憲法学の散歩道
第43回 内的か外的か、そしてそれは問題なのか

About the Author: 長谷部恭男

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第8版』(新世社、2022年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)、『法とは何か 新装版』(河出書房新社、2024年)ほか、共著編著多数。
Published On: 2025/2/4By

 
 
 憲法学、もう少し広くとって法律学の世界では、内的か外的かが、いろいろな局面で問われる*1。H.L.A.ハートは、規範一般について、内的視点と外的視点とを区別した*2
 
 規範に則した行動には、内的側面と外的側面とがある。
 
 毎週末に、新宿のデパートに出かける習慣のある人がいるとしよう。彼女の行動には一定の規則性──毎週末に新宿のデパートに出かけるという規則性──がある。しかし、ある週末、別の用事があって新宿のデパートに出かけなかったとしても、誰もそれを咎め立てはしないであろうし、彼女自身も、それを後悔することはないであろうか。
 
 他方、彼女が前方の信号が赤であるにもかかわらず横断歩道を渡ったとすると、彼女はそんなことはすべきではなかったと批判する人が出てくるであろうし、彼女自身も、うっかりしていたと反省するのではなかろうか(道路交通法など自分とは関係ないという人もいるかも知れないが)。
 
 赤信号では横断歩道を渡らないという彼女の行動(不作為)には、たいていはそう行動するという外的な規則性があるだけではなく、その規則を行動に対する評価規準とみなす内的側面が伴っている。これに対して、毎週末に新宿のデパートに出かけるという行動にあるのは、外的側面だけである。
 
 ハートがここで行っているのは、社会学的な分析である。法律を典型とする規範には、内的側面と外的側面とがある。単なる習慣であれば、外的側面だけがあって、内的側面はない。内的側面に着目しない限り、規範と習慣とを区別することはできない。
 
 ハートは、内的側面から行動を評価すべきだと主張しているわけではないし、特定の規範が行動の評価規準として適切だと主張しているわけでもない。人は普通、規範に関しては、それにもとづいて行動を評価するものだ、それが通常の人々の行動のあり方だと指摘しているだけである。
 
 内的側面からの行動の評価にあたって人々が行っている判断が正しいか否かは、人が普通、規範に則して行動を評価するものかどうかとは別の問題である。正しい(ことがあり得る)か否かについて、ハートは何も言っていない。権威という概念を軸としてこの問題を分析したのは、ハートの弟子であるジョゼフ・ラズである。ラズの議論については、ここでは触れない*3
 

 
 法律論についても、内的か外的かが問題とされることがある。
 
 デニス・パターソンは、法律学において何が正しいかは、それが法律家の実践する類型的な議論によって支えられているか否かによって決まると言う*4。そうした意味で、法学の世界における真理は、法的実践に内在して(internal)いる。「正しい」とされる法的議論は、法律家の実践する議論の様式(modality)に則したものでなければならない。そうした議論は内的であり、そうでない議論は外的である。内的な法的議論は「正しく」、外的な議論はそうではない。
 
 パターソンが引き合いに出すのは、フィリップ・バビットが、アメリカの憲法学の世界において用いられているとする6種類の議論の様式である*5。①憲法条項の原意に依拠する議論、②憲法の条文に用いられた文言の意味に依拠する議論、③判例法理に依拠する議論、④対立する利益の均衡に依拠する議論、⑤憲法全体の構造に依拠する議論、そして⑥アメリカの政治体制に反映されたエートスに依拠する議論である。
 
 いずれかの類型の議論の様式に沿ったものであれば「正しい」議論とされ、そうでなければ「誤った」議論とされるというのが、パターソンが言いたいことである。
 
 パターソンの主張をどのように受け取るべきであろうか。いずれの社会でも、法律家が通常用いる議論の類型はある。アメリカの裁判官には、憲法制定者の原意にこだわる者が少なからずいるが、日本でそうした裁判官は稀である。利益衡量が幅を効かせる国もあれば、それは裁判所によるアドホックな立法にほかならないと毛嫌いされる国もある。
 
 バビットが行っているのは社会学的分析である。アメリカ憲法の世界では、彼の整理するような6種の議論の様式が、裁判官をはじめとする法律家によって用いられてきた。こうした議論の様式が結論の実質的な正しさを保証するかとなると、これは別問題である。バビット自身、これらの様式が結論を正当化し得ると考えているか疑わしい*6
 
 パターソンの言っていることも、人々が本心から「正しい」とか「誤っている」とか判断するときの判断の仕方が、バビットの分類したいずれかの議論の様式に依存しているという話ではない。
 
 人がある結論を「正しい」と考えるとき、彼女は、法律家が実践している議論の様式に沿って導かれるからそれが「正しい」と判断するわけではなく、「正しい」か否かの規準は議論の様式とは独立に存在していて、その規準に照らしたとき「正しい」とされる結論が、議論の様式によって導かれる結論とも一致すると考えるものであろう。憲法制定者の意思が、あるいは先例が、いつも必ず正しい結論を導くと真面目に考えている人がいるとすると、それはあまりにも硬直的で良識に反する態度だと考えざるを得ない。
 
 しかし、パターソンは、そんな正否の規準が法律家の実践する議論の様式と独立に存在するとは考えていないようである。法律家が通常、実践する議論の様式によって導かれるのであればその結論は「正しい」が、そうでなければ「誤って」いることになるというだけである。そういう意味で、「正しい」か否かの判断は、法律家の実践に内在している。法的議論は、法律家の言説の世界で自己完結している。法律家が言ったり書いたりしない議論は、法的議論の適否とは無関係である*7
 
 パターソンが使う「正しい」とか「誤っている」という表現は、パターソン自身が「正しい」とか「誤っている」という判断にコミットしていることを示していない。法律家が通常実践する議論の様式は、「正しい」とか「誤っている」という評価の規準として働く。したがって、それはハートの言う意味での内的側面を帯びている。しかし、パターソン自身も、またこうした議論の様式を実践する法律家も、彼らが主張・立証しようとする結論が「正しい」とか「誤っている」という判断にコミットしているとは限らない。それは「超然とした detached」立場からの議論である*8。だからと言って、パターソンの分析が外的な側面の指摘にとどまるわけではないが。
 

 
 パターソンの分析からすると、たとえば、芦部信喜教授が日本に導入した当初の憲法訴訟論は外的な議論である。それまで日本の法律家は、憲法判断回避の準則についても違憲審査規準論についても、確たる知識がなく、そうした議論を実践してはいなかった。
 
 そうすると、憲法訴訟論は、少なくとも当初においては、「誤った」結論を導く外的な議論だったのであろうか。憲法訴訟論が多くの大学の法学部で教えられるようになり、次第に法律家の間で一種の常識となるにつれ、「正しい」結論を導く内的な議論へと変容したのだろうか。
 
 社会学的分析としては、そうした言い方も意味をなすように思われるが、相当に違和感のある分析である。
 
 憲法訴訟論が多くの法律家に受け入れられたのは、日本の違憲審査制度が付随的違憲審査制度であることから帰結する自然なコロラリーだと考えられたからであろう。「この法律は違憲だ」とか「合憲だ」という表面的な議論の背後に、違憲審査制度を支える深層の構造があり、その構造を反映しているのが、憲法判断回避の準則であり、違憲審査規準論であるというのが、芦部教授の主張である。そういう意味では、それは内的な議論として提唱されている。
 
 憲法訴訟論が、実際に日本の違憲審査制の構造を反映した議論なのであれば、それは正しい議論である。日本の最高裁が必ずしも違憲審査基準論に忠実でないからと言って、芦部教授の議論が誤った議論になるわけではない。正しいのは芦部教授であって、間違っているのは最高裁かも知れないのだから。
 

 
 パターソンの考え方からすると、ロースクールの入学者選抜に際して少数人種を優遇する積極的差別是正措置に関するロナルド・ドゥオーキンの議論は、外的な議論の典型である。少数者を冷遇する措置は、少数者への差別感情に由来する外的選好(external preference)を隠された根拠としている蓋然性が高いが、少数者を優遇する措置についてそうした事情は当てはまらないとドゥオーキンは言う*9。しかし、こうした功利計算の入力要素に関する込み入った議論は、法廷で法律家が展開するものでも裁判官が判決で使うものでもない。
 
 また、商法や不法行為法の効率性に関するリチャード・ポズナーの分析も*10、パターソンの言う外的な議論の典型であろう。完全情報で、かつ、取引費用ゼロの理想的な市場での取引の帰結を真似ることこそが裁判官がなすべきことだと言われて、なるほどと納得する裁判官は──ゼロとは言えないまでも──さほど多くはないであろう。
 
 しかし、法律家が法廷で、あるいは判決文でそのまま使わない議論だとしても、ただちに法律論として不適切だということになるだろうか。それはあまりにもナイーヴな態度のように思われる。アメリカのリアリズム法学を代表するカール・ルウェリンが夙に述べたように、法律家は自分の考えていることをそのまま率直に弁論や判決文で表現するとは限らないし、そもそも自分のやっていることが何かを正確に意識し、理解しているとも限らない。

裁判官が何を言っているかを知ることは、われわれの仕事の取っ掛かりにすぎない。まずは彼らが言っていることと、彼らがやっていることとを比べて、彼らの言っていることが彼らのやっていることと同じかどうか見極める必要がある。裁判官が自分たちのやり方を理解しているかどうかは怪しいものだし、それを理解しているとしても、それを正確に表現しているとは限らない*11

 判決文を読むことだけで、裁判官が実際にやっていることが何かを理解できるという考え方は子どもじみている。それが、リアリズム法学がわれわれに教えてくれたこと(の一部)である。
 
 日本でもロースクール教育が開始されて以降、ひたすら判決文を読むことの意義が強調される傾向がある。しかし、そうした教育方法の限界にも留意する必要がある。判決文は、裁判官の考えていることを率直に示しているとは限らないし、そもそも裁判官が自分のしていることを正確に理解しているとも限らない。
 
 本当に必要なのは、判決文に示されていることをそのまま理解したり覚えたりすることではない(そんなことのためにわざわざ高い学費を払って、ロースクールで勉強する必要があるだろうか)。判決文の背後に隠されている深層の構造こそを分析する必要がある。ドゥオーキンやポズナーがしていることも、それである*12。彼らの分析が、判決文の背後にある深層の構造を的確に説明しているのであれば、それは正しい分析である。
 
 彼らの分析に同意できないのであれば、なぜ彼らの分析が深層の構造を的確に説明していないかを指摘すべきである。彼らの分析が、法律家の通常の言説と異なると言い募るだけでは、批判にはならない。それはリアリズム法学以前の、判決文を読み込みさえすれば正しい法的結論に到達できるとする形式主義(formalism)への退行である*13
 
 しかも、彼らの分析が「外的」だと形容することは、事情にうとい読者に対して、彼らの議論が法律学と無関係であるとの誤解を与えるおそれさえある。日本国憲法の言う「全国民の代表」が「政治的な意味」の代表であって法的な意味はないとの誤った議論が日本の憲法学に与えた負の影響が思い起こされる*14
 

 
 ところで筆者の議論も「外的」だと形容されることがある。ベースライン論がその一つである*15。ベースラインという言葉は、最高裁の判決にはあらわれないし、法廷での弁論で通常使われることもないであろう。
 
 ただ、森林法違憲判決が*16、民法256条1項の定める共有物の分割請求権が特別法である森林法によって制約されれば、それは憲法29条の保障する財産権の「制限」に該当し、公共の福祉を根拠とする正当化が必要となると述べるとき、最高裁は、一定のベースラインを想定している。つまり、共有物については分割請求権が保障されているというベースラインである*17
 
 具体の法制度がこのベースラインから乖離しているならば、その乖離は公共の利益を根拠として合理性と必要性が論証される必要がある。論証に失敗すれば、乖離は正当化されないわけであるから、ベースラインに復帰しなければならない。つまり、分割請求権の行使が許容されなければならない。
 
 同じことは、郵便法違憲判決についても言える*18。最高裁は、運送事業において、事業者の故意または重過失によって生じた損害については、事業者が全額賠償するのがベースラインであるとする。このベースラインから乖離した法制度は、その合理性と必要性とを論証する必要がある。その論証がない以上は、ベースラインへの復帰が求められる。
 
 郵便法違憲判決が、当時の郵便法が書留郵便について、郵便事業従事者の故意または重過失による不法行為についてまで損害賠償責任を免除し、または制限している「部分」は、違憲無効であるとしたのはそのためである。ここで言う「部分」とは、郵便法の文言の一部という意味ではない。当時の郵便法は、損害賠償を請求できる場合を特定のごく限られた場合に限定していた。こうした規定の文言のどこをどう削除しても、故意または重過失による損害を全額賠償するという文言に変化させることはできない。
 
 最高裁が用いたのは「意味の一部が違憲無効」になるという特殊な判断手法である。つまり、最高裁は、故意または重過失による損害は全額賠償するというベースラインに戻れと言っている。ベースラインという概念を利用することで、「意味の一部の違憲無効」という手法の条件と効果を明らかにすることができる*19
 
 女性について前婚の解消後6箇月の再婚禁止期間を設けていた当時の民法の規定が無効とされた判決でも*20、最高裁は、父性の推定の重複を避けるという立法目的からすれば、100日を超える再婚禁止期間は婚姻の自由の過剰な規制であって、その「部分」は違憲無効であるとした。ここでも、100日を超えるか否かで再婚禁止期間が正当化できるか否かが決まるというベースラインが想定されている。
 
 この判決でも「意味の一部の違憲無効」という判断手法が用いられている。違憲とされた規定は、6箇月の再婚禁止期間を設けていたが、違憲とされた結果、この期間は100日に短縮された。違憲の瑕疵のある「6箇月」という文言を削除しても「100日」になることはない。「女性は前婚の解消後、6箇月は再婚することができない」という規定から「6箇月」という文言を削除すると、「女性は前婚の解消後、再婚することができない」という規定になってしまって、事態はますます悪化する。ベースラインという概念を利用することで、はじめて最高裁の真意が判明する。
 
 ベースラインという概念は、最高裁によって判決等で明示的に用いられることはないが、それを利用することで、最高裁判決の論理構造を明らかにすることができる。言葉自体を使ってはいないものの、それに相応する論理が最高裁によって想定されていることは明白である*21
 
 ベースラインという概念に納得がいかないという人は、最高裁判決の隠れた論理の構造をベースラインという概念よりも明快に説明する別の概念があると主張すべきであろう。筆者の知る限り、そうした概念の候補はまだ現れていない。
 

 
 判決文の文面とその深層の論理構造とが異なるのはなぜだろうか。その一つの背景は、裁判所が行う戦略的な言語使用にある*22。使われている表現が表立っては伝達していない意味内容が、その表現の暗黙の含意として伝達されることがある。そうした伝達が可能であるためには、伝達された側に、含意を汲み取る能力がなければならないが。そうした言語使用の一例として、最高裁が経済活動規定の違憲審査にあたって用いる「積極目的」「消極目的」という分類法がある。
 
 最高裁は、個人や企業の自由な経済活動が弊害をもたらすとき、それを是正して社会公共の安全と秩序を維持するために「消極的」に経済活動を規制することもあるし、また弱者保護等の観点からの「積極的」な社会経済活動の一環として経済活動を規制することもあると言う。そして前者については、より制限的でない他の選び得る手段のないことを政府に求める中間審査を行い、後者については、当該規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限って違憲無効とする、きわめて緩やかな審査のみを行う*23
 
 この判例法理は、一見したところ不思議である。社会公共の安全と秩序の維持という重要な公益目的の実現のための規制措置であれば、中間審査を行ってときには違憲と判断する(現に薬事法事件では、薬局および医薬品の一般販売業の距離制限が違憲とされた)。他方、弱者保護を名目としているとはいえ、特定の利益集団を保護するための規制であれば、ほとんど野放しである。なぜだろうか。
 
 一つの説明は、最高裁が政治的多元主義(pluralism)にもとづく民主的政治過程観をとっているというものである。この見方からすると、民主政治とは多様な利益集団がそれぞれの利益や目的を実現するために、政治過程に働きかけるプロセスにほかならない。ある集団は政治資金を提供し、別の集団は選挙での投票や運動の支援を約束する。多様な利害が競合し、政治の場で調整された結果、実現された利益をわれわれは「公益」と呼んでいる。それが本当に社会全体の利益と結び付くか否とは関わりなく*24
 
 こうした見方からしたとき、経済活動規制のうち、より多く実現するのは「消極目的」「積極目的」のいずれの規制かというと、おそらく後者であろう。消極目的規制は重要な社会公共の利益を実現しようとするもので、その効果は社会全体に広く薄く及ぶ。個々の国民の享受する利益はわずかである。誰もすすんでこうした立法の実現に努力しようとはしないであろう。むしろ、社会公共のために身を捨てて努力するありがたい(間の抜けた)人々の努力にただ乗り(free ride)するのが人々の実利にかなう合理的な態度である。簡単には実現しそうもない規制である。
 
 他方、積極目的の規制措置は、限られた集団のメンバーのみがその利益を享受する。立法に向けて努力しようとするインセンティヴも生まれるであろうし、メンバー同士で立法へ向けた努力の有無を相互に監視することも容易である。つまり、立法過程の産出する経済活動規制の多くは積極目的規制であることが予想される。
 
 違憲審査機関は、どのような立場をとるべきだろうか。もし国会の産出した規制が積極目的を標榜する規制であれば、それは民主的立法過程による通常の活動の帰結であって、裁判所が目くじらを立てるほどのことではない。綿密に合理性と必要性を審査する必要もないであろう。
 
 他方で、国会が消極目的の経済活動規制を立法したというのであれば、身構える必要がある。そう簡単に生まれるはずのない、社会全体の利益にかなう立法を行ったというのであれば、実際にそうなのか、標榜されている公益と採用されている規制手段とが国会の言うように適合しているのかを慎重に見極める必要がありそうである。
 
 もし規制措置の合理性と必要性とが論証されないのであれば、実は特定の利益集団──たとえば既存の薬局や医薬品販売業者──の利益を保護しようとする積極目的規制が消極目的規制を隠れ蓑にして実現された可能性が高い。その場合、裁判所は規制を作り直すよう国会に法律を差し戻すべきである。多元的なプロセスにおける利害の競合と調整とは、透明かつ公正なプロセスで行われなければならない。詐欺やごまかしをするべきではない*25
 
 裏返して言えば、最高裁による戦略的な違憲審査権の行使を通じて、民主的政治過程がより透明で公正なプロセスとなるよう、国会議員や利益集団の行動がコントロールされることになる。しかし、そのことは、判決文を表面的に受け取っただけでは理解できない。深層に潜む構造を読み解く必要がある。
 

 
 以上のような政治的多元主義を背景とした分析は、判決の文面にあらわれてはいない。隠された論理の構造が何かに関する、一つの仮説である。
 
 別の仮説の候補もある。ドイツの憲法裁判所が下した薬局判決*26の示す段階理論(Stufenlehre)が、最高裁の判例の下敷きになっているのではないかと言われることもある。
 
 段階理論は、職業活動規制において採用される規制措置に応じて、立法裁量に違いが生ずるとする法理である*27。第一に、いったん開始された職業活動の態様の規制・・・・・については、広範な立法裁量が認められる。他方で、職業の選択自体を規制する際には、立法裁量は狭まる。職業の選択について許可制をとる場合が、選択自体の規制(参入規制)の典型である。
 
 しかし、選択自体を規制する場合でも、いわゆる主観的条件による規制、つまり特定の教育課程を経ているとか、特定の試験に合格して資格を得ることを条件とする規制については、広めの立法裁量が認められる。その職業に就こうとする人であれば、どのような教育を受けるべきか、どの試験に合格すべきかは、あらかじめ分かっているはずである。逆に言うと、試験に合格して資格を得た人だけが従事できるはずの職業を、他の人々にも開放してしまうと、折角努力して資格を得た人々の人生設計を後から台無しにすることになる。そう簡単にしてよいことではない。
 
 これに対して客観的条件による規制、たとえば既存の事業者から一定の距離を置かないと新たに出店が許可されない等の距離制限は、本人の努力によってはいかんともなし得ない条件による規制であるから、きわめて重要な公益にとっての、高度の蓋然性のある証明可能な危険の防止のために必要である場合にのみ許容される。ドイツの薬局判決では、努力の末に薬剤師の資格を得た人が距離制限のために薬局を開設する許可を得られないとすることは、憲法違反だとされた。
 

 
 段階理論自体には、たしかに聴くべきところがある*28。また、薬事法違憲判決の文面には、ドイツの薬局判決を意識しているのではないかと思われる点がいくつかある。問題は、段階理論が日本の一連の判例法理の隠された構造を説明していると言えるかどうかである。一見したところ、そうは言えそうにない。
 
 小売市場判決でも薬事法違憲判決でも、距離制限にもとづく許可制が問題とされ、前者はきわめて緩やかな違憲審査規準によって合憲とされ、後者は中間審査によって違憲とされた。いずれも客観的条件にもとづく参入規制である。両者を分けているのは、積極目的か消極目的かの違いである。
 
 たばこ小売販売業の許可制も距離制限にもとづくものであるが、これも広い立法裁量が認められ、合憲とされている*29。零細なたばこ小売商を保護することが立法目的であることが、判決の結論を左右している。
 
 もう一つ注目すべき点がある。ドイツ薬局判決は、次のような観察を行っている。
 
 「問題となった距離制限は、既存の薬局をさらなる競争から保護するために設けられたもののように見えるが、こうした動機が、職業選択の自由に対する制約を正当化することはあり得ない」*30。立法府は、公衆の健康を保護するため、医薬品の規律ある(geordnet)供給を意図しているのではあろうが、同時に「薬局業者たちの、職業上の利益と伝統的な薬局方(Apotheke)という制度を固守しようとする政治的意図との関連が、立法の行間に垣間見える」*31
 
 つまり、薬局判決におけるドイツ憲法裁判所の政治過程観は、前述した政治的多元主義の政治過程観と変わりがない。違憲審査を通じて達成しようとすることにも、さしたる違いはなさそうである。具体的事案に即して見たとき、その点にこそ、薬局判決と薬事法違憲判決の類似点があるように思われる。表層の言葉遣いや議論の様式にあるわけではない。
 
 結局のところ、日本の最高裁の積極目的—消極目的二分論と、ドイツの段階理論との差異は、見た目ほど大きなものではない。いずれの国の裁判官たちも、政治家の実際の動機が通常何であるか、承知している。ただ日本の最高裁は、ドイツの憲法裁判所とは違って、利益集団の意図や行動に関する推測をあからさまに示唆してはいない。
 

 
 結論は簡単である。ある議論が、裁判官をはじめとする法律家が用いてきた議論の様式のいずれかに分類できるか否かという点で、外的か内的かは、その議論が適切な議論かという問題とは関係がない。そうしたことを気にするよりも、本当の問題に取り掛かるべきであろう。
 
 重要なのは、表層の言葉遣いや議論の様式ではなく、深層の構造である。
 
 


*1 本稿の作成にあたっては、早稲田大学大学院博士課程学生の松本有平氏から多くの有益な示唆を得た。ここに謝意を表する。
*2 H.L.A.ハート『法の概念〔第3版〕』長谷部恭男訳(ちくま学芸文庫、2014)152−55頁。
*3 ハートの意図については、ハート(n 2)368頁参照。権威に関するラズの分析については、さしあたり、長谷部恭男『法とは何か〔新装版〕』(河出書房新社、2024)第1章「何のための国家か」参照。
*4 Dennis Patterson, Law and Truth (Oxford University Press 1996) 147, 150.
*5 Philip Bobbitt, Constitutional Fate: Theory of the Constitution (Oxford University Press 1982).
*6 この点については、長谷部恭男『憲法の理性〔増補新装版〕』(東京大学出版会、2016)213−14頁参照。See also Brian Leiter, Naturalizing Jurisprudence: Essays on American Legal Realism and Naturalism in Legal Philosophy (Oxford University Press 2007) 139.
*7 伝統的な様式のみに依存する自己完結的な法的議論の世界という観念については、長谷部(n 6)220−21頁で批判的検討を加えたことがある。
*8 「かかり合った committed」言明と「超然とした detached」言明との区別については、さしあたり長谷部恭男『権力への懐疑──憲法学のメタ理論』(日本評論社、1991)153−54頁参照。
*9 Ronald Dworkin, Taking Rights Seriously (Harvard University Press 1978) chapter 9.
*10 Richard Posner, Economic Analysis of Law (5th edn, Aspen 1998).
*11 Karl Llewellyn, The Bramble Bush: On Law and Its Study (Oceana 1960) 5. ハートは、裁判官が判決等で用いるレトリックと、彼らが深い省察の末に述べる言明との違いを指摘した上で、真剣に受け取るべきなのは、後者の方だと述べる(ハート(n 2)416頁)。
*12 Ronald Dworkin, Law’s Empire (Harvard University Press 1986) 265. See also Leiter (n 6) 140.
*13 形式主義は、しばしばハーバード・ロースクールのディーンであったクリストファー・コロンブス・ラングデルの名と結び付けて語られる。法律学および法律教育の任務は、判例の調査を通じてある分野の基本的な法原理(elementary principles)を特定し、その上で、それらの法原理から論理的に導出される下位の法原理を確定して、各分野の法を調和のとれた体系として記述することにあるとする考え方である。See Anthony T Kronman, The Lost Lawyer (Harvard University Press 1993) 171.
*14 こうした記述の起源となった宮沢俊義の議論の問題点については、長谷部恭男『憲法の円環』(岩波書店、2016)第6章「国民代表の概念について」参照。
*15 ベースライン論は筆者の独創ではない。キャス・サンスティン、ルイス・サイドマン、マーク・タシュネット等、多くの論者がこの概念を用いてアメリカの判例法理を分析している。See, for example, Louis Michael Seidman and Mark V Tushnet, Remnants of Belief: Contemporary Constitutional Issues (Oxford University Press 1996).
*16 最大判昭和62・4・22民集41巻3号408頁。
*17 なぜそうしたベースラインを想定すべきかに関する最高裁の説明は、アリストテレスやトマス・アクィナスが行った説明とほぼ同一である。この点については、長谷部恭男『神と自然と憲法と──憲法学の散歩道』(勁草書房、2021)16章「消極的共有と私的所有の間」参照。近代的所有制度成立前でも妥当していた説明である。
*18 最大判平成14・9・11民集56巻7号1439頁。
*19 長谷部(n 6)134−36頁参照。
*20 最大判平成27・12・16民集69巻8号2427頁。
*21 ベースライン論は、ハートの言う外的側面に着目した分析でもない。ベースラインから乖離した法制度は正当化を求められ、それに失敗すれば違憲と判断される。つまり、ベースラインは評価の規準として機能する。制度参加者の内的観点からどのように見えるかの分析である。もちろん、だからと言って誰もが判例の想定するベースラインに同意するというわけでもないし、判例の想定するベースラインに客観的な正当性が必ずあるというわけでもない。
*22 Andrei Marmor, ‘On Some Pragmatic Aspects of Strategic Speech’ in Andrei Marmor and Scott Soams (eds), Philosophical Foundations of Language in the Law (Oxford University Press 2011) in particular 93.
*23 最大判昭和47・11・22刑集26巻9号586頁〔小売市場判決〕および最大判昭和50・4・30民集29巻4号572頁〔薬事法違憲判決〕。後者は、薬局距離制限事件と呼ばれることもあるが、原告が求めたのは医薬品の一般販売業の許可であって薬局の開設許可ではない。
*24 これは、宮沢俊義がとっていた民主主義観でもある。彼は、1961年に公表された論稿で次のように言う。「今日の議会の存在理由は、それがgovernment by discussionであることにあるのではない。それは、議会がそこに代弁される社会のもろもろの利益相互間の現実的な妥協の場であることにある」(宮沢俊義「議会制の生理と病理」同『憲法と政治制度』(岩波書店、1968)39頁)。
*25 長谷部恭男『憲法〔第8版〕』(新世社、2022)256−59頁[8.2.3]参照。See also Yasuo Hasebe, Towards a Normal Constitutional State: The Trajectory of Japanese Constitutionalism (Waseda University Press 2021) 91−92. 政府の表向きの立法理由と隠された動機との乖離が審査規準の厳格化をもたらすことは、表現活動の内容にもとづく規制や疑わしい分類項目による差別とも共通する司法審査の構造である。
*26 7 BVerfGE 377 (1958).
*27 7 BVerfGE at 405−07.
*28 最判平成12・2・8刑集54巻2号1頁〔司法書士法判決〕は段階理論、とくに参入規制の主観的条件と客観的条件との違いによって説明することができる。
*29 最判平成5・6・25判タ831号76頁。あん摩マッサージ師指圧師養成機関における視覚障害者以外の養成者数を制限することを合憲とする判決(最判令和4・2・7民集76巻2号101頁)についても、同様に積極目的規制であることから説明することができる。資格取得のために一定の養成機関での教育課程を経なければならないこと自体は主観的条件であるが、視覚障害者以外の養成者数が限定されることは、客観的条件である。
*30 7 BVerfGE at 408.
*31 7 BVerfGE at 415.

 
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第39回 アラステア・マッキンタイアの理念と実践
第40回 エウチュプロン──敬虔について
第41回 グローバル立憲主義の可能性
第42回 二つの根本規範──ケルゼンとフッサール
 
《全バックナンバーリスト》はこちら⇒【憲法学の散歩道】
 
 
憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。山を熟知したきこり同様、憲法学者だからこそ発見できる憲法学の新しい景色へ。
 
2023年5月1日発売
『歴史と理性と憲法と 憲法学の散歩道2』
長谷部恭男 著

3,300円(税込) 四六判 232ページ
ISBN 978-4-326-45128-9

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b624223.html
 
【内容紹介】 勁草書房編集部webサイトでの好評連載エッセイ「憲法学の散歩道」の書籍化第2弾。書下ろし2篇も収録。強烈な世界像、人間像を喚起するボシュエ、ロック、ヘーゲル、ヒューム、トクヴィル、ニーチェ、ヴェイユ、ネイミアらを取り上げ、その思想の深淵をたどり、射程を測定する。さまざまな論者の思想を入り口に憲法学の奥深さへと誘う特異な書。
 
本書のあとがきはこちらからお読みいただけます。→《あとがき》
 
 
連載書籍化第1弾『神と自然と憲法と』のたちよみはこちら。→《あとがき》
 

About the Author: 長谷部恭男

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第8版』(新世社、2022年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)、『法とは何か 新装版』(河出書房新社、2024年)ほか、共著編著多数。
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