あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
ジェイソン・ブレナン 著
森村 進 監訳/太田寿明・福原明雄 訳
『リバタリアニズム入門 自由・市場・国家をめぐる105の問い』
→〈「「リバタリアニズム入門」日本語版への序文」(pdfファイルへのリンク)〉
→〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉
*サンプル画像はクリックで拡大します。「日本語版への序文」本文はサンプル画像の下に続いています。
「リバタリアニズム入門」日本語版への序文
本書は一〇年以上前に、リバタリアニズムについて理解したいと思ってはいるがそのスローガンやカリカチュアや極端な提唱者については懐疑的である読者のために書かれたリバタリアニズム入門書です。私の狙いは、あらゆる人をリバタリアンになるよう説得することではなく、リバタリアニズムとは何か、それを動機づけるものは何か、それを構成する内部の論争は何か、またなぜ合理的な人々がそれを魅力的だと考え続けるのかを説明することでした。私はリバタリアニズムが真剣な政治哲学である――道徳的深さと内的多様性を持ち、政治的権威や個人権や社会的協力に関するわれわれの考え方に重要な含意を有する政治哲学である――ということを示そうと望みました。
その点において当時から変わったことはほとんどありません。リバタリアン思想に活気を与える中心的な諸問題は今でも切実です。――国家が人々を強制することはいつ許容可能なのか? よき意図の名において行使されるときでも政治権力に課されるべき制限は何か? われわれは他の人々を賢明かつ正当に統治できるという自分たちの能力をどの程度確信すべきなのか? そして自由な社会は、深い意見の不一致があるにもかかわらず一緒に生活しなければならない人々をどのように監督すべきなのか?
これらの問題はますます喫緊のものになってきました。世界中で民主政治はますます両極化し、道徳化し、異論に対して不寛容になってきました。今や多くの市民が、彼らの選好する価値に従って社会を造りなおす国家の力に大きな信頼を置く一方で、彼らの信頼しない人々が政治権力を掌握するのではないかと恐れてもいます。人々はますます相互の説得よりも国家の暴力に頼ろうとしているのです。
リバタリアニズムはこれらの態度への懐疑から出発します。それが主張することはこうです。――人間というものは誤りやすく、バイアスを持ち、自らの道徳的判断をしばしば過信してしまうから、他の人々に対する広汎な権力を委ねることは誰についても慎重であるべきだ――彼らが高貴な目的のために行動していると主張するときでさえ、いやおそらくは特にそのときに。
もし私が今本書を書くとしたら、制度的謙譲(institutional humility)というテーマをさらに強調することでしょう。リバタリアニズムは利己性の賛美とか社会的責任の否定として誤解されたり、間違って特徴づけられたりすることがあります。しかし実際には、それは最善の形態においては、集権化された権力の道徳的危険に対する反応なのです。リバタリアニズムがわれわれに尊重するよう求めるのは、〈よき意図を持つ支配者はそれにもかかわらず大きな悪をなしうる。そして個人権の尊重こそがわれわれ自身の道徳的行き過ぎに対する安全装置として役に立ちうる〉という可能性です。リバタリアニズムは〈相互にコミュニティのよきメンバーであるということは、強制を用いずに協力して問題を解決する方法を見出すことを意味する〉という考えを尊重するように求めます。
リバタリアニズムが政治的右翼のポピュリストのナショナリズムや権威主義的運動と混同されることがある時代において、この点は特に重要です。リバタリアンは多くの論点について彼ら自身の中で意見を異にしますが、その伝統は、エスニック・ナショナリズムと法的差別と文化的画一性の国家権力による強制に反対するという点で長い間一致してきました。リバタリアニズムは諸個人を集団の単なる代表としては取り扱いませんし、ネーションやエスニシティや社会的なアイデンティティを基礎にして道徳的な価値を与えることもしません。リバタリアニズムの中核にあるのは、人々の平等な道徳的地位と、公正で一般的なルールの下での異なる見知らぬ人々の間の社会的協力へのコミットメントです。
日本の読者にとって、最初リバタリアニズムはあまりにもアメリカの政治的論争と結びついているか、あるいは疎遠に見えるかもしれません。しかしその関心事の多く――過剰な規制、労働・住宅市場への参入障壁、人口減少、イノベーションの停滞、巨大な官僚組織改革の困難、福祉国家が人口減を通じて実現不可能になる傾向――はアメリカに限られる問題ではありません。リバタリアニズムはこれらの問題に単純な解決を与えるものではありませんが、それらを考える独特の方法を提供することはします。それは、〈現行の制度はそれに服している人々のために本当に役立っているだろうか? もっと強制的でない代替案の方が個人の自由と社会の安定の両方を一層尊重するのではないか?〉と問うという方法です。
これと関係するリバタリアニズムの含意は、外部者へのオープンさに関係します。リバタリアンは典型的に、〈諸個人は集合的アイデンティティの担い手としてではなく個人として判断されるべきであって、平和的な人々はその出生地だけのゆえに強制的な規制を受けてはならない〉ということを強調します。この理由から、多くのリバタリアンが外国人嫌悪と排外的ナショナリズムに反対する最も首尾一貫した批判者たちの中に存在しました。リバタリアンは移民政策の厳密な内容については意見を異にしますが、この伝統全体は、平和に生活したい、社会に貢献したいと望む、意欲ある労働者や隣人や取引相手を排除するための国家権力行使について懐疑的です。
また次のことも注意するに値します。日本社会は集団主義的だという評判がありますが、それは「個人主義的」とみなされている多くの国々にはあまり存在しない形態の日常的リバタリアニズムを示しています。日本ではしばしば、社会秩序は恒常的な監視や法執行によってよりも、強いインフォーマルな規範や相互の期待や個人的責任に依存しています。一つの単純だが説得的な例は、子どもにまで拡大される信頼の程度です。日本の親は通常子どもが一人で公共交通機関を利用することを許しますが、これはアメリカ社会では危険だと、それどころか監督放棄だと、みなされるでしょう。このことは、人々が一般に他の人々が強制なしにも礼儀正しく行動すると期待している社会環境、また自由が実力よりも規範によって維持されている社会環境を反映しています。常にリバタリアニズムは、自由な社会は法律だけではなく、信頼と抑制という共有される実践に依存しているということを強調してきました――そしてこの点において、日本は反対例ではなく教訓的な実例となります。
最後に、読者が本書をそれが書かれた精神で読んでくださることを私は望んでいます。本書はイデオロギー的改宗への呼びかけではなく、真剣な探求への招待です。リバタリアニズムは完成したドクトリンではありませんし、批判を免れているわけでもありません。それは政治の道徳的限界に関する継続中の会話として理解するのが最善です――入念な異論や、経験的意識や、自らの見解を改訂しようという意欲から利益を受けるような会話として。私は森村進教授とその同僚に、本書を日本の読者に届けてもらったことについて、また勁草書房に、この出版を助けてもらったことについて、感謝します。私が希望するのは、この訳書がささやかな仕方ではあっても、自由と権威とわれわれが一緒に建設しようと望むべき種類の社会とに関する、多元主義的で思慮ある討論に貢献することです。
ジョージタウン大学
ジェイソン・ブレナン




