『掌の美術論――触覚と想像力に』、2026年7月2日発売です。みなさま、どうぞお手にとってください。[編集部]
大学の夏休み期間を利用したフランスでの在外研究から帰国した後、職場のポストを見ると、同僚の加治屋健司さんから献本いただいた『絵画の解放――カラーフィールド絵画と20世紀アメリカ文化』が投函されていた。この本については別の媒体で書評を記す予定である。
モーリス・ルイスやジュールズ・オリツキーのカラーフィールド絵画は、論じることが不可能であるほどに好きな芸術の一部だ。何も考えずにただじっと作品の前に座して見つめていたいと思う。隣にいる人と「やはりいいね、気持ちがいい」などと呟き合うのもよい。だが作品を目の前にして、「この絵画の良さを教えてほしい」と尋ねられても、「色が空や海のようできれい」であるとかいった印象的なレベルにとどまること以外に、私には決してうまく語ることはできないだろう。
DIC川村記念美術館には、幅5メートルを超えるオリツキーの作品《高み》のみが展示された贅沢な空間がある。歴史的な関心をまったく抜きにして好きか嫌いかのみを語るのであれば、オリツキーのこの作品が生み出す清々しい沈黙の空間は、幅7メートルを超えるピカソの大作《ゲルニカ》よりも、心地よさを感じる。ピカソの《ゲルニカ》は複雑な要素から構成されていて、理解しようとその前を行き来する必要がある。各々のモチーフが断片化されているために全体の図像を把握することが難しく、白黒で塗られていてあらゆる視覚的な快を感じることを禁じられているかのようだ。ともに鑑賞する同胞がいれば、作品の前を一緒に行き来しながらそのモチーフの解釈について喜んで議論を交わすだろう。だがオリツキーの《高み》は、むしろ「考える前に感じろ」と、見る者を誘っているように感じられる。気になる細部があれば近寄ることもできるが、細部の効果が果たして何を「意味」するのか考えなければならないというプレッシャーはない。この作品について評論を書かなければならないという特殊な事情がない限りは、言葉はいらない。刻々と変化する空や海の色を愛でるが如く、画布の上の色彩の心地よい効果にただ没入する時間は、かけがえのないものだ。
だがひとたび、カラーフィールド絵画について言葉を紡ぐや、そこに驚くほど多様な見解が生まれるのだということが、加治屋さんの『絵画の解放』では詳らかに論じられていた。ミニマリズムの彫刻家ロバート・モリスは1968年の論考「アンチフォーム」で、ルイスの絵画において絵の具の流動性が提示され制作のプロセスが可視化されているのだと論じた*1。だが批評家マイケル・フリードはむしろそこには制作中の手の動きの跡が認められないのだという*2。彼にとってそれは、プロジェクターによってカンヴァスに投影されたイメージのように、人の手の介入を感じさせず、絵の具の物質性も感じさせないものだった*3。それは、フリードが師事した批評家クレメント・グリーンバーグが、1960年の文章の中でカラーフィールド絵画に寄せた見解、すなわちその「脱実体化」し「純粋に視覚的な」色彩が認められるがゆえに高く評価すべきであるとする考えと*4、大きくは異ならない。ただし二人はそれぞれにこの見解を変え、オリツキーの作品のうちに、他の感覚とは無関係に一瞬で知覚される「純粋な視覚性」以外の何かを発見することになる。グリーンバーグは1966年に、オリツキーがスプレーで吹きつけて生み出す絵の具の表面に「触覚的な連想*5」を見出している。一方フリードは、同じ画家の作品から、色彩が自己生産していくプロセスを見ているかのような体験が得られるのだとした。フリードはオリツキーの作品を見ていて、「あたかもカンヴァスの上部から流れ出て染み込んでいく過程で絵が自らを作っているかのように、絵をゆっくり見ている*6」のに気づいたのだという。
グリーンバーグによるクールベ論
そう、同じ論者でも作品の触覚性や物質性への感度は変わるのである。グリーンバーグが絵画において純粋な視覚性を評価したのは、それが文学や彫刻とは区別された、自律した芸術ジャンルとして絵画の地位を堅牢なものにしうると考えたからだ。諸芸術のジャンル間の優劣比較論争(美術史の用語ではパラゴーネと呼ばれる)をモダン・アートにあてはめた1940年の「さらに新たなるラオコーンへ向かって」において、グリーンバーグは「ほかの感覚や器官により把握できるものすべてをいずれの芸術からも排除する」ことで、各々の芸術ジャンルの「純粋性」や「自己充足性」に達成できるのだと主張している*7。音楽が触覚や視覚の助けを借りずとも、聴覚(耳)を通して直接感覚に訴えかけることができるように、絵画もまた、純粋に視覚(眼)を通して鑑賞される芸術となるべきである、と彼は考えたのである。こうして彼が描く前衛絵画の歴史は、物語を描くことよりも色彩の効果を追求した印象派の絵画に始まり、抽象絵画の出現によって一つの到達点を迎える。
つづきは、単行本『掌の美術論』でごらんください。
身体を通して、世界に触れ、世界と戯れ、世界を模倣し、そして世界とずれていく。そのずれの中にこそ、芸術の可能性は宿っている。
2026年7月2日発売
松井裕美 著『掌の美術論――触覚と想像力に』
四六判上製・352頁 本体価格4000円(税込4400円)
ISBN:978-4-326-85207-9 →[書誌情報]
【内容紹介】遊びが手触りや感覚を頼りに新たなゲームや楽しさを創造し、ときに新しい認識や価値を開いていくように、触覚を軸にした鑑賞の方法を提示する。触覚に関わる美術史を整理したうえでフェミニズムや歴史・記憶と芸術作品の関係など、現代的な問題意識を織り込んだ作品解説を通し、触覚と想像力が拓く遊戯場としての美術史を紡ぎだす。
》》》バックナンバー ⇒《一覧》
第1回 緒言
第2回 自己言及的な手
第3回 自由な手
第4回 機械的な手と建設者の手
第5回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(前編)
第6回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(後編)
第7回 リーグルの美術論における対象との距離と触覚的平面
第8回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(前編)
第9回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(後編)

