ社会科学高等研究院で博士号を取得した後、ケンブリッジ大学で政治思想史を講じた。彼の著書に『アラステア・マッキンタイア──知的伝記』*1がある。彼はさらにマッキンタイアをテーマとする雑誌の特集を企画したが*2、特集が刊行される前の2010年、37歳で逝去した。
 

 
 マッキンタイアと言えば共同体主義者であり、リベラリズムを批判する保守主義者であり、その知的源泉は、かつてはマルクス主義であったが、その後、カソリシズムとアリストテレス主義へと転向したというのが一般的なイメージであろう。もっとも、彼がはたして真正の共同体主義者と言えるかは問題である。少なくとも現代国家に関する限り、社会全体で共有される善の観念など存在しないとマッキンタイアは考える*3
 
 古代ギリシャのポリスと違って、ニーチェ後の価値観がどうしようもなく多元化した現代の国家は、すべての市民が共通する善の観念について協働しつつ論議を重ね、その形成に参与する共同体としてはあまりにも規模が大きすぎる。そうした社会で共通する善の観念を目指して政治を遂行しようとすれば、結局のところ少数のエリートによる善の観念の押しつけがもたらされるだけである。

リベラルは国民国家の政府は対立する善の観念について中立的であるべきだとするが、現代の共同体主義者は、政府は特定の共有された善の構想、共同体の特性となる構想を表明すべきだと主張する。リベラルは共有された善の構想を具体化するのは、宗教団体のような結社であるべきだとするが、共同体主義者は、国民自身が国家の諸制度を通じて共同体を構成すべきだと主張する。……私の見るところ、共同体主義者は、リベラルな論者の方が一貫して正しい、まさにその点でリベラリズムを攻撃している*4

 社会内部の多様な実践固有の内在的善に耳を傾け、固有の生の形式を尊重することは、国民を単位とする大規模な国家の政治にとっては不可能である*5。家族単位の農業という生活様式はすでに失われ、関税障壁のないグローバルな市場を相手に多国籍企業が莫大な資本を投下し、優遇税制を各国政府に要求し、利潤が生まれなければ素早く退出する世界のみが、そこでは可能である*6
 
 現代の国家は、多様な価値観を抱く個々人がそれぞれの目的を実現するための便宜を供与する。国家にあるのは個人にとっての手段としての価値であり、手段としてどれほど効果的かは、個々人が費用便益分析にもとづいて利己的に判断する。ところが国家である以上、それは古代ギリシャのポリスと同様、国民の忠誠心の対象であること、場合によっては国家のために命を捧げることをも要求する。しかし、個々人に便宜を供与する手段としての国家が、命を捧げるに足りる対象となることはあり得ない。それは「電話会社のために死んでくれと要求するようなもの」である*7
 
 共通する善の観念について人々が熟議し、形成に参与し得る場があるとすれば、それはもはや国家ではあり得ず、より小規模な共同体である。ペロー=ソウシンは、この問題は、なぜマッキンタイアが1969年にヨーロッパを離れ、アメリカに移住したかという問題と密接に関連すると指摘する。

なぜ彼は合衆国に、もっともリベラルで商業的な共和国に移住しなければならなかったのか。マッキンタイアは大西洋を越えた地に、現代的にではなく生きる(ne pas être de son temps)可能性を発見した。均質化されたヨーロッパでは、現代に同調することが強制される。しかし、アメリカはそもそも、異なる時が混じり合うことなく並存する場として意図された。マッキンタイアは、旧大陸固有のバンジャマン・コンスタンの時代錯誤的主題への同調を拒否することではじめて、近代人の自由と対比される古代人の自由と連携することができた。彼は北米に避難所を発見した。そこでは、国家と市民社会とのリベラルな分離のおかげで、リベラリズムを批判することが可能であり、しかも宗教戦争を開始するおそれなしに、信仰を深めることもできそうである。マッキンタイアが発見した国家では、神学的─政治的問題(problème théologico−politique)は、一見したところ満足すべき回答を得ることができる。伝統を優先する彼の理論は、リベラリズムの実現を前提としている。それはリベラリズム後(après)に到来する*8

 マッキンタイアのアメリカは、17世紀、ピルグリムたちの避難所となった場と同じアメリカである。その地は、ウェストファリア条約によって支配されてはいない。多様な信仰は、信者の共同体が構成するそれぞれの飛び地で生き延びること、並存することができる。画一的同調を要求する主権国家は存在せず、そのため、宗教戦争が勃発することもない*9。大小さまざまな結社の並存と競合の結果として、人民の自由が守られる民主国家アメリカというトクヴィルと同様の観察がそこにはある*10
 
 ペロー=ソウシンは、『美徳なき時代』の末尾における聖ベネディクトへの言及も、多様な宗教結社によって構成されるアメリカ合衆国を建設したピューリタンを暗示したものだとする*11。たしかにそこでは、野蛮な暗黒時代において道徳性と文明とを保存するために、新たな形態の共同体を建設する企図──聖ベネディクトの場合、それは修道院であったが──が語られている*12
 

 
 マッキンタイアの思想が以上のように描かれるものだとすると、それを果たして政治・・哲学と言い得るのかという疑問が浮かんでくる。
 
 ペロー=ソウシンは、マッキンタイアは奇妙なアリストテレス主義者だと言う。階級間の闘争は、マルクスにとってと同様、アリストテレスの『政治学』においても、主要な課題であった。マッキンタイアは、マルクスとアリストテレスを思想的淵源とする。ところが彼は、アリストテレスの『政治学』にはほとんど言及しない。あたかも、アリストテレスの政治理論は『政治学』からではなく、『ニコマコス倫理学』から引き出されるかのようである*13
 
 アリストテレスからすれば、人はそもそもポリス的動物であり、国家なくしては人間としての本来の生を送ることはできないはずである*14。国家の目的は、善き生の実現にある。人々がともに善く生きること、あるべき自分の本来の姿を実現することこそが国家の目的であって、それは「たがいに対する不正を禁じ、物の交換を目的とするような共同体ではない」*15
 
 ところがマッキンタイアによれば、現代国家にそもそもそうした役割を期待すべきではない。国民に共通する善の観念などなく、その実現に向けた国民全体の協働や熟議などあり得ない。そこにアリストテレス的な意味での政治はあり得るであろうか。彼のアリストテレスは、政治哲学を切り取られた(amputé de sa philosophie politique)不完全なアリストテレスではないかとの疑問が浮かび上がる。
 
 ペロー=ソウシンによれば、マッキンタイアにとって人間とは政治的動物なのではなく、まずもって社会的動物である*16。共通善である内在的な善を人は社会生活を通じて獲得する。社会生活における、とりわけさまざまな制度内での伝統の実践とそれへの参加を通じて。そこで根拠とされるのは、『ニコマコス倫理学』であって『政治学』ではない*17。そしてマッキンタイアのそうしたアリストテレス理解は、ウィトゲンシュタインを継受したエリザベス・アンスコムの哲学から得たものである*18
 

 
 マッキンタイアは、こうした疑問に対して、それは誤解だと応じる。『美徳なき時代』は、その副題(A Study in Moral Theory)が示すように、道徳理論の研究であり、その結論は、道徳理論の知的資源だけでは、道徳理論家を対立させている諸問題を解決することはできないということ、そのためには、徳にもとづく熟慮された実践が必要だということであった。しかし『美徳なき時代』は、そうした実践として何が必要かについて十分には論じていない。そのため、政治的なるものについてもほとんど論じていない*19
 
 そもそもアリストテレスによれば、人に限らず、何ものかがある種(species)のメンバー足り得るには、その種に特有の役割(ergon)を果たす必要がある。ところが『政治学』においてアリストテレスがとっているのは、ごく少数の人間だけがそうした役割を果たし得るという立場である。外国人も女性も奴隷も労働者も、政治の場から除外される。つまりこの点では、アリストテレス自身に矛盾がある。人間が本当に政治的動物なのであれば、すべての人間に政治的な側面がなければならないはずである。どのような政治社会であれば、そうした側面をすべての人間に与えることができるだろうか。
 
 それは現代国家ではない。そこでは、実効的な市民権を与えられるのは、エリートだけである。アリストテレスと変わりはない。現代国家には、一般市民が日常生活上の共通のニーズを把握し、いかにして共通善を実現し得るかを討議する制度が欠如している。そうした制度としては、地域社会のコミュニティ、労働組合、生活協同組合などいろいろなものが考えられる。そうした活動に参加する人々は、自分たちの活動が奇形化されることなく、現代の国家および市場の制度といかにしてかかわり合うかという問題に直面する。一般市民による下からの合理的熟議にもとづくイニシァティヴは、国家と市場による上から押しつけられる変化と衝突する*20
 
 つまりペロー=ソウシンがマッキンタイアのアリストテレス主義が非政治的だと言うとき、そこには現代国家をどう見るかについての対立がある。さらにもう一つ指摘すべき点は、マッキンタイアの批判者が彼を保守的思想家だと考えることに含まれる誤解である。これは、彼がウィトゲンシュタインの保守的な解釈、つまりアンスコムの影響下にあるという主張にも含まれる誤解である。実際には、1960年前に、マッキンタイアはいわゆるウィトゲンシュタインの保守的解釈を拒否している。彼がアンスコムから学んだことの中には、何ら保守的な要素はない*21
 
 そもそもマッキンタイアは、自由と社会正義を尊重し、抑圧と欺瞞を批判するリベラリズムの理念には、完全に同意している。彼が批判的なのは、リベラリズムの理念に対してではなく、理念に背くその実践に対してである。現代のリベラルな社会はどこでも、エリートが支配する。エリートが政治の主題を設定し、一般市民が選択し得る選択肢を決定する。エリートたちの共有する前提に疑問を提起することは許されない*22
 
 ペロー=ソウシンは、マッキンタイアの見解は、人間を政治的動物ではなく、社会的動物だとするハンナ・アレントの見解だとする。しかし、政治的なるものを法的なるもの、社会的なるもの、経済的なるもの、道徳的なるもの、宗教的なるもの等々から区分するのは、現代の大学教育上の区分である。はたしてこうした区分が、13世紀のヨーロッパや前4世紀のギリシャで成り立ち得たであろうか。そもそもアリストテレスが人間は政治的動物だと言ったとき、何が含意されていたのだろうか。政治的動物でないとすれば、人間は何であり得ただろうか。
 
 そうした人間も言語を使って社会関係を構築しそれに携わるであろうが、その内容は家事や家族関係や経済的交換の場としての村の活動に限定されるだろう。人間を人間らしくするのは、こうした生活の必要に迫られての関係にとどまらず、窮極の善を求める活動に携わることである。政治的な側面は、それに向けての熟議の制度にあらわれる。
 
 だからこそ、政治的探究は、人が熟議する実践的に合理的な主体として行動するとは何か、共通善についてともに審議するために必要な社会秩序として何が必要かを問うことから始めるべきだとマッキンタイアは考える。アリストテレス的観点からすれば、合理的対話を通じて共通善を実現するための政治的制度なくしては、善を実現することも、善き人間となることもあり得ない。合理的主体として行動することは、必然的に、自身の生に政治的側面が備わることを意味する*23
 
 したがって、政治的なるものは、社会的なるものや倫理的なるものと区別され、対比されるべきではない。政治的関係とは、特殊な形で理解された社会的関係のことである。正しい善の秩序づけを前提とする行動こそ、政治的に行動することである。哲学を教えることも、政治的活動であり得る。だからこそ、マッキンタイアの哲学は、レオ・シュトラウスのそれとは全く異なる*24
 
 以上のように考えるべきだとすれば、アリストテレス的な政治とは、現代において理解されている政治──エリートによる国家と市場での政治──とは全く異なる。それは、現代の政治経済に対するマルクス主義からの批判と共通する部分を含むことになる。マッキンタイアの思想を保守的と形容することは、ますます困難となるはずである*25
 

 
 しかし現代において、国民全体が協働して共通善の実現を目指す国家規模の共同体はなぜ不可能なのだろうか。たとえば、カント流の定言命法の要請にもとづき、人民のすべてが普遍化可能な格率を定立しつつ行動する社会は、およそ観念し得ないのだろうか。マッキンタイアの結論は、やはり不可能だというものである。ただ、そうした結論に行き着く過程で彼が行うカント解釈は、あまりにも単純かつ硬直的なもので、説得力に乏しい。
 
 彼がまず採り上げるのは、カントに対するバンジャマン・コンスタンの批判である。コンスタンは、「『真実を話すのが義務だ』という道徳原則をそれだけ取り出して絶対的なものとして受け取ると、社会生活がおよそ不可能となることは、あるドイツの哲学者(カント)がこの原則から直接に引き出している結論から明らかだ」とする。その哲学者が引き出している結論とは、「あなたの友人を追跡する殺し屋たちから、友人があなたの家に逃げ込んでいるのではないかと訊かれたとき、嘘をつくのは罪であろう」というものである*26
 
 マッキンタイアは、さらに具体例を二つ挙げる*27。第一は、ナチスの占領下のオランダでユダヤ人の夫妻からその子を預かった主婦が、ナチスの将校に、「この子はあなたの子か?」と訊かれたとき、嘘をついてその子を守ったという事例である。第二は、暴力的な別れた夫が子どもに致命的な暴力を加えようとするとき、ピストルで彼を撃ち殺した女性の事例である。
 
 いずれも、カント的な普遍的道徳原則には反する行為のように見える。場合によっては本当のことを言う必要はないという格率が普遍化され、誰もがそれを承知しているとなると、真っ当なコミュニケーションがそもそも成り立たなくなり、したがって、場合に応じて嘘をつくことで急場を凌ぐこと自体が不可能となる。場合によっては人を撃ち殺して構わないという格率についても、同様のことが言えるであろう。
 
 マッキンタイアは、普遍的道徳原則からではなく身近な共同体から話を始める。本人が面倒を見るべき子どもたち、自分を信頼している子どもたちを守ることは、そうした信頼の絆で成り立っている人間関係を維持し、その中での義務を遂行することである。そうした人間関係へ外部から攻撃が加えられたとき、必要にして、過剰とは言えない手段でその人間関係を防衛することは、正当である。オランダの主婦の場合、ナチスの将校をピストルで撃ち殺せば、本人を含む近隣の住民が皆殺しにされるリスクがある。「自分の子どもだ」と嘘をつくことは、必要にして最小限の、相応の反応と言うことができる。
 
 嘘をつくことがなぜ悪かと言えば、それはこうした身近で小規模な共同体の道徳的完結性(integrity)を傷つけるからである*28。普遍的原則に違背するからではない。そして、こうした身近で小規模な共同体から始まる共通善の追求の環を広げて行こうとしてもおのずと限界があるというのがマッキンタイアの観察である。
 
 もっとも、マッキンタイアとカントとで、少なくとも個別の状況での結論においてさしたる径庭はないはずである。コンスタンに批判されたカントの態度についても、定言命法の要請のもう一つの定式化である人間性原則──自身を含めて人間を手段としてのみ扱うな──からすれば、殺人者の単なる手段として行動することの正当性は疑われるはずである*29。また、カント自身、自分の金を奪おうとする者から「君に金の持ち合わせはあるのか」と尋ねられたとき、嘘によって自衛することも認められると述べる*30
 
 フリードリヒ大王から、キリスト教の根本教説を歪曲したとして叱責されたカントが、「国王陛下の最も忠実な僕として」宗教に関する公の講述を講義でも著作でも今後一切差し控えると誓約したときも、間もなく逝去することが見込まれていたフリードリヒ大王の在世中に限ってそうするつもりだったのだとカント自身が述べている*31。嘘をついたとは言えないかも知れないが、誠実(truthful)な態度とは言えそうもない*32
 
 カントの道徳哲学は、マッキンタイアが描くほど、単純かつ硬直的なものではない。個別具体の状況に応じた柔軟な行動が許容されている。ただカントの場合、それはあくまで自律的な個人がそれぞれ下すべき判断である。特定の共同体のメンバーとしての判断ではない。
 

 
 マッキンタイアの意図は理解できる。しかし結局のところ、彼の目指す実践を実現し得る場は、現代国家ではない。リベラルな社会内部に構築される小規模な共同体である。野蛮な暗黒の時代に真の道徳を保持し得るのは、そうした場である。しかもそうした場を覆う現代国家は、単なる便宜提供の手段にすぎない。現代社会において、共通善であるかのように偽装される、多様な世界観を抱く人々に共通する(重なり合う)利益は、アリストテレスの目指した共通善とは全く別物である*33
 
 それでもリベラルな現代国家は、目下の反リベラルな国家との対立・抗争を生き延びることができるであろうか。生き延びることができるとすれば、反リベラルな現代国家が掲げる共通善も実はまがい物にすぎず、国民の忠誠心を調達することなどできないからであろう。それは通話不能な電話会社のために死んでくれと要求するようなものである。
 


*1 Émile Perreau-Saussine, Alasdair MacIntyre: Une biographie intellectuelle (PUF 2005). Alasdairは、アラスデアと表記されることもあるが、ケンブリッジ大学出版局およびオクスフォード大学出版局から刊行された発音事典(Cambridge English Pronouncing Dictionary (18th edn, Cambridge University Press 2011); BBC Pronouncing Dictionary of British Names (2nd edn, Oxford University Press 1983))は、アラステア(ælistər)が正しい発音だとする。
*2 Revue internationale de philosophie, 2013/2 (No 264).
*3 この点については、長谷部恭男『憲法の円環』(岩波書店、2013)第2章「アラステア・マッキンタイアにおける実践と政治」で検討したことがある。
*4 Alasdair MacIntyre, ‘A Partial Response to My Critics’ in John Horton and Susan Mendus (eds), After MacIntyre: Critical Perspectives on the Works of Alasdair MacIntyre (University of Notre Dame Press 1994) 302.
*5 Alasdair MacIntyre, ‘Politics, Philosophy and the Common Good’ in Kevin Knight (ed), The MacIntyre Reader (Polity Press 1998) 243.
*6 Ibidem 237−38.
*7 Alasdair MacIntyre, ‘Poetry as Political Philosophy: Notes on Burke and Yeats’ in his Ethics and Politics: Selected Essays, Volume 2 (Cambridge University Press 2006) 163.
*8 Perreau-Saussine (n 1) 124.
*9 Ibidem 124−25.
*10 この点については、長谷部恭男『歴史と理性と憲法と──憲法学の散歩道2』(勁草書房、2023)84−89頁参照。もっともペロー=ソウシンは、マッキンタイアにとってのアメリカ社会は、トクヴィルが描くようには同調主義によって脅かされてはおらず、むしろマディソンの描く多元主義社会に近いと言う(Perreau-Saussine (n 1) 40)。また、チャールズ・テイラーやマイケル・ウォルツァーが好意を寄せる多文化主義にも、マッキンタイアは否定的であることも指摘される(ibidem 43−44)。多文化主義社会では、今日はフレンチ、明日はイタリアン、その次はタイ料理と、個々人がその日の都合や好みに合わせて選択するように、個々人がそのアイデンティティを多様な選択肢から選ぶことになる。マッキンタイアにとって、人は個人として選択するのではなく、特定の共同体のメンバーとして選択すべきである(Alasdair MacIntyre, Whose Justice? Which Rationality? (University of Notre Dame Press 1988) 321; Perreau-Saussine (n 1) 53)。
*11 Perreau-Saussine (n 1) 125.
*12 Alasdair MacIntyre, After Virtue (3rd edn, University of Notre Dame Press 2007) 263. 邦訳は篠﨑榮訳『美徳なき時代 新装版』(みすず書房、2021)。
*13 Perreau-Saussine (n 1) 54.
*14 アリストテレス『政治学』牛田徳子訳(京都大学学術出版会、2001)9頁[1253a]。
*15 同上139−40頁[1280b]。
*16 Perreau-Saussine (n 1) 93.
*17 Ibidem 90.
*18 See Vincent Descombes, ‘Alasdair MacIntyre en France’ Revue internationale de philosophie, 2013/2 (No 264) 136; see GEM Anscombe, Intention (2nd edn, Harvard University Press 1963).
*19 Alasdair MacIntyre, ‘Replies’ Revue internationale de philosophie, 2013/2 (No 264) 204.
*20 Ibidem 204−05.
*21 Ibidem 205.
*22 Ibidem 202.
*23 Ibidem 206−07.
*24 Ibidem 207. シュトラウスは、哲学の途は政治の途とは全く別だと考える。プラトンが『国家篇』で描く哲人王の物語にもかかわらず、哲学者が政治指導者になることなど、不可能である。この点については、長谷部恭男『憲法の境界』(羽鳥書店、2009)第5章「学問の自由と責務──レオ・シュトラウスの「書く技法」に関する覚書」参照。
*25 MacIntyre (n 19) 207−08.
*26 Benjamin Constant, Des réactions politiques (Kessinger Publishing 2010, originally published in 1797) 74.
*27 Alasdair MacIntyre, ‘Truthfulness and lies: what can we learn from Kant?’ in his Ethics and Politics: Selected Essays, Volume 2 (Cambridge University Press 2006) 134−41.
*28 Ibidem 138.
*29 これはクリスティン・コースガードが指摘する点である。この点については、長谷部恭男『憲法の論理』(有斐閣、2017)第6章「嘘をつく権利?」参照。
*30 長谷部(n 29)87−88頁。
*31 「諸学部の争い 序言」角忍・竹山重光訳『カント全集18 諸学部の争い 遺稿集』(岩波書店、2002)15−16頁[A10]。
*32 アンスコムが言うように、「嘘とは発話者の本心に反する言明である」とすれば、嘘ではない(Anscombe (n 18) 4)。しかしカントは、自身の本心が相手に正確に伝わることを決して望んではいなかったはずである。
*33 MacIntyre (n 19) 219−20.

 
》》》バックナンバー
第33回 わたしは考える
第34回 例外事態について決定する者
第35回 フーゴー・グロティウスの正戦論
第36回 刑法230条の2の事実と真実
第37回 価値なき世界と価値に満ちた世界
第38回 ソクラテスの問答法について
 
《全バックナンバーリスト》はこちら⇒【憲法学の散歩道】
 
 
憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。山を熟知したきこり同様、憲法学者だからこそ発見できる憲法学の新しい景色へ。
 
2023年5月1日発売
『歴史と理性と憲法と 憲法学の散歩道2』
長谷部恭男 著

3,300円(税込) 四六判 232ページ
ISBN 978-4-326-45128-9

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b624223.html
 
【内容紹介】 勁草書房編集部webサイトでの好評連載エッセイ「憲法学の散歩道」の書籍化第2弾。書下ろし2篇も収録。強烈な世界像、人間像を喚起するボシュエ、ロック、ヘーゲル、ヒューム、トクヴィル、ニーチェ、ヴェイユ、ネイミアらを取り上げ、その思想の深淵をたどり、射程を測定する。さまざまな論者の思想を入り口に憲法学の奥深さへと誘う特異な書。
 
本書のあとがきはこちらからお読みいただけます。→《あとがき》
 
 
連載書籍化第1弾『神と自然と憲法と』のたちよみはこちら。→《あとがき》
 

About the Author: 長谷部恭男

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第8版』(新世社、2022年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)、『法とは何か 新装版』(河出書房新社、2024年)ほか、共著編著多数。
Go to Top