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ベルクソン 反時代的哲学

藤田尚志

 ベルクソンについてはあまりにしばしば非合理主義ということが言われてきた。「硬直した理性がしなやかな理性以上のものであることを望む」この度し難い偏見を脇目に、ペギーはすでにこう断じていた。「そうではなく、最も緻密で最も厳しいのが、しなやかな方法であり、しなやかな論理、しなやかな道徳であることは明らかである」 。ここから次のような問いが生じてくる。ベルクソンにとってこの種の新たな論理の探究が重要であったのだとすれば、なぜ彼はそれをはっきりと定式化せず、明確に規定しなかったのか?それが可能でなかったのだとすれば、それはいかなる理由によるのか?
 ベルクソンは、大胆な小説家ですらも、日常生活の論理の「根本的な不条理性」を「明示する」ことはできず、ただその「驚くべき非論理的な本性」を「推し量らせる」ことしかできない、と述べていた 。この意味で、メジャーな概念は明示しようとし、マイナーな論理は示唆しようとするものである。ささやかではあるが、厳密なマイナーな論理というものが存在する。この点をさらに詳らかにせねばならないとすれば、そのために、言語、とりわけ隠喩(メタファー)・イメージ・形象の問題に、つまりはベルクソンの「文体(エクリチュール)」という決定的な問題に取り組まねばならないことは今や明らかである。
(「序論より」)

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掌の美術論 11月 27日, 2023 松井裕美

掌の美術論
第10回 クールベの絵に触れる――グリーンバーグとフリードの手を媒介して

大学の夏休み期間を利用したフランスでの在外研究から帰国した後、職場のポストを見ると、同僚の加治屋健司さんからご献本いただいた『絵画の解放――カラーフィールド絵画と20世紀アメリカ文化』が投函されていた。この本についてはまた別の機会に別の媒体で書評を記す予定である。

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連載・読み物 11月 06日, 2023 管啓次郎

コヨーテ歩き撮り#189

この巨大な彫刻を見るとみんなが笑う。笑うときには、さくらんぼの甘みとスプーンの感触を思い出している。ミネアポリス。

On seeing this huge work of art, everybody bursts out laughing. And when they laugh, the sweetness of cherry and the feel of spoon are already in their mouth. In Minneapolis.

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掌の美術論 10月 26日, 2023 松井裕美

掌の美術論
第9回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(後編)

この連載では数回にわたり、美術史家における「触覚」をめぐる著述を紹介している。前回の記事から取り組んでいるのが次のような問いだ。すなわち、芸術理論が作品分析という実践に移されたときに、どのように特定の概念はオリジナルの意味からずらされていくのだろうか。具体例として扱っているのは、ジル・ドゥルーズの『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』(1981年)である。

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連載・読み物 10月 16日, 2023 管啓次郎

コヨーテ歩き撮り#188

アメリカはローマ帝国だなと思った。元は鉄道用だったこのアーチの橋、いまは歩行者専用。ミネアポリスにて。

The U.S. or the Roman Empire? The Stone Arch Bridge in Minneapolis, originally built for railroad in 1883, is now only for pedestrians.

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