掌の美術論

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第11回 セザンヌの絵に触れる――ロバート・モリスを介して(前編)

諸芸術を比較する「パラゴーネ」と呼ばれる議論が、美術史には存在する。なかでも、彫刻と絵画の優劣を競うパラゴーネは、触覚と視覚、形態と色彩、物質性と虚構性とのあいだの対立軸をめぐり繰り広げられてきた。そのなかで彫刻に軍配をあげるのにたびたび重要な役割を割り当てられるのが、盲人である。彫刻は目が見えない人にも実際のかたちを正確に伝える芸術であり、平面のなかに別の世界が存在するかのように見せる虚構としての絵画よりも優れている、とするロジックだ。

By |2024-01-04T12:06:46+09:002023/12/27|連載・読み物, 掌の美術論|

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第10回 クールベの絵に触れる――グリーンバーグとフリードの手を媒介して

大学の夏休み期間を利用したフランスでの在外研究から帰国した後、職場のポストを見ると、同僚の加治屋健司さんからご献本いただいた『絵画の解放――カラーフィールド絵画と20世紀アメリカ文化』が投函されていた。この本についてはまた別の機会に別の媒体で書評を記す予定である。

By |2023-11-22T12:36:02+09:002023/11/27|連載・読み物, 掌の美術論|

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第9回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(後編)

この連載では数回にわたり、美術史家における「触覚」をめぐる著述を紹介している。前回の記事から取り組んでいるのが次のような問いだ。すなわち、芸術理論が作品分析という実践に移されたときに、どのように特定の概念はオリジナルの意味からずらされていくのだろうか。具体例として扱っているのは、ジル・ドゥルーズの『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』(1981年)である。

By |2023-11-19T17:41:37+09:002023/10/26|連載・読み物, 掌の美術論|

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第8回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(前編)

今回と次回の記事では、ドゥルーズの美術論における「触覚」の議論を取りあげたい。ドゥルーズは、前回の記事で触れたリーグルの『末期ローマの美術工芸』(1901年)における触覚論の革新性に注目した人物のうちの一人である。1981年に出版された彼の『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』(図1)を読むと、何よりも驚かされたのは、第14章「それぞれの画家が自分なりの方法で絵画史を要約する」以降の、アクロバティックなロジックの展開である。

By |2023-10-22T15:53:46+09:002023/9/12|連載・読み物, 掌の美術論|

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第7回 リーグルの美術論における対象との距離と触覚的平面

美術史家による観察において、視覚が重要な感覚となることは言うまでもないが、触覚についてはどうなのだろう、と、ふと疑問に思い、この連載では第5回目の記事から19世紀末に遡って美術史家の著述における触覚についての記述を再読している。すると、「触覚」が意味する感覚の、意外なまでのヴァリエーションに、戸惑いを感じることがある。

By |2023-10-22T15:46:29+09:002023/8/18|連載・読み物, 掌の美術論|

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第6回 時代の眼と美術史家の手
――美術史家における触覚の系譜(後編)

前回の記事ではハインリヒ・ヴェルフリンの『美術史の基礎概念』(1915年)を取り上げながら、触覚的な価値に基づくイメージ分析について紹介した。実のところそうした方法論自体は、バーナード・ベレンソンやアロイス・リーグルといった美術史家たちが19世紀末から20世紀初頭にかけて書いたものに見られたものだった。ではこうした傾向は、どのような思想的系譜のうえに位置づけられるだろうか。

By |2023-10-22T15:40:16+09:002023/6/29|連載・読み物, 掌の美術論|

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第5回 時代の眼と美術史家の手
――美術史家における触覚の系譜(前編)

2020年春から、コロナ禍で国内外の多くの展覧会が開催を見合わせたり延期したりした。代わりに多く見かけるようになったのが「ヴァーチャル・ミュージアム」と呼ばれる企画だ。インターネットに繋いだパソコンやタブレットさえあれば、家にいながらにして幾つかの海外の企画展の展示室風景を3Dの再現で見ることができた。そうした特設サイトでは、気に入った作品をクリックすればその詳細画像とキャプションを読むことができる工夫もなされていた。自粛期間が続くあいだ、美術館のこうした取り組みは重要な気晴らしの時間を提供してくれた。

By |2023-08-28T19:25:34+09:002023/5/30|連載・読み物, 掌の美術論|

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第4回 機械的な手と建設者の手

手が勝手に動いて、思いもよらないような線を描くという体験は、誰にでもあるはずだ。幼い子供はある段階から、線を描きながら、その線に意味を与えていくことができるようになる。丸のようなものを描く。そして子供はそこに、順番に名前を与えてく。「このまるはたまごだよ。たまごじゃないよ。さなぎだよ。さなぎじゃないよ。なまえなの」。

By |2023-08-28T19:32:10+09:002023/4/26|連載・読み物, 掌の美術論|

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第3回 自由な手

近現代美術の中に登場する「手」は、しばしば観察者の知覚を裏切るような現実を私たちに突きつけてくるものであるからこそ、重要な位置づけを与えられてきた。 もちろん手のかたちは、昔から絵画や三次元的な造形物のモチーフに使われた。身体の一部の型取りやそのイメージを奉納する古くからのヨーロッパの習慣において、手もまたその対象であったし、キリスト教美術の伝統では「神の右手」は、人間の眼で知覚することができない神聖な存在を換喩的に表象するイメージであった。フランス王家において王権の象徴(レガリア)とされたものの中には、「正義の手」と呼ばれる王笏がある。また芸術家による手のモチーフだけの習作も、決して珍しいことではない。

By |2023-08-28T19:34:47+09:002023/3/23|連載・読み物, 掌の美術論|

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第2回 自己言及的な手 

ルーヴル美術館に、興味深い一枚の素描がある。1775年にフランス王室によって購入された時、この作品はミケランジェロの「手」によるものだとされた。実際に描いたのはミケランジェロではなくてバルトロメオ・パッサロッティであったとする説、あるいはアンニバーレ・カラッチであったとする説もある。いずれにせよこの素描の「手」が誰のものなのかを最終的に決定づける見解は示されていない。

By |2023-08-28T19:37:13+09:002023/2/22|連載・読み物, 掌の美術論|
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