料理は、その人が生まれ、育ってきた文化や環境を物語るもの、人生の欠片ともいえます。世界各地で生きる人たちの姿、人生の欠片のレシピから多様なSaveur 香りが届きますように。【編集部】
――マッシュルームのスープ――
2016年、パリ19区のアパートの前の高架線の下は難民の人々のテントで埋め尽くされていた。
メトロから地上にあがれば、もう日常となったここに暮らす人々とのアイコンタクトや、おそらく排泄場が確保できないためのあの臭いにも慣れ、しかしこのままの状況ではどうにもならない緊張が漂っていた。
ある日の早朝、消防車から放たれる水の轟音で窓に飛びつくと、目の前でテントが水浸しになっているではないか。強制移動を決行するにこの方法を使うとは。叫ぶ声、罵声、鳴き声。
事が繰り広げられた果て、その日の午後には何事もなかったかのごとく、いつもの場所はアスファルトの地面が姿を現した。
初春を迎えた4月、路上生活者を目にすることが多くなる。家を失くさざるをえない人々が増える季節だ。フランスでは11月から3月初旬の間、つまり冬季期間は借家人が家賃滞納をしていても退去させることができない法律がある。冬の路上生活=凍死→基本的人権としての生命の保護という図式になるからだ。
最終電車後のプラットホームに寝床を作る人。風を避けるように隅にこごまる人。メトロでもこの期間は駅構内を開放している。しかし春になれば、行き場のない人々は路上に出るしかない。――強制排除後、テントでその日を生きしのいでいた人々は、ではどこに行ったのだろうか。
シャルルドゴール空港からパリに入る北の入り口、ラシャペル門の周辺には、そうやって隅へ隅へ、端へ端へ追いやられた人々が大勢いる。食わなければ死ぬ。ではどうやって食うのか。金で食べ物を買うに困る彼らにとって、飯を食う大切な機会は、様々な非営利団体が運営する炊き出しにある。
ある日友人が「今度の火曜日にラシャペル界隈の炊き出しのボランティアに行くのだけど、興味ある?」と誘ってくれた。パリ市内で目にする週一回の行列(16区、8区などの高級住宅街ではみたことがない)、あるいはクリスマス恒例の炊き出しの存在は知っていたが、毎日入れ替わり立ち替わり様々な団体がオーガナイズしていることをその時初めて知った。
フランス生活を始めた当初から、わたしが住んできた場所は低所得者あるいは移民が多い地域がほとんどで、その雰囲気には慣れてはいるものの、数年前にはなかった空気が今のラシャペル界隈に漂っている。
夕暮れ時の路上に溢れる男たちを掻き分けて、ボランティア団体がいる場所にたどり着くと、そこには1時間前からすでに夕食の配給を待っている人々がいた。初めて会うスタッフに手順を聞き準備が始まる。と同時に次から次へと参加者が一人一品を持参し集まる。
できるだけ温かいものを、という気配りのある人は自家用車で駆けつけ、大きな寸胴鍋にバスタオルを巻いて断熱したものをドンと机に置く。参加はしないがバゲットを両手一杯に抱え、ジョギング姿でものだけ置いて走り去っていくパリジェンヌ。安価ではあるがクッキーの箱を大量に置いていく者。それぞれがそれぞれの方法でこの場に必要な手筈をする。
スタンドを組み立て、前菜、スープ、メイン、果物、パン、お菓子の順で並べる。その横で今か今かと待つ人々。彼らはほぼ全員男性だ。配給がスタートすると、列を作っているにもかかわらず、我先にという殺気立った気配が絶えない。「もっとよそってくれ。」「にんじんはいれないでくれ。」「温めなおせないか。」
配る側はといえば、なるべく笑顔で応え、ユーモアで返す者もいれば、真顔で不満を言う者もいる。半分ほど配給が終わる頃には、列に並ぶ残りの人全員へ渡せるよう加減が必要となる。案の定具のなくなったメインのクスクスは、予備に炊いてあったごはんのみになる。皿を両手に差し伸べ虚しさを訴える目。どうすることもできないわたしたちの落胆。みな各々に紙の皿を片手に食べる姿。
無意識の中でわたしは、私たちが配るごはんを食べにくる人々の出自を想像していた。黒人であればどの国か。マグレブ、あるいはアジア系もいるだろう。明らかに難民ではなくフランス人である路上生活者もいるだろう。
……そんなことを想像する自分に後々ぞっとしたものだ。彼らの存在に興味があるがゆえの想像なのだが、そこには人を人種として見ている自分がいる。その人は人種ではなくその人でしかないのに。
食事中に声をかければ、私がそんな想像をしていたとはつゆ知らず、食べられたという安堵と満足感が手伝ってか、何かしらコミュニケーションが生まれる。ある人はブルンジからの難民だと話してくれた。彼は、次からこの団体のスタッフとして参加したいという。実際にスタッフの中には、国から低所得者団地へ入居する手配を受け、生活が安定し、団体のスタッフになった者もいる。
この団体を仕切るカトリーヌさんの新たな方針はこうだ。ボランティア各人が食べ物を持参しても量や質は安定しない。そこで、ファンファーレのグループを作り、演奏をするたびに団体の資金獲得のために観客に帽子を回す、というアイデアだ。
わたしもそのファンファーレの演奏に参加した。レパートリーは聴く人々に笑顔が生まれるよう、陽気でリズムのあるものを。ブラスセクションの音がハモる心地良さ、太鼓によって盛り上がる場。通行人からは微笑みをゲット! そして演奏が終わればカトリーヌさんが帽子を回して活動資金となるお金を入れてもらう。
演奏が終わり、三々五々参加者は片付けをして帰路に。「一緒に帰る?家に寄っていかない?」とカトリーヌさんに誘われた。わたしは一応プロの演奏家として活動しているからか、今後の演奏場所ややり方についての相談もあったのだろう。彼女の職業は物流の情報処理。昨今の移民・難民の時勢に反応すべく、この団体を立ち上げたのだという。
彼女の家に着けばとたんに空腹に襲われた。それを察してか、さっと作ってくれたスープを紹介しよう。非常に簡単に作れるが、出来合いのものとは格別に違う味わいは、二人だけのお疲れ様のスープとなった。
マッシュルーム 200g / 小麦粉 大さじ2 / オリーブオイル 大さじ2 / チキンブイヨン 500ml(あるいは固形スープの素であれば1個) / 豆乳(あるいは牛乳)500ml / 塩(固形スープの素を使う場合は加減すること) / 生クリーム 大さじ2 / コリアンダー 適量
【1】 マッシュルームの石突きの先、黒い部分を切り取り(石突き全部を取ってしまうのはもったいない)、4つないしは2つに切る。きのこは決して水で洗ってはいけない。
【2】 鍋にオリーブオイルを入れ中火でマッシュルームを炒める。
【3】 色が付いてきたら小麦粉を振り、混ぜる。
【4】 チキンブイヨンを注ぎ沸騰しはじめたら弱火にする。
【5】 約10分~15分ほど煮込みマッシュルームに火が通ったら、一旦火を止め、ハンドミキサーで撹拌する。
【6】豆乳を加え、細かく切ったコリアンダーと共に再び火にかける。泡が立つ寸前で火を止め再び撹拌。
【7】 コクを加えるために生クリームを加える。
【8】ボールに盛り、スプーン1杯の生クリームを加えてもいいし、砕いたアーモンドをクルトンの代わりにトッピングしてもよし。
ポイントはスープ作りの基本となる玉ねぎ、つなぎのためのジャガイモを使わないことだ。
野菜の皮むきも、細かく切る作業もいらない。これが簡単にできる要因。玉ねぎを使うとせっかくのマッシュルームの風味が消されてしまう。ジャガイモも同じ理由。その分つなぎ Lier に小麦粉あるいはコーンスターチを使うことで風味を確保するという按配。また豆乳を使う理由は、牛乳だとどうしても乳臭さが加わってしまうのを回避するためだ。しかしここはお好みでアレンジできる。
さて、わたしが参加したこの団体の名称だが実はここが大事。それは、「ジョレスの鍋 La gamelle de Jaurès」という。言わずもがなジョレスとはジャン・ジョレス Jean Jaurèsのこと。社会主義者、政治家であり、哲学者、ジャーナリストでもある。ナショナリズムが高まる中、帝国主義戦争に反対し、狂信的愛国主義者に暗殺された人物だ。
ジョレスは左派だけでなくドゴールやサルコジなど右派も含めた歴代フランス大統領をはじめ、政治家から作家、労働者、市民にいたるまで幅広い人々に人気、共和国の価値を体現する英雄的存在であり、国民国家の理想の指揮者像を語る上で重要な人物だ。
フランス社会主義政党の統一を実現し、1905年の政教分離法の成立にも一役買い、ドレフュス事件では人権の観点からドレフュスを擁護し、議員として労働者と連帯し、植民地主義を批判した。これ以外にも多くの業績が讃えられているだろう。また雄弁であった彼に、政治家たちが憧れないわけがない。
反復するフレーズ、力強い身振り手振り、引用を頭に叩き込み読書を怠らない努力。必然的にカリスマ性を備えた彼の生はしかし、暗殺という形で終わってしまう。
ジョレスが生きたのは、フランスが対独敗戦から第一次世界大戦へ向かう19世紀の末から20世紀の初めにかけて。普仏戦争の敗戦から対独ナショナリズムが高揚、ブーランジェ事件やドレフュス事件など政治的な混乱が生じるも、20世紀になると第三共和制はいったん落ち着きをみせる。
戦争のはざまとなったこの時期は工業化が進み、中流階級では市民文化が成熟してベル・エポックと呼ばれる一方、労働者が都市に流入、労働運動、社会主義が盛り上がった。
国外で植民地拡大政策をとったフランスは帝国主義化し、やがて第一次世界大戦へと進んでいく。多くの人々にとっては、世紀末のパリの人口急増や工業や科学の進歩によって、大きな変化を体験していた時代だ。
社会主義者になる前、そもそもは中道左派の共和主義者だったジョレスは、社会主義を共和主義の深化と捉えていた*1。または社会主義は共和主義という基盤の上に築かれるべきものと考えていた*2。労働者の団結と同時に個人の尊厳や集団の自由も大事だと考えていた*3。共和国(第三共和制)は成ったが、その理想である民主主義、その理念である個人の自由、法の下での平等、基本的人権の保証はまだ実現の途上にある、と。
街に轟いたジョレスの声、その声の内にある真剣な想いは、大変動期の「生」の不安の中にいる人々の、その日を生きるわずかな光となっただろう。彼は大衆という複数形に対してと同時に、街頭に集まる一人一人に向かって高々と声をあげた。目の前にいる人間一人一人にむかって。
1904年に「リュマニテ」(フランス語で”人類”の意)という日刊紙を創刊し、労働者としての権利、非武装平和など、今もって実践されなければいけない理念を掲げ、またそれはフランス人民戦線(反ファシズムを掲げた連合政権)の前身となる要素を持っていた。人間が社会の中で生存するとはどういうことだろう。同時に情勢は刻々と戦火を呼び込んでいた。
国民の幸せとヨーロッパの平和を追求するのではなく、ドイツへの敵対心と、アルザス=ロレーヌ奪還、祖国防衛論を掻き立て、人々を戦地へ送ろうとする「見世物国家」への、Nonノンという民の声を代弁したジョレス。
実際には見かけほどではないのであろうが、政治の”見せかけ”は日ごと顕わにされ、こうして好奇心を呼ぶ力も減少し、一定の”シラケ”も生じる。(G・バランディエ『舞台の上の権力』渡辺公三訳、ちくま学芸文庫)
時代は第一次世界大戦を目前に、国家どころか一人ひとりの人間が生の不安に脅かされていたはずだ。国の人員としてではなく、正当性のある共同体に属する一人としてLa vie 生きるという欲求。
すべての人にとっての正義とは何か、公平とは何か。必要なのは戦争なのか平和なのか。こうした問題に対し、ジョレスは強度を持った知性を携えて人々の注意を喚起し、コミュニケーションに挑んだ。
どこからどうやって? 左でも右からでもない、上でも下からでさえもない。正面からだ。
他者の真正面に立った。
彼の真正な行動とは、生身の人間として自らをさらけだす姿、その存在そのものだった。
ファンファーレでの演奏には目の前に観客がいる。ジョレスの演説とは比較にならないが、生身の人間を前に、わたしたちは楽器の音が、目の前にいる人に届くことを願う。わたしたちの演奏に反応する人々との間に交通が生まれ、それは貨幣を介してある人々の食事に交換される。わたしたちのパフォーマンスは言葉を持たない。しかし、「行動する」ということで物事が動き始める。
ジョレスは死に至ることでわたしたちに何を残しただろうか。政治的な地位を得ることでもなく、歴史に名を残す輝かしい勲位でもない、彼の生きぬいた姿そのもの、それを裏付けする努力の先にある可能性(彼の生が不幸にも中断してしまわなかったら訪れたかもしれない未来)をわたしたちに提示してくれたのだ。
以下に、ジョレスがアルビの高校で行った講演『若者へ』の一部を抜粋しよう。ここでは「勇気」というフレーズを繰り返し繰り返し使っている。まるでラッパーが韻として使う言葉のように。
(…)もし、勇気をみせるために人殺しを永遠につづけなくてはならないとしたら、人類は呪われています。(…)
(…)勇気とは、誰しもが、たとえどんな職業に就こうとも、実践家であるとともに哲学者となることなのです。
勇気とは、自分の人生を理解し、そして深め、より緻密なものとして確立させ、しかし同時に社会全体の命と調和させていくことです。(…)
勇気とは、自らの過ちを認めて苦しみながらも、それに打ちひしがれることなく自分の道を歩みつづけることです。
勇気とは、人生を愛し、そして冷静な視線で死を見つめることです。それは理想に向かって進み、現実を理解すること。奥深い宇宙が自分の努力に対してどんな見返りを用意してくれているのか、また報いてくれるか否かにかかわらず、行動し、重大な問題に身を捧げることです。
(訳:川崎康介 初出 Ovni 768号 https://ovninavi.com/768sp/2/)
勇気とは、真実を求め、真実を語ること、いたるところで勝利を得ている欺瞞の掟に従わないこと、私たちの魂、私たちの唇、私たちの手で、愚かな喝采と狂信的な叫び声を広めないことなのです。
(ヴァンサン・デュクレール、大嶋厚 訳『ジャン・ジョレス 1859‐1914 正義と平和を求めたフランスの社会主義者』吉田書店、2015年、p.296)
第一次世界大戦が勃発し、フランスが総動員体制となる前夜、パリ2区、モンマルトル通りにある〈カフェ・デュ・クロワッサン〉。ここでジョレスは暗殺される。
無知なわたしは毎日スタジオへ行くのにこのカフェの前を素通りしていた。ある日カフェの隣にある靴の修理屋に出向いた際、店主が誇らしげに話し出すではないか。「君、知っているかい? お隣さんはジョレスが暗殺されたカフェなんだよ」と。たまげて外にでれば、ちゃんと碑が掲げてある。「1914年7月31日、ここでジャン・ジョレスが暗殺された。」
節目節目で彼へのオマージュ的催しがフランス全土で多々開かれる。日常の中に生き続けているジョレスの存在は今、移民難民のための炊き出しの場にもある。
そこには人種も出自も宗教も関係なく、ただ今日ごはんを食べるために人々が集まり、それを配るという関係性だけがある。この目の前にいる他者との関係は、ささやかな寛容性から生まれる。
今日食うために/食わせるために、今日やれることをする。その事実は一人の人間の命に関わっている。
もちろん小さな共同体としてあるこの場は、国家だとか地域だとかでは括れない、週に一回の一過性のものだ。
継続ができなくなれば、あるいはちょっとした問題が発生すれば、人々はいうだろう。
「偽善的な一過性の団体がやることだ」と。
しばらくしてラシャペルでは炊き出しをする団体間で場所取りゲームが始まった。陣地取りだ。せっかく炊き出しという有益なことをしているのに、する側が喧嘩をしていては本末転倒である。しかし、よりよい方法で、と考えた結果、愚かにもわたしたち人間は正しさを盾にエゴを丸出しにし、揉めごとをつくりあげる。
とはいえ、繰り広げられる出来事そのものが、ある共同体としての有り様で、それは、いいも悪いも含めての生きるということでもある。
ジョレスが掲げた理想の社会とはどんな社会だったのだろう。そんな問いからこの団体名称「ジョレスの鍋」は生まれた。
……ジョレスから出発して、理想の社会について考えてみる。さまざまな材料が自らのユニークさ、特性を発揮し、それぞれが尊重され、味を補いあい、全体としておいしい料理になるような社会、多様性が他者の寛容につながる社会、とでも言えるだろうか。
そうした多様性に言及したレヴィ=ストロースの言葉を最後に引用しよう。
人類の文化の多様性は、われわれの背後に、われわれの周囲に、われわれの眼の前にある。そこでわれわれが主張できるただひとつの要請は(それぞれの個人に、それは対応する義務をうみだす)、ひとつひとつの形態が、他者のもっとも大きな寛容性への寄与となるような、そのような形態のもとで多様性が自らを実現することである。(レヴィ=ストロース『人種と歴史』渡辺公三ほか訳、みすず書房)
ジョレスの鍋はひとつ。複数のための鍋はひとつなのだ。
今日、目の前にいる人間に配られる鍋の中身の味はどうなっているだろう。
幼児、働き盛り、流動食を必要とする者。人種も何も関係なく、スープはいつも、誰かの命を救う。
*1 宇野重規、伊達聖伸、髙山裕二 編『共和国か宗教か、それとも:十九世紀フランスの光と闇』白水社、2015年、p.265.
*2 ヴァンサン・デュクレール、大嶋厚 訳『ジャン・ジョレス 1859‐1914 正義と平和を求めたフランスの社会主義者』吉田書店、2015年、p.293.
*3 前掲『共和国か宗教か』p.254.
《バックナンバー》
〈1皿め〉サックス奏者、仲野麻紀がつくる伊勢志摩の鰯寿司
〈2皿め〉シリア人フルート奏者、ナイサム・ジャラルとつくるملفوف محش マルフーフ・マハシー Malfouf mehchi
〈3皿め〉コートジボワール・セヌフォ人、同一性の解像度――Sauce aubergine 茄子のソースとアチェケ――
〈4皿め〉他者とは誰なのか Al Akhareen ――パレスチナのラッパーが作る「モロヘイヤのソース」――
〈5皿め〉しょっぱい涙と真っ赤なスープ――ビーツの冷製スープ――
〈6皿め〉同一性はどの砂漠を彷徨う――アルジェリアの菓子、ガゼルの角――
〈7皿め〉移動の先にある人々の生――ジャズピアニストが作るギリシャのタラマΤαραμάς――
〈8皿め〉エッサウィラのスーフィー楽師が作る魚のタジン――世界の片隅に鳴る音は表現を必要としない――
〈9皿め〉ブルキナファソの納豆炊き込みごはん!? ――発酵世界とわたしたち――
〈10皿め〉オーディオパフォーマー、ワエル・クデの真正レバノンのタブーレ――パセリのサラダ、水はだれのもの――
〈11皿め〉風を探す人々――西ベンガル地方、バウルのつくる羊肉のカレー――
〈12皿め〉生きるための移動、物語――アルバニアのブレクBurek――
〈13皿め〉ジョレスの鍋――マッシュルームのスープ――
〈14皿め〉国に生きる、歴史に生きる――オスマン帝国の肉団子、キョフテ――
〈番外編1〉旅する小麦――買う時間、作る時間、あなたとわたしの距離――
〈番外編2〉旅する小麦――買う時間、作る時間、あなたとわたしの距離――