『掌の美術論――触覚と想像力に』、2026年7月2日発売です。みなさま、どうぞお手にとってください。[編集部]
芸術と嘘
芸術とは嘘をつく技術である、という言説は、たびたび認められる。それは芸術を真実から遠ざけるための批判ともなり得るものではあるが、むしろそこにこそ芸術の真髄を見る見解が、近代フランスに登場する。17世紀の色彩派の画家ロジェ・ド・ピールは、ルーベンスの作品に認められる誇張された色や光の表現が「化粧」(白粉や虚飾を意味するフランス語「fard」)に他ならないと認めながらも、この「化粧」による理想化を施し、鑑賞者を欺くことこそ、絵画の本質であるとした*1。ジャックリーヌ・リシテンシュテインが1987年の論文「表象をメイク・アップする――女性性のリスク」で指摘しているように、絵画や言語の表現を化粧術に喩えるこうした言説は、伝統的には女性嫌悪に根ざすものであった一方で、17世紀以降のフランスで化粧術としての芸術を肯定的に捉える傾向が登場したことは、宮廷文化における化粧の評価や、文学における女性性の評価とも無縁ではなかった*2。
表象を「メイク・アップ」すること。すなわち「でっちあげる」こと、「化粧」すること。それは芸術的な理想化のためには避けては通れないことである。18世紀の思想家ディドロは、「1767年のサロン」の中で、「嘘というのはいつでも少しはあり、どこまで嘘が許されるのかは今もこれからも定まることはない」のだから、「芸術に[現実と]乖離する自由を与えてやってください*3」と記している。ジャン=ジャック・ルソーが『孤独な散歩者の夢想』(1782年)のなかで言っているように、この種の「自分にも他人にも利益や損害なしに嘘をつくこと」は、嘘というよりむしろ虚構の範疇に属すると言えるだろう*4。
さて、ここで芸術家には二つの選択肢が与えられている。一方では「嘘」を本物であるように見せかけ騙すこと。他方では虚構が「嘘」であるとわかるように示すこと。後者は前衛的な芸術家に特有の身振りだ。ポスト印象派の画家ポール・ゴーギャンは、自然の色彩を誇張し「欺瞞」や「嘘」によって「照らし出された」絵こそ、「真の物事(光と力、そして大きさ)の感覚を与える」ことができるのだとした*5。20世紀のキュビスムの画家パブロ・ピカソもまたある対談の中で、次のように絵画が「嘘」としての本性を示すからこそ真実を見せてくれるのだと主張している。
わたしたちは皆、芸術は真実ではないと知っている。芸術とは真実を我々に教えてくれる嘘なのであり、少なくとも、嘘は真実を理解する機会をわたしたちに与えてくれている。芸術家は嘘の真実性を他者に認めさせる手段を知っていなければならない。芸術家が、首尾よく嘘をつこうとして探り続けてきたものを作品のなかで見せるだけなのだとしたら、その芸術家は何も成し遂げないだろう*6。
芸術は世界の真実を映し出す鏡とはなり得ないが、しかし真実について考えるための虚構としては機能する、というのである。
これまで私は、研究の中でピカソのこうした言葉を引用しながら、彼らが現実の模倣とは異なる「新しい現実」として芸術作品を捉えていたのだと説明してきた*7。彼らが作る「新しい現実」としての作品は、人を騙すために突き通す「嘘」とも、唯一無二の「真実」とも異なる何かである。それは真実を映し出したり説明したりはしないが、私たちの現実の理解に揺さぶりをかけ、現実の捉え方について再考察を迫るものだ。今でもそうした見解は変わらない。
だが同時に、ピカソの発言のうちには常々、奇妙な違和感を感じてもいた。前衛的な振る舞いとして「嘘」をつく芸術家は、その作品を通して、果たして本当に「真実」について省察することを鑑賞者に求めているのだろうか。ピカソすら、嘘や真実が一体何なのかについて、確信を抱いていなかったはずではないだろうか。それなのにピカソの上記の発言からは、そうした迷いが認められないのだ。芸術とは「真実を我々に教えてくれる嘘」である、と語るこの画家の確信に満ちた言葉のなかに真実がないのであれば、彼の言葉のうちに芸術における真実を求めようとすることは、まるで存在しない実の部分を求めながら玉ねぎの皮を剥くような、空虚な試みとは言えないだろうか。
つづきは、単行本『掌の美術論』でごらんください。
身体を通して、世界に触れ、世界と戯れ、世界を模倣し、そして世界とずれていく。そのずれの中にこそ、芸術の可能性は宿っている。
2026年7月2日発売
松井裕美 著『掌の美術論――触覚と想像力に』
四六判上製・352頁 本体価格4000円(税込4400円)
ISBN:978-4-326-85207-9 →[書誌情報]
【内容紹介】遊びが手触りや感覚を頼りに新たなゲームや楽しさを創造し、ときに新しい認識や価値を開いていくように、触覚を軸にした鑑賞の方法を提示する。触覚に関わる美術史を整理したうえでフェミニズムや歴史・記憶と芸術作品の関係など、現代的な問題意識を織り込んだ作品解説を通し、触覚と想像力が拓く遊戯場としての美術史を紡ぎだす。
》》》バックナンバー ⇒《一覧》
第1回 緒言
第2回 自己言及的な手
第3回 自由な手
第4回 機械的な手と建設者の手
第5回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(前編)
第6回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(後編)
第7回 リーグルの美術論における対象との距離と触覚的平面
第8回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(前編)
第9回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(後編)
第10回 クールベの絵に触れる――グリーンバーグとフリードの手を媒介して
第11回 セザンヌの絵に触れる――ロバート・モリスを介して(前編)
第12回 セザンヌの絵に触れる――ロバート・モリスを介して(後編)
第13回 握れなかった手

