憲法学の散歩道
第41回 グローバル立憲主義の可能性

About the Author: 長谷部恭男

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第8版』(新世社、2022年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)、『法とは何か 新装版』(河出書房新社、2024年)ほか、共著編著多数。
Published On: 2024/10/1By

 
 
 グローバル立憲主義がトレンディである*1。地球全体を立憲主義の諸原則によって規律される世界として捉えるべきだ、あるいはそうした世界の実現を目指すべきだとする議論である。
 
 気候変動、テロリズム、疫病の蔓延、大量の難民・移民等の問題は、各国の国境を超える広がりを見せており、超国家的な解決を必要とする。そうした解決を与える機構は、立憲主義の諸原則に沿って組織され、運営されるべきだというわけである。
 
 そこで言われる立憲主義の諸原則とは、法の支配、権力の分立・均衡、人権の保障、人民の憲法制定権力であり、古典的な立憲主義、つまり近代立憲主義と変わらない。一国単位の近代立憲主義を国際社会へと外挿し、立憲主義の諸原則によって規律される世界の構築を目指す議論、それがクローバル立憲主義である。一見したところ、素晴らしい話のように見える。
 

 
 とはいえ、グローバル立憲主義という概念には、相当の違和感があると言わざるを得ない。近代立憲主義は宗教改革後の血みどろの宗教戦争と大航海時代での地球大の知見の拡大を経て、激烈に対立する価値観・世界観を人々が抱くことを前提としつつ、そうした人々が公平に人間らしい社会生活を送ることを可能とする枠組みとして、17世紀から18世紀のヨーロッパで成立した。
 
 それは同時に、封建的身分関係を破壊し、さまざまな中間団体に分散されていた政治権力を中央政府へと集中するとともに、平等な権利を享有する個人を創出する過程でもあった。近代立憲主義の成立と近代的な統一国家の成立とは、切っても切り離せない関係にある*2
 
 近代国家は、H.L.A. ハートが『法の概念』で描いた1次ルールと2次ルールの組み合わせとしての法秩序を備える*3。そうした法秩序を備えてはじめて、国家は急速に変動する社会で人々の行動を実効的に方向づけて人々の社会的相互作用を調整することができるし、立法・行政・司法という複数の統治機能を分立させてその均衡を図り、法の支配と人権の保障を統治権限のおよぶ領域内で実現し、統治システムの全体が主権者たる人民の意思によって正当化されると主張することが可能となる。近代立憲主義の実現は近代的統一国家の成立を前提としていた。
 
 しかも近代国家は、カール・シュミットが指摘したように、領域内の平和を確保する反面で、深刻な敵対関係を国家間の関係へと括り出すメカニズムでもある。国内に正当な敵対行為は存在せず、戦争は国家と国家の関係となる*4。つまり、国内の平和の確保は、国家間での友敵関係の昂進をもたらす。立憲主義国家では多様な価値観・世界観の公平な共存の枠組みが実現されるであろうが、どのような範囲での価値観・世界観の共存が保証されるかは、国ごとに異なる。そして立憲主義を端的に否定する国家群も存在する。
 
 シュミットが国内での価値観・世界観の統一に急なあまり、共産主義とファシズムにのみ将来があると示唆したのは行き過ぎであったが*5、国内での平和維持と国家間での価値観・世界観の対立が表裏の関係にあるとの彼の指摘は、現在の世界においても依然として当てはまる*6。メタレベルでの立憲主義それ自体をも含め、対立している価値観・世界観をそれぞれ具現化する諸国家を統一する世界国家が簡単に出現することは期待できない。
 
 イマヌエル・カントは、複数の人民を統治する国家(Völkerstaat)の領域があまりに広大となると実効的な統治や国民の保護も不可能となるし、また複数の人民を統治する国家が簇生すれば、そうした国家間の戦争状態が帰結すると予測する*7。世界大の永遠平和の実現は不可能であり、現実に可能なのは、共和政体を採用しかつ民兵によって自衛する多くの国家相互の抑制均衡を通じて、永遠平和に漸次的に接近することのみである。とはいえ、こうした状態は、一大強国によって諸国家が溶解され魂のない専制政治がもたらされるより好ましい*8
 
 こうしたカントの指摘は、シュミットが描く近代国家の機能と対応している。別の言い方をするならば、世界統一国家が実現するとしても、それが立憲主義国家である保証はない。それは特定の価値観・世界観を全人類に押し付ける抑圧的な専制国家である蓋然性が高い。
 
 近代国家は近代社会の市民の需要に応じたさまざまな公共サービスを提供するために成立した。現代の世界に生きる人々の需要に十分に応ずることが、国家単位ではもはや不可能であり、国境を超えた各国政府の連携を必要とするのであれば、国家単位の憲法および立憲主義の意義は、それだけ低下するはずである*9
 
 しかし、現代世界の需要に応ずるための国際的な枠組みは、立憲主義の理念に則した地球レベルの公共サービスを提供し得ているのだろうか、あるいは近い将来、そうなると言えるのか。
 

 
 ハートは、国際法が1次ルールと2次ルールとからなる法秩序であることを否定した。国際法は1次ルールのみの集合体からなっている。それは秩序を構成していない*10
 
 認定のルールが欠如しているという点については、異論があるかも知れない。逸脱が許されない強行規範(jus cogens)の存在も指摘される。しかし、明確で中央集権的な立法機関が存在しないこと(国連総会はそうした立法機関ではない)、さまざまな司法機関が存在するものの、それらの主たる機能は国家間の紛争解決であって弱い履行強制力しか具備しておらず、統一的な公的規律の存在とその適用を前提とした具体的規範の宣言とその強制履行であるとは言いがたいことについては、多くの論者が同意するものと思われる*11
 
 国際法の世界は統一的な秩序となっていない水平的な世界で、EUを典型とする地域間の秩序形成が個別に見られるとしても、全体から見ればせいぜい多中心的(polycentric)なものにとどまる。そうであれば、国際社会における立憲主義的な意味での権力の分立と均衡について語ることも──裁判所の独立は別として──時期尚早と言わざるを得ない。かりにグローバル立憲主義の理念について多くの人々の間に共通了解があるとしても(それも疑わしいが)、その理念が地球の隅々まで実現されることは、当面期待薄である。
 
 世界全体を覆う人民の憲法制定権力を観念することが困難であることは、誰もが認めざるを得ないであろう。もっとも制度化が進んだEUも条約を根拠とするもので、ヨーロッパ人民の憲法制定権力によって正当化されてはいない。グローバル立憲主義との関連で憲法制定権力に言及する論者も、グローバルな法秩序を無から創出する権力としてではなく、すでに設立された諸制度が人民の同意を反映することなくその権限を変動させることを抑止する効能を期待しているかに見える*12
 
 ただ、筆者が別に論じたように*13、人民の憲法制定権力なる観念は、それ自体の整合性に深刻な疑念があるとともに、憲法の制定や運用を正当化する意義も見出しがたい。結論のみを端的に述べれば、何らの授権規範も前提としない憲法制定権力は想定不可能であり、もし立憲主義の諸原則に相当する根本規範がその授権(制限)規範なのだとすれば、憲法の正当化根拠としてはそれらの根本規範で十分であり、かりに根本規範だけでは抽象的にすぎてその具体的確定(determination)が求められるとしても*14、すでに具体化され機能している憲法が存在するのであれば、具体的確定のための憲法制定権力はやはり不要である。そうだとすれば、グローバル立憲主義にとって憲法制定権力論にさしたる効用が期待できないとしても、驚くべきことではない*15
 
 他方、国際的な人権保障の理念に関しては、多くの人々の共感が得られると思われる。権威主義国家の政府の多くも、少なくともリップサービスはしているように見受けられる。とはいえ、人権および基本権の観念は本来、近代法秩序の下で、実定法の権威を解除するための道徳的根拠として機能するものであり、それを「法原則」と形容することで得られるものがどれだけあるかは、別途考慮を要する*16
 
 本来は道徳原則であるはずの人権および基本権を根拠に司法機関が実定法たる判例法理──構造化された比例原則や厳格度を区分された審査基準──を構成すること、さらには判例法理の秩序を構築することは確かにあり得るし、その例は各国に見られる。しかし、前述の通り、国際社会におけるさまざまな司法機関は、国家間の紛争解決を主たる機能とするものであって、統一的な公的規律の存在とその適用を前提とした具体的規範の宣言とその強制履行を行っているわけではない*17
 
 独自の物理的強制力を保有する国際機関は、未だ存在してはいない。そして、トマス・ホッブズが指摘したように、「剣を伴わない契約は単なることばに過ぎない」*17。人権保障の点においても、グローバルな立憲主義の法原則が確立しつつあると言うことは難しいように思われる。
 
 つまるところ、グローバル立憲主義が現在の世界において確立しつつあると言うことは到底できないし、また近い将来、グローバル立憲主義の実現が確実であるとも言いがたい*19
 

 
 情報空間のデジタル化がグローバルに拡大する現在、アナログ世界に対応して生成した古典的な立憲主義の諸原則をデジタル化社会に対応したものとするために、国際的な協調が必要とされることは確かである。デジタル立憲主義*20は国家権力だけでなく、サイバー空間での人々の行動を枠づける基本構造(architecture; code)や契約約款(lex digitalis)を一方的に設定・執行する私企業・私的団体の権力にも対応しなければならない。
 
 デジタル化は、行政の透明性を向上させ、表現の自由や集会の自由の簡便な行使を可能とし*21、勤労や学習の機会を増大させるなど、情報の伝達にかかわる基本権の低廉・迅速で実効的な行使に貢献する。その反面、デジタル化は、各国政府が個人・団体間のEメイルのやりとりやウェブ・ページの閲覧等に関する情報を大規模に収集・処理してプライバシーや通信の秘密を脅かす手段ともなる*22。またインターネットを通じて出所不明の誤情報や偽情報が拡散され、民主的政治過程の運営を支える情報空間が意図的に歪曲される事象も、アメリカ大統領選挙やイギリスのEU離脱の国民投票などに際して、頻繁に観察されている。
 
 さらに、地球規模のサイバー空間で活動するマイクロソフト、アップル、グーグル、アマゾン等の巨大多国籍企業は、各企業が支配する市場の基本構造や契約約款を一方的に設定・執行するだけでなく、それを梃子に各個人に関する膨大な情報を収集・集積し各自の選択や行動をアルゴリズムによって誘導して個人の自律を縮減するなど、大きな影響力を人々の日常生活の隅々にまで及ぼしている。
 
 大国の政府に匹敵する私的権力を行使するこうした巨大企業は、新たに出現したリヴァイアサンである*23。彼らが創出する基本構造や約款の枠組みは、租税回避行動と同様、彼らの利潤最大化を目指すものであって、それが利用者の利益と合致する保証はない。サイバー空間で多様な主体が相互作用する自生的プロセスが、「見えざる手」を通じて人々の基本権の十全な行使を実現するという想定は、単なる願望思考である。
 
 デジタル化された世界では、公私の権力によって基本権が脅かされるリスクがアナログ社会に比べて格段に増大している。そうしたさまざまなリスクに対応するのは、第一次的には各国政府であろう。急速に変転するデジタル化社会の諸問題の解決には、柔軟かつ迅速に対応し得る各国内の通常法律(憲法ではなく)とその執行が適している。
 
 しかし、地球規模のサイバー空間で生ずる諸問題の解決には、各国内での取組みに加えて国際的な協調が求められるはずである。インターネットへのアクセス権やオンラインでのプライバシー保護など、デジタル化社会に対応した基本権憲章を策定するさまざまな試みや、EUにおける一般データ保護規則(the European General Data Protection Regulation)の制定は、その例である*24
 
 とはいえ、そうした国際的協調の努力も当面は、立憲主義を奉ずる諸国家間の連携を中心として遂行されることとなるし、そうした諸国家の憲法や基本権がベースラインとして参照されるはずである*25。反立憲主義陣営はむしろ、自国内の情報ネットワークをソシャル・メディア等の地球レベルのネットワークから遮断するともに、情報デジタル技術を利用して真実と虚偽の境界線を破壊し、各国の立憲主義体制を掘り崩そうとするであろう。
 

 
 近代国家の形成が近代立憲主義成立の必須の前提であったように、近代立憲主義の諸原則に規律された地球レベルの統治組織が形成されるには、地球レベルの法秩序、つまり地球レベルの国家の形成が必要である。そうした統治組織の形成を正当化するには、それが全人類に共通する公共善を効果的に提供するという保証、少なくとも、その統治組織が全人類にもたらす公共悪を上回る公共財を提供し得るという保証が必要である。
 
 そうした保証はあるだろうか。価値観も住環境も生活習慣も異なる何十億もの人類すべての利害や見解を公正に反映しつつ、しかも人権を侵害することもなく、全人類に共通する公共財を提供することは、至難中の至難の技であろう。
 
 カントが指摘したように、多くの国家が並存し、各国家が自国の国民にとっての公共財を提供するシステムの方が、より効果的に全人類の公共善のレベル(の平均値)を向上させることも十分に考えられる。変更のルールを含む2次ルールを備えた各国の法秩序は、調達に時間とコストを要する国際的な合意よりも、急速に進展・変化するデジタル化社会の諸問題により適切に対応できるであろう*26。そうだとすれば、グローバル立憲主義の実現を目指す努力は、全人類の公共財の向上につながるとは言えず、そもそも正当化され得るか否かが疑わしい*27
 
 将来の世界がグローバル立憲主義を具現化した世界となることが不可能とは言えないが、現実問題としては、立憲主義を擁護する国家群とそれを否定する国家群とが深刻に対立する世界が続くことも、多国籍企業のネットワークがネオ・リベラリズムにもとづいた緩やかな連合を形成し、各企業が自身の支配する市場を私的に統治する世界になることも、また、立憲主義を否定する国家群が支配的な世界が到来することも同様に可能である*28
 
 立憲主義的な国際秩序が成立し、気候変動、テロリズム、疫病の蔓延、大量の難民・移民問題、グローバルなデジタル化など、国境を超える諸問題を解決するバラ色の未来が到来する可能性があるとしても、そこへ至る途は遠く険しい。実現には途方もない努力が必要である。威勢のよいスローガンを唱えることよりも*29、現実を直視することが求められる。
 
 国境を超える問題に立憲主義に則して対処する方策は、当面は、立憲主義諸国間の連携を中心として企画・策定・実施されることが予想される。それをグローバル立憲主義と呼ぶのであれば、それは1つのことばの遣い方ではある。
 


*1 Anne Peters, ‘Compensatory Constitutionalism; The Function and Potential of Fundamental International Norms and Structures’ (2006) 19 Leiden Journal of International Law 579, 583; Anthony F Lang Jr and Antje Wiener, ‘Introduction’ to Anthony F Lang Jr and Antje Wiener (eds), Handbook on Global Constitutionalism (2nd ed, Edward Elger 2023) 11−13.
*2 樋口陽一『憲法〔第四版〕』(勁草書房、2021)37−40頁[§20]および153−54頁[§82]、長谷部恭男「ローレンツ・フォン・シュタインを読むベッケンフェルデ」早稲田法学99巻3号(2024)329−30頁。See also Dieter Grimm, Constitutionalism: Past, Present, and Future (Oxford University Press 2016) 360.
*3 HLA ハート『法の概念』長谷部恭男訳(ちくま学芸文庫、2014)第Ⅴ章。
*4 Carl Schmitt, Der Begriff des Politischen (7th ed, Duncker & Humblot 2002 (1963)) 10; 邦訳『政治的なものの概念』権左武志訳(岩波文庫 2022)213−14頁。
*5 Carl Schmitt, Die geistesgeschichtliche Lage des heutigen Parlamentarismus (3rd ed, Duncker & Humblot 1961 (1926)) 5−23 [Vorbemerkung]; 邦訳『現代議会主義の精神史的状況 他一篇』樋口陽一訳(岩波文庫、2015)123頁以下。
*6 統一された価値観・世界観の単位は、現在では国家ではなく国家連合となっているかも知れない。そのとき、各国家連合内部では、国境・国籍・主権の意義は低下していく。この点については、長谷部恭男『憲法の境界』(羽鳥書店、2009)41−45頁参照。しかし、複数の国家連合間の深刻な対立関係が緩和されるわけではない。
*7 Immanuel Kant, Die Metaphysik der Sitten (11th ed, Suhrkamp 1997) 474 [§61; A350]; 邦訳『人倫の形而上学 第一部』熊野純彦訳(岩波文庫、2024)336頁。
*8 Immanuel Kant, Über den Gemeinspruch: Das mag in der Theorie richtig sein, taugt aber nicht für die Praxis, Zum ewigen Frieden (Felix Meiner 1992) 80 [A 367]; 邦訳「永遠平和のために」遠山義孝訳『カント全集14 歴史哲学論集』(岩波書店、2000)287頁。
*9 Grimm (n 2) 367−70.
*10 ハート(n 3)第X章。
*11 Başak Cali, ‘International Judicial Review’ in Lang and Wiener (eds) (n 1) 410 ff.; MJ Peterson, ‘Legislatures’ in Lang and Wiener (eds) (n 1) 424 ff.
*12 Peter Niesen, ‘Constituent Power in Global Constitutionalism’ in Lang and Wiener (eds) (n 1) 318 ff.
*13 長谷部(n 6)第1章; Yasuo Hasebe, Towards a Normal Constitutional State: The Trajectory of Japanese Constitutionalism (Waseda University Press 2021) Chapter 2. 筆者のこうした議論は最近、賛同者を見出しつつあるようである(see Sergio Verdugo, ‘Is It Time to Abandon the Theory of Constituent Power?’ (2023) 21 International Journal of Constitutional Law 14)。
*14 具体的確定については、トマス・アクィナス『精選神学大全2 法論』稲垣良典訳(岩波書店、2024)[第95問題第2項回答]参照。See also John Finnis, Natural Law and Natural Rights (2nd ed, Oxford University Press 2011) 284−89.
*15 逆説的ながら、憲法制定権力の観念にさしたる意義がないことは、世界人民による憲法制定行為がなくとも、グローバル立憲主義は成立し得ることをも意味している(Ulrich Preuss, ‘Disconnecting Constitutions from Statehood: Is Global Constitutionalism a Viable Concept?’ in Petra Dobner and Martin Loughlin (eds), The Twilight of Constitutionalism? (Oxford University Press 2010) 43)。ただし、その成立を保証するものではない。
*16 この点については、長谷部恭男「裁判官の良心について」判例時報2520号(2022年8月1日号)参照。
*17 ヨーロッパやアメリカ等、地域的取決めを根拠とする人権裁判所はこの点で例外をなす(Cali (n 11) 414)。
*18 Thomas Hobbes, Leviathan (Richard Tuck ed, Cambridge University Press 1996) 117 [17.2].
*19 Grimm (n 2) 371−75.
*20 Edoardo Celeste, Digital Constitutionalism: The Role of Internet Bills of Rights (Routledge 2023) 82.
*21 インターネットへのアクセスは、民主的政治過程への参加および表現の自由の行使のための必要不可欠の権利だとするフランス憲法院決定(2009-580 DC du 10 juin 2009)、および現代においてもっとも重要なコミュニケーションの場がサイバー空間であり、とりわけSNSであることを指摘して、性犯罪者によるSNSの利用を禁ずる州法を違憲としたPackingham v. North Carolina, 581 U.S. __, 137 S. Ct. 1730 (2017) 参照。もっとも、私企業の管理・運営するSNSがただちにパブリック・フォーラムとみなされるわけではない(Mary Anne Franks, ‘The Free Speech Industry’ in Lee Bollinger & Geoffrey Stone (eds), Social Media, Freedom of Speech and the Future of Our Democracy (Oxford UP 2022) 78)。
*22 たとえば、長谷部恭男『憲法の階梯』(有斐閣、2021)178−83頁参照。
*23 Celeste (n 20) 28.
*24 Ibidem 44−46, 52 and 102−05.
*25 私的団体や個々の研究者によって数多のインターネット権利憲章(Internet Bills of Rights)が提唱されているが(ibidem 102−05)、これらは内容もバラバラでインターネットの定義についてさえコンセンサスがなく、しかも法的拘束力が欠けている。だからこそ、状況に応じた可変性・可塑性に優れているとも言えるが(ibidem 118)。デジタル化社会の急速な変化を考えれば、少なくともこうした権利憲章を硬性化することには、慎重であるべきであろう。デジタル立憲主義に必要なのは、何より機動性である。
*26 Ibidem 47.
*27 ニコラス・バーバーが指摘するように、立憲主義が道徳的に魅惑的(morally attractive)と言い得るのは、国家を持つことが道徳的に魅惑的と言い得る場合だけである(NW Barber, The Principles of Constitutionalism (Oxford University Press 2018) 10)。もっとも、バーバーのように立憲主義の内容を国家がその役割を実効的に果たすための原則に限定して、たとえば基本権保障の原則を切り捨ててしまうのは、古典的な立憲主義の観念と乖離しすぎている。彼は現代の中国も立憲主義を具現する国家として捉えているようである(ibidem 17−18, 77)。
*28 Peterson (n 11) 433.
*29 地球全体を覆う統一的な機能的システムとしての法がすでに確立しているとのごく楽観的な主張として、Gunther Teubner, ‘Fragmented Foundations: Social Constitutionalism beyond the Nation State’ in Petra Dobner and Martin Loughlin (eds), The Twilight of Constitutionalism? (Oxford University Press 2010) 331がある。

 
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第34回 例外事態について決定する者
第35回 フーゴー・グロティウスの正戦論
第36回 刑法230条の2の事実と真実
第37回 価値なき世界と価値に満ちた世界
第38回 ソクラテスの問答法について
第39回 アラステア・マッキンタイアの理念と実践
第40回 エウチュプロン──敬虔について
 
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本書のあとがきはこちらからお読みいただけます。→《あとがき》
 
連載書籍化第1弾『神と自然と憲法と』のたちよみはこちら。→《あとがき》
 

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