掌の美術論
第11回 セザンヌの絵に触れる――ロバート・モリスを介して(前編)

About the Author: 松井裕美

まつい・ひろみ  東京大学大学院総合文化研究科准教授。博士(美術史)。専攻は、フランスを中心とする近現代美術。著書に『キュビスム芸術史:20世紀西洋美術と新しい<現実>』(名古屋大学出版会、2019年)、翻訳にデイヴィッド・コッティントン『現代アート入門』(名古屋大学出版会、2020年)など。
Published On: 2023/12/27By

 
『掌の美術論――触覚と想像力に』、2026年7月2日発売です。みなさま、どうぞお手にとってください。[編集部]
 
 

セザンヌの絵に触れる――ロバート・モリスを介して(前編)

 
 
盲目の彫刻家
 
 諸芸術を比較する「パラゴーネ」と呼ばれる議論が、美術史には存在する。なかでも、彫刻と絵画の優劣を競うパラゴーネは、触覚と視覚、形態と色彩、物質性と虚構性とのあいだの対立軸をめぐり繰り広げられてきた。そのなかで彫刻に軍配をあげるのにたびたび重要な役割を割り当てられるのが、盲人である。彫刻は目が見えない人にも実際のかたちを正確に伝える芸術であり、平面のなかに別の世界が存在するかのように見せる虚構としての絵画よりも優れている、とするロジックだ。

 ルーヴル美術館にはこのロジックに沿って描かれたデッサンが残されている(図1)。杖を持つ男は盲人であり、女性の頭部像に手を触れその美しい姿を確かめている。彫像の台座には一枚の絵が立てかけてあるが、彼はそれに見向きもしない。なぜなら見ることができないからだ。画中画には着衣の男性が二人の浴女と対峙しており、盲人と彫刻の出会いを反復するような場面となっている。ただし画中画の男女の出会いが、盲人と女性像の出会いと大きく異なるものであることは明らかだ。盲人は女性像の頭部に触れていることから、官能的な触れ合いよりも造形的な鑑賞を彼が求めていることが暗示されている。画中画の中の男性はこれとは反対に、裸の女性たちの身体に触れようとはしていないが、眼前に現れた温かな素肌に性的な関心を向けている。西洋絵画には、男性が女性の水浴中の姿を覗き見するという逸話がしばしば描かれており(たとえばローマ神話に登場する狩猟の女神ディアナの水浴を覗き見した猟師アクタイオンや、旧約聖書に登場する水浴中のバテシバを見初め関係を迫るダビデ王、新約聖書に登場する水浴中の人妻スザンナを覗き見した長老など)、画中画の場面もまた、そうした場面のうちの一つなのだろう。画中画の窃視者は、手で女性に触れはしないが、代わりに眼差しによって触れているのである。つまりこの寓意は全体として、造形的な関心と性的な関心、手で美しいかたちに触れることと眼差しで美しい素肌に触れることのあいだの対比を問題にしようとしている。
 

図1 グエルチーノ(伝)《絵画に対する彫刻の優位の寓意》17世紀。ルーヴル美術館
出典:https://collections.louvre.fr/en/ark:/53355/cl020003809

鋭い触覚により造形的な関心からかたちの探究を行う盲人は、彫刻の優れた鑑賞者であるばかりか、優れた制作者でもあり得る。そう考えた18世紀フランスの画家エチエンヌ・オーブリーは、1771年に彫刻家ルイ・クロード・ヴァッセの肖像を制作する際に、モデルの視線を宙に漂わせ、あたかも盲人であるかの如く描出した(図2)。およそ実際の制作の場面とは思えない豪華なマントに身を包んで塑像を作り出す最中のこの芸術家の手は、当て所のない視線とは対照的に、しっかりと粘土を捉えている。浮き上がった右手の腱の筋や親指の付け根の皺は、彫刻家の手つきの力強さと慎重さの双方の証左となっている。頭部像の首元を掌全体でしっかりと捉えた左手の指には、木ベラが挟まれており、必要であれば今にも動かす準備ができていると言わんばかりだ。ここで、制作された彫像が、愛と美の女神であるウェヌスであったなら、そこにはみずからの制作した女性像に恋したギリシア神話に登場する彫刻家ピュグマリオンの逸話が想起させるような、官能的な意味が生じていたことだろう。だが月桂樹をあしらった兜を被るこの頭部像は、ローマ神話に登場するマルスである。冷たい灰色の肌を持ったこの軍神からは、柔らかい素肌の官能的な温かさは感じられない。肌の質感よりもかたちの正確さを表現しようとするこの彫刻は、まるでグリザイユ(グレートーンやセピアといったモノクロームで描かれた絵画)のようだ。右上方に向けられたマルスの眼差しは左上方に向けられたヴァッセの視線と差し向かいになり、交差している。あたかも、それぞれ別の方向からやってきた天からの不可視の光が、両者の心に差し込んでいるとでもいうかのように。ヴァッセは盲人ではなかった。しかし盲人の彫刻家として彼を描くことこそ、画家オーブリーにとっては、天啓を心の眼で受け取り巧みな触覚の技へと結実させる彫刻家を讃えるのに適していると思われたのだろう。
 

図2 エチエンヌ・オーブリー《彫刻家ルイ・クロード・ヴァッセの肖像》1771年。ヴェルサイユ宮殿

 
盲目の画家
 
 網膜上の映像に何らかの制限を受けるということは、画家にとってもまた精神の眼を開くということを意味し、結果的に抽象的なヴィジョンへ接近する道のりを切り拓いた。イギリスの画家ターナーが1828年描いた《レグルス》は、古代ローマの将軍レグルスがカルタゴに捉えられ、瞼を切り取られたまま地下牢に閉じ込められた挙句、外に出されて太陽を直視するよう強いられ失明したという逸話をテーマにしている。将軍が最後に見た、視力を失うほどの過酷な光は、その暴力だけでなく美しさによっても、私たちの眼を眩ませる。かたちを曖昧にし眼に映る情景を溶解させてしまうほどに激しい光は、やがて晩年に描かれた《光と色(ゲーテの理論) 洪水の翌朝 創世記を書くモーセ》(テート美術館)のように、光と闇、そしてさまざまな色彩が衝突する精神世界へと画家を導くことになる(なお本作は2024年1月14日まで大阪中之島美術館の「テート美術館展」に展示されている)。象徴主義の美学にも同様の傾向が見出せる。例えばオディロン・ルドンの《眼を閉じて》(岐阜県美術館)において、瞳を閉じた人物が瞼の裏に描く世界は、抽象的な色彩に溢れた瞑想の世界である。

 外部からもたらされる視覚情報の制限や遮断は、眼には見えない精神的な世界への鍵であったばかりではない。それは抽象絵画という新しいジャンルを予兆する諸形式を展開した。視力を失いつつあった晩年のモネの睡蓮の連作に認められる絵の具のほとばしりは、床に置いたカンヴァスにペンキを垂らしこむジャクソン・ポロックのドリッピングにたびたびなぞらえられてきた*1。マティスは1898年に滞在したコルシカ島で夕日を見て、その眩しい光が風景を溶解させる有様を荒々しい筆致で描き出した(《コルシカ島に沈む夕日》)。強い光だけでなく、眼を凝らして見なければならない闇の表現もまた、マティスにとっては色彩の実験場となった。彼はコルシカ島に次いでトゥールーズに滞在し、その間いくつか窓からの逆光を受ける静物画を描いている。
 ↓ ↓ ↓
 
つづきは、単行本『掌の美術論』でごらんください。

 
身体を通して、世界に触れ、世界と戯れ、世界を模倣し、そして世界とずれていく。そのずれの中にこそ、芸術の可能性は宿っている。
 
2026年7月2日発売
松井裕美 著『掌の美術論――触覚と想像力に』

 
四六判上製・352頁 本体価格4000円(税込4400円)
ISBN:978-4-326-85207-9 →[書誌情報]
【内容紹介】遊びが手触りや感覚を頼りに新たなゲームや楽しさを創造し、ときに新しい認識や価値を開いていくように、触覚を軸にした鑑賞の方法を提示する。触覚に関わる美術史を整理したうえでフェミニズムや歴史・記憶と芸術作品の関係など、現代的な問題意識を織り込んだ作品解説を通し、触覚と想像力が拓く遊戯場としての美術史を紡ぎだす。

 
》》》バックナンバー 《一覧》
第1回 緒言
第2回 自己言及的な手
第3回 自由な手
第4回 機械的な手と建設者の手
第5回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(前編)
第6回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(後編)
第7回 リーグルの美術論における対象との距離と触覚的平面
第8回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(前編)
第9回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(後編)
第10回 クールベの絵に触れる――グリーンバーグとフリードの手を媒介して

About the Author: 松井裕美

まつい・ひろみ  東京大学大学院総合文化研究科准教授。博士(美術史)。専攻は、フランスを中心とする近現代美術。著書に『キュビスム芸術史:20世紀西洋美術と新しい<現実>』(名古屋大学出版会、2019年)、翻訳にデイヴィッド・コッティントン『現代アート入門』(名古屋大学出版会、2020年)など。
Go to Top