夢をかなえるための『アントレプレナーシップ』入門
㉕起業家教育が目指すこと(1)

About the Author: 高橋徳行

たかはし・のりゆき  1956年北海道生まれ。1980年慶應義塾大学経済学部卒業。同年国民金融公庫(現日本政策金融公庫)入庫。1998年バブソン大学経営大学院(MBA)修了。2003年より武蔵大学経済学部教授。2015年より同大学経済学部長(2017年まで)。2022年より同大学学長。主著は、『起業学の基礎』(勁草書房)、『アントレプレナーシップ入門』(共著、有斐閣)などがあり、訳書としては『アントレプレナーシップ』(共訳、日経BP社)などがある。日本ベンチャー学会清成忠男賞審査委員長、日本中小企業学会幹事、企業家研究フォーラム理事、グローバル・アントレプレナーシップ・モニター(GEM)日本チームリーダーなどを兼任。
Published On: 2023/10/11By

 
起業家教育は起業活動を活発にするために、また、起業家に対する評価を高めるために必要なものです。では、起業家教育とはどのようなものでしょうか。今回は、起業家教育が期待を裏切ってしまうような結果に終わるのはなぜか、求められる起業家教育とは何か、を考えていきます。[編集部]
 
 
 わが国の起業活動の水準は、今も米国や中国と比較すると半分以下ですが、それでも2000年代前半に比べると2倍以上になっています。しかしながら、起業家というキャリアに対する評価は、起業活動水準が上昇する中でもほとんど改善は見られず、起業態度を有する人の割合もほとんど変化なく、他の先進国と比べて圧倒的に低い状態が続いています。
 
 この不思議な現象については、この連載の中で時々触れてきましたが、一言で表現するならば、それは起業家教育の失敗です。「起業活動の水準が上昇しているのに?」と思われるかもしれませんが、今回はそのあたりの謎解きから始めます。
 
起業家を育てることを目標としない起業家教育
 
 わが国の起業家教育の中で最も必要とされているのは、起業家になることを目標としない起業家教育です。
 
 いきなり、おかしなことを言っているように聞こえますが、例えば、芸術家を育てることを目標に美術の授業をしている教員はごくわずかです。同様に歴史研究者を育てるために日本史や世界史を教えている教員も明らかに少数派でしょう。また、生徒や学生の立場からも、教えられている授業科目の専門家を目指しているのは、大学院や専門学校などの例外はあるにしてもごくわずかです。
 
 ところが、起業家教育になると、いきなり職業選択が前面に、もしくはその職業を選択した時に必要となる知識や技能の話題が中心になることが多いのです。そして、起業家になる予定も計画もない人にいきなり「ビジネスプラン」を作成しなさいと言っても、まともなプランができないだけでなく、教育効果も期待できません。
 
 もちろん、実際に起業をするためには、必要となる知識は山ほどあります。前回まで5回にわたって連載した「資金調達」はその典型的なもので、銀行借入による資金調達と、企業の持ち分と引換えに行う資金調達の違いを知らないまま、金融機関に足を運ぶことは危険です。他にも、競争戦略、マーケティング、そしてビジネスモデルにかかる基本的な知識は不可欠です。
 
 しかし、資金調達や競争戦略の基本を教えるタイミングは、「起業家になることを決めた」もしくは「起業家をキャリアの選択肢のひとつに組み込んだ」段階からで良いのです。近い将来、実際に必要となる知識を学ぶのですから、それは確定申告前に税務申告の方法を学んでいることに近い世界です。
 
 図表1は、連載の第19回(アントレプレナーを育てることは可能なのか)で紹介したものを再掲したものです、起業態度を有していない人を対象に、起業態度を有する人に移行させる教育(A段階→B段階)と、すでに起業態度を有している人を実践に向かわせるため教育(B段階→C段階)という2つの起業家教育が存在していることを示しています。
 
 なぜこのように2つに分けて整理することが必要かと言えば、起業家教育は、教育の対象が起業する気持ちが固まっている人なのか、起業態度を有している人なのか、それとも起業家という選択肢はもちろん、これからの人生設計も定まっていない人なのかによって、教育方法もゴールもまったく異なるからです。
 
 そして、図表1のA段階からB段階への移行を目指している起業家教育では、起業家を育てることを目標としてはいけない、というのが今回の連載で主張したいことになります。
 

図表1 2つの起業家教育

      資料:筆者作成。

 
ゴールが違う
 
 A段階→B段階の起業家教育で教えるべき内容やゴールは、不確実な環境の中でいかにして自ら発見した課題を解決したり、自分の夢を実現したりするのかを学ぶことです。
 
確かに、自ら事業を起こす人は、不確実な環境の下で自分の夢を実現しようとします。とは言っても、そのような人は起業家に限りません。大企業に勤めていても、自治体に勤めていても、学校に勤めていても、それらの組織の中で、同様の挑戦をする人がたくさんいます。
 
 私たちの世の中をより良いものにしようとすると、確かなものだけを追いかけるわけにはいきません。どうしても不確実な環境に身を置くことになります。そのような状況の中で、どのように振る舞い、行動すべきなのか、いかにして課題を解決したり、夢を実現したりできるのかを学ぶことが、A段階→B段階の起業家教育が目指すものです。
 
 そして、A段階→B段階を目指す起業家教育では、教育を受けた結果、どのくらいの割合で起業家になったとか、起業家として成功したかは重要ではありません。起業家という道を選択しなくても、その教育で得たものを起業とは違う世界で活用してもらえるなら、教育効果は十分にあったと判断できます。もちろん、他の教育と同じように、教育を活かせない人が一定割合存在することも認めなくてはいけませんが……(図表2)。
 

図表2 A段階→B段階の起業家教育を受けた結果

資料:筆者作成。

 
 
 せっかく起業家教育を受けたのに起業家を目指す人が少なくてもいいのか? という声も聞こえてきそうですが、それでよいのです。A段階→B段階を目指す起業家教育のゴールは起業家になりたい人を増やすことではなく、起業活動のエッセンスを学ぶことを通して、不確実な環境の中で自分の夢を実現する方法や生き方を学習した人を増やすことです。
 
 起業活動のエッセンスは大きく分けて2つあります。
 
 一つは、課題を発見し、その課題を解決しようとする気持ちを持てるようにすることです。それは教育ではない、と考える人もいるかもしれません。しかし、起業家はある課題を解決しようとしますが、まずは自分ができる範囲の課題解決から始めます。この「自分ができる範囲」から始めることが重要なのです。
 
 世界から貧困をなくしたいという課題を持ったとしても、いきなり世界中から貧困をなくそうとすると、一歩も前に進めません。そうではなくて、フィリピンの特定地域の貧困を解決したいということであれば、具体的な方法が浮かんでくるでしょう。起業家はそのような発想が得意ですから、その発想方法を通して起業活動の最初のエッセンスを学びます。
 
 連載第10回(ビジネスの世界だけではない)で紹介した岩手県沢内村の深澤晟雄(ふかさわ まさお)元村長の話を思い出してください。彼は、1960年に沢内村に住む65歳以上の医療費を国に先駆けて無料にし(翌1961年には60歳以上と乳児の医療費も無料に)、そして1962年に全国で初めて乳児死亡率ゼロを達成しました。おそらく深澤氏は沢内村だけではなく日本全国の高齢者医療や乳児死亡率にも関心があったに違いありません。しかし、彼は自分の村である沢内村の状況改善に全力を尽くします。
 
 もう一つは、課題解決のゴールに至る道筋がどのようなものであるかを学ぶことです。自分ができる範囲のところまで課題を絞り込んだ後は、その解決策を考えることになります。しかし、その時、ゴールまでの明確な道筋が見えるまで待っているといつまで経っても行動は起こせません。
 
 不確実な環境の中でゴールにたどり着くための唯一の方法は、まず行動することです。行動すると、その結果としてフィードバックを得ることができます。そのフィードバックをもとに次の行動を考え、少しずつゴールに向かいます(図表3)。これも起業活動のエッセンスです。
 
 連載第12回(なぜ第一歩を踏み出せないのか)では、図表3と同じような概念図を図表4のようにも紹介しました。ゴールまで一直線にたどり着かないことを示したものですが、伝えたいことは図表3も図表4も同じです。
 

図表3 起業活動のエッセンス(不確実性の中での行動原理)

資料:筆者作成。

 

図表4 起業家がゴールに到達する道筋

資料:筆者作成。

 
127時間
 
 読者の皆さんの中には、『127時間』(原題: 127 Hours)というタイトルの映画を観た人もいるかもしれません。これは、ダニー・ボイルが監督、脚本、製作し、2010年に上映された映画作品で、登山家のアーロン・リー・ラルストンの自伝『奇跡の6日間』(Between a Rock and a Hard Place)を原作としたものです。
 
 実話に基づいた映画の内容を簡単に紹介しますと、登山家のアーロン・リー・ラルストンがキャニオニングを楽しんでいた最中に岩とともに滑落し、右手が岩と壁の間に挟まれました。2003年4月26日のことです。
 
 そして、地中に落下して5日後の2003年5月1日、彼はたまたま所持していた15ドルの懐中電灯を買った時におまけで貰ったナイフで1時間程かけて腕を切断して脱出しました。
 
 このように説明すると、面白くもなんともない話です。大変な状況の中で、ラルストンは良く決断できたな、とか、さぞかし痛かっただろうくらいの感想になってしまいます。
 
 しかし、ここで伝えたいことは、右手が岩に挟まった⇒ナイフで切断しよう、という決断の経路ではないということです。
 
 ラルストンがはじめに行ったことは、大声で助けを呼んだことです。しかし、キャニオニングをするような場所でしかも地上から何メートルも下のところから声を出しても届きません。その次に行ったことは岩を砕いたり、動かそうとしたりしたことです。もちろん、びくともしません。そして死を覚悟します。
 
 腕を切断しようとしたのはその後です。起業家がゴールにたどり着く過程と大変良く似ているので紹介しましたが、このようなプロセスを経て解決策やゴールにたどり着くことを学ぶのがA段階→B段階の起業家教育です(注:興味のある方は、ウィキペディアの「アーロン・リー・ラルストン」をご覧ください。本人の写真を見ることができます)。
 
課題発見が先、ビジネスは後
 
 A段階→B段階を目指す起業家教育では「何かビジネスを考えなさい」という問いかけはしません。また、高校生や中学生にそのような課題を与えても「??????」となってしまいます。
 
 しかし、「何か困っていることはないかな」「もっと便利にしたいことは何?」と尋ねれば、いろいろな答えが返ってきますので、その後は2つの起業活動のエッセンスを伝えやすくなります。
 
 図表5は、日本、米国、英国、中国、韓国、インドの17~19歳の男女500人ずつ、合計1,000人の若者に対して日本財団が2022年に実施した調査結果の一部です。これを見ると、「将来の夢を持っている」「自分の将来が楽しみである」などの項目で日本は他の国と比べて低いことがわかります。特に、「多少のリスクが伴っても高い目標を達成したいが」が一段と低いことが気になります。
 
 筆者は、このような結果が、A段階→B段階の起業家教育の失敗を物語っていると考えます。つまり、日本の若者に「夢がない」、日本の若者が「リスクを嫌っている」結果ではないのです。夢の実現の仕方がわからない、リスクをどのように回避すればよいのかを知らないだけのことと思うのです。
 
 A段階→B段階の起業家教育を受けることによって、夢を実現する方法、課題を解決する方法、そしてリスクを回避する方法を学ぶことができれば、図表5の数字も好転するに違いありません。
 

図表5 自身の将来や目標について(選択肢に同意する割合)(単位:%)

注:各国のサンプル数は1,000である。
資料:日本財団『18歳意識調査「第46回国や社会に対する意識(6カ国調査)」報告書』(2022年)。

 
 これまで、A段階→B段階の起業家教育はどうあるべきかについて述べてきました。少し遠回りになるかもしれませんが、そこでは「起業する」ことには直接触れないで、人生のさまざまな場面で必要となる能力である課題発見力や不確実な環境で前に進む力の習得に重点を置くことが大切です。
 
 今回は、A段階→B段階の起業家教育のあるべき姿を述べたので、次回はB段階→C段階の起業家教育の目指すものについて触れたいと思います。
 
》》》バックナンバー
①日本は起業が難しい国なのか
②起業活動のスペクトラム
③「プロセス」に焦点を当てる
④良いものは普及するか
⑤Learning by doing
⑥連続起業家
⑦学生起業家
⑧社会起業家
⑨主婦からの起業
⑩ビジネスの世界だけではない
⑪不思議の国の企業活動:「日本」
⑫なぜ第一歩を踏み出せないのか
⑬起業後のリスクや不確実性への対応
⑭起業家になるための能力・起業家に求められる能力(1)
⑮起業家になるための能力・起業家に求められる能力(2)
⑯アントレプレナーシップは私たちの世界に何をもたらすのか:起業活動の社会的意義とは何か
⑰アントレプレナーとは誰なのか
⑱市場を生き抜く「強さ」とは何か
⑲アントレプレナーを育てることは可能なのか
⑳アントレプレナーの資金調達(1) 
㉑アントレプレナーの資金調達(2) 
㉒アントレプレナーの資金調達(3) 
㉓アントレプレナーの資金調達(4) 
㉔アントレプレナーの資金調達(5) 
㉕起業家教育が目指すこと(1) 

About the Author: 高橋徳行

たかはし・のりゆき  1956年北海道生まれ。1980年慶應義塾大学経済学部卒業。同年国民金融公庫(現日本政策金融公庫)入庫。1998年バブソン大学経営大学院(MBA)修了。2003年より武蔵大学経済学部教授。2015年より同大学経済学部長(2017年まで)。2022年より同大学学長。主著は、『起業学の基礎』(勁草書房)、『アントレプレナーシップ入門』(共著、有斐閣)などがあり、訳書としては『アントレプレナーシップ』(共訳、日経BP社)などがある。日本ベンチャー学会清成忠男賞審査委員長、日本中小企業学会幹事、企業家研究フォーラム理事、グローバル・アントレプレナーシップ・モニター(GEM)日本チームリーダーなどを兼任。
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