夢をかなえるための「アントレプレナーシップ」入門 連載・読み物

夢をかなえるための『アントレプレナーシップ』入門
㉘地域活性化とアントレプレナーシップ(1)

5月 08日, 2024 高橋徳行

 
これまではアントレプレナーシップを個人や企業などの組織中心に考えてきました。しかしながら、地域という視点も大切な要素です。今回からは、地域で展開されるアントレプレナーシップ発揮の重要性と困難を紹介し、その課題を探っていきます。[編集部]
 
 
 これまでは、個人や企業などの組織に焦点を当てたアントレプレナーシップについて取り上げてきました。これからの3回は、少し視点を変えて、個人や組織ではなく、地域全体に目を向けます。戦後、わが国は1962年に全国総合開発計画を策定し均衡ある国土開発を目指しました。しかし、人口減少に苦しむ地域はむしろ増え、1970年には過疎地域緊急対策措置法が制定されました。それ以来、均衡ある国土開発と過疎対策は継続的に行われてきましたが、地域、特に地方の地域活性化という課題は重要度を増すばかりです。「地域を元気にすることとはどういうことだ?」という問いに一義的に回答することはできませんし、その手段も多様です。ここでは、地域が活力を取り戻すための方法の一つとして、アントレプレナーシップがあるという視点に立って、アントレプレナーシップが地域に求められるようになった背景、アントレプレナーシップによって地域が変わった事例を紹介し、アントレプレナーシップが、個人や組織ではなく、地域に展開される時の効果、そして課題を整理してみたいと思います。
 
インフラストラクチュアの整備・企業誘致型から地域独自の取り組みへ
 
 第1回の国勢調査が実施されたのは1920(大正9)年です。この時点ですでに東京都の人口は都道府県の中で最も多く370万人弱でした。最も人口の少ない県は鳥取県の45万人強で、東京都の約12パーセントの水準です。一方、直近の国勢調査(2020年)を見ると、第1位が東京都(14,047,594人)、最下位が鳥取県(553,407人)で順位に変わりはないのですが、鳥取県の人口は東京の人口の約3.9パーセントになってしまいました。
 
 このように、わが国の地域間格差は国勢調査が開始された大正時代から存在していたことが確認できますし、さかのぼると江戸時代も今の東京都が日本最大の都市でした。しかし、今ほどの違いはありません。
 
 戦後になっても、高度成長期になっても、この傾向は続き、さらに将来にわたっても、大きな変化は期待できそうにもありません(図表1)。
 

図表1 東京圏、三大都市圏、三大都市圏以外の人口分布(単位:%)

出所:国土交通省国土審議会政策部会長期展望委員会「国土の長期展望」中間とりまとめ(2019年)。

 
 この間、わが国では、過去5回にわたって都市と地方の格差是正を目的とする全国総合開発計画が実施されてきました。しかし、その中心的政策は、物的なインフラストラクチュアの整備です。いわゆる拠点開発方式による工場用地の整備や新幹線、高速道路、空港建設などの交通網の充実、そして規制緩和等を通しての開発促進などであり、経済活動の主体を外から呼び込むという意味で外発型の経済発展を狙ったものと言えるでしょう。
 
 一方、2014(平成26)年12月27日付で、内閣官房まち・ひと・しごと創生本部事務局長代理・内閣審議官名で通知された「都道府県まち・ひと・しごと創生総合戦略及び市町村まち・ひと・しごと創生総合戦略の策定について」では、次のようなことが述べられています。 
 
 国としては、国民一人一人が夢や希望を持ち、潤いのある豊かな生活を安心して営むことができる地域社会を形成すること、地域社会を担う個性豊かで多様な人材について、確保を図ること及び地域における魅力ある多様な就業の機会を創出することの一体的な推進(まち・ひと・しごと創生)を図るので、各自治体は、地方版総合戦略を策定し、その中では、各地方公共団体自らが、客観的な分析に基づいてその課題を把握し、地域ごとの「処方せん」を示しなさい。(下線は筆者によるもの)
 
 そして、この政策の根拠づけとなった「日本創成会議 人口減少問題検討部会」の座長を務めた増田寛也の編著『地方消滅』には次のようなことが記されています。
 
 地域によって人口をめぐる状況は大きく異なる。人口減少を食い止めるために、出生率向上に主眼を置くべき自治体もあれば、若者の人口流出の防止にこそ力を注ぐべき自治体もある。「地域の問題は、地域で決める」という考え方のもとで、地域自らのイニシアティブによる多様な取り組みを支援していくことが重要である(増田寛也編著『地方消滅―東京一極集中が招く人口急減』中公新書、2014年、43ページ)(下線は筆者によるもの)
 
 これは、経済活動やその担い手を外部に頼るのではなく、地域独自で作り出しなさいということであり、内発型の経済発展を地方に求めたものと捉えることができます。国土の均衡ある発展のための政策がここで大きく転換しました。
 
 何をいまさら(言っているのか)。
 
 これは、地方の地域で活性化に取り組んできた人たちの率直な感想です。「地域の問題は、地域で決める」方向性は、地方の地域が望んできたことであり、実践してきたことです。それを拒んできたのはむしろ中央政府でした。細川護熙が熊本県知事時代に好んで使った「バス停の設置場所を数メートル移動させるだけでも(当時の)運輸省の許可を得るのに大変な手間がかかる」は、そのことを象徴しています。
 
 「地域の問題は、地域が決める」ことによる内発型発展の重要性は、研究者の間では、高度成長期が終焉を迎える頃から盛んに議論されてきましたし、決して新しい概念ではありません。大分県の一村一品運動などの成功例もすでに誕生していました。
 
 しかしながら、わが国全体に広がる勢いは今も弱く、成功例が点在するに止まっています。この連載でも、第4回の黒川温泉の事例、第10回の岩手県沢内村(さわうちむら)(現在は湯田町と合併し西和賀町)の事例では地域活性化がアントレプレナーシップによって実現した事例を紹介しましたが、まだまだこのような地域は数少ないのが現状です。
 
なぜアントレプレナーシップが地域に求められるのか
 
 この時点で、なぜ、いわゆる物的基盤整備や企業誘致は駄目なのか、北陸新幹線が敦賀まで延長されて福井県は賑わっているではないか、半導体企業誘致に真剣に取り組んでいる自治体のことはどのように考えれば良いのか、過去の失敗ばかり見ていても仕方がないのではといった疑問を持たれる人もいるかもしれません。
 
 もちろん、その通りです。
 
 物的基盤整備や企業誘致が可能で、かつそのことが地域活性化に貢献する地域が存在することを否定したりはしません。しかしながら、全国の数多くの地域は、ある意味、新幹線が開通したり、企業が進出したりするところではありません。さらに、そのような他者依存型の地域活性化のマイナス面も知っておく必要があります。
 
 図表2は、地域にある企業を4つのタイプに分類したものです。
 
 第1は、資本や本社機能がその地域の「外」にあり、かつ地域の「外」の顧客を対象にしている企業です。典型的な例は、観光産業であれば外資系や地元以外の資本の大規模ホテルやレンタカー事業所、製造業であれば東京などの大都市に本社を置き、生産されたものを地域の外にある顧客に販売している企業、例えば半導体製造業などが相当します。これらは「外―外企業」と名付けられるものです。
 
 第2は、資本や本社機能が地域の「内」にあり、地域の「外」の顧客を対象としている企業グループです。典型的な例は、地元企業が経営するホテルや民宿であり、地元の名産を観光客に販売したり、地域の「外」に販売している企業が相当します。これらは「内―外企業」と名付けます。
 
 第3は、資本や本社機能が地域の「外」にありながら、地域の「内」の顧客を対象としている企業グループであり、具体的には地域外に本社を置くスーパーマーケットチェーンや外食チェーンが相当します。これを「外―内企業」と呼べるものです。
 
 第4は、資本や本社機能が地域の「内」にあり、かつ地域の「内」の顧客を対象としている企業グループです。具体的には、商店街の一般的な商店や飲食店、個人経営のクリーニング店などの個人向けサーピス業が相当します。これらは「内―内企業」と呼ぶことにしましょう。
 

図表2 地域の企業の4類型

資料:杉岡碩夫編著3『中小企業と地域主義』日本評論社、1973年を参考に筆者作成。

 
 どのタイプを選択するのかは地域の自由です。ただし、「内―内」型もしくは「内―外」型を求めるのであれば、アントレプレナーの存在は不可欠です。また、地域の意思をより反映させるには地域の「内」に資本・本社機能を持つことが必要です。企業城下町において、企業が撤退する、まだまだ買い物客がいるのに採算が取れなくなると素早く撤退するスーパーマーケットも少なくありません。東日本大震災の後、筆者は南相馬市(福島県)を訪ねることが多かったのですが、いちはやく営業を再開した飲食店は地元の人が経営するお店ばかりであったことをよく覚えています。
 
高知県馬路村の取り組み
 
 次に、地域活性化におけるアントレプレナーシップの役割、イメージを持っていただくために、事例を紹介します。
 
 地域の場所は、高知県馬路村です。馬路と書いて「うまじ」と呼びます。高知県東部の山間地に位置しており、高知市から車で約2時間の距離にある人口800人弱の小さな村です(図表3)。
 
 アントレプレナーは、今年の3月まで馬路村農業協同組合の組合長を務めていた東谷望史(とうたに もちふみ)さんです。ただし、東谷さんがアントレプレナーとして活躍し始めた時は、まだ課長でした。
 
 今でこそ、東京のスーパーマーケットでも見かけるようになった馬路村のゆず関連商品(図表4)ですが、そもそも昭和40年以前は村に柚子が植えられていませんでした。そこに柚子が植えられるようになり、昭和50年以降は、柚子を搾汁した「柚子しぼり」(柚子100%)などの製品を開発したものの、売上高は昭和50年代後半も年間3,000万円から4,000万円程度にとどまり、事業としては赤字でした。
 
 しかし、地道に催事活動などを通して、柚子関連商品の販売を行っていた農協の一職員である東谷望史さんの奮闘によって、今では年商30億円(村民一人当たりの年商が約375万円)という村の中心産業にまで成長しています。運営組織の形態は農協ですが、まさに地域の課題をアントレプレナーが中心となって地域課題を解決し、図表2における「内-外」型の産業を作り出した事例です。
 
 アントレプレナーシップの関連で、馬路村の事例を考える時に大切なポイントは二つあると思います。
 
 一つは、馬路村の主要産業が林業であったことです。馬路村の立地から考えてもわかるように、ここは森林資源が豊かで、森林鉄道も走っていました。確かに、柚子が栽培され、その加工品が生産され販売するようになった頃には、かつての勢いは失われていましたが、村の中で力を持っていたのは森林組合であり、農業組合ではありませんでした。海のものとも山のものともわからない柚子加工品を売り出そうとしても、村の有力者全員が賛成という状況ではなかったことは想像に難くありません。この取り組みを取り巻く外部環境に着目する必要がありますし、似たような環境に置かれながら地域活性化に取り組む地域も少なくありません。
 

図表3 馬路村の場所

出所:グーグルマップ

 

図表4 馬路村の定番商品「ゆずぽん酢」と大ヒット商品「ごっくん馬路村」

出所:馬路村農業協同組合のHP(https://www.yuzu.or.jp/products/detail.php?product_id=674)より。

 

図表5 馬路村の主な出来事

資料:筆者作成。

 
東谷さんのアントレプレナーシップ
 
 もう一つは、東谷さんの行動です。彼の販売活動の出発点は、この当時、同じ境遇にあった市町村の担当者と同様に、デパート等における催事販売でした。デパート等で1週間くらいの限られた期間、一定のスペースを与えてもらい、ワゴンなどを使った特設売り場で特産品の販売を行うというものです。
 
 特産品の多くは、品質に比べて価格も手ごろという意味で価値のある商品であるため、実際に手に取ってもらい、試食等をしてもらう機会に恵まれれば、ある程度の売上を確保できる可能性は高いのですが、その機会を得るのは簡単ではありません。一見すると同じような特産品が、すぐそばにたくさん置いてあるからです。
 
 村の名前の読み方もわからない。ゆずという作物も東京や大阪では馴染みが薄い。その中で、商品を手に取ってもらい売上につなげるのは容易ではなく、東谷さんも1日の売上がわずか5,000円という日を経験しながら悪戦苦闘を続けていました。
 
 最初の転機は、1980年の神戸大丸で催事販売をしている時です。いつものとおりに苦戦している時に、馬路村出身の神戸大丸の人が売り場にやってきて、人の流れが多い場所に移動させてくれたのです。その結果、1週間で120万円以上の売上を計上することができました。
 
 ここで確認しておきたいことは、売れた時も売れなかった時も、販売しようとした商品は同じであったことです。商品は同じでも、また同じデパート内でも、場所が違うだけで売行きがこれほどまでに変わるのです。
 
 しかし、これが契機となって、売上が継続的に伸びたかといえば、そのようなことはなく、神戸大丸以外のデパートでは引き続き厳しい戦いが続きました。
 
 「ごっくん馬路村」は、ゆず果汁とはちみつ入りの清涼飲料水であり、値段は1本100円(当時)でした。今では年間600万本近く販売されている馬路村農協の主力商品となっています。
 
 1988年に開発された当初は、催事を除くと、通信販売が唯一の販売方法でした。しかし、1本100円の商品が通信販売で多少売れたところで利益は出ません。それが悩みの種でした。
 
 しかし、東谷さんは、ここで県内のマーケットに目を向けました。村長を口説いて、テレビCMの予算を確保し、連日、県内のテレビにスポット広告を流したのです。その結果、お店にやってくる消費者にお店の人たちが促されるようになり、馬路村農協に注文が入り始めました。
 
 県内での知名度の高まりがきっかけになり、次第に全国に市場が広がったのです。
 
 東谷さんは当時を思い出して次のように語っています。
 
 1本100円の商品を、通販で少しずつ売っても駄目だと思った。この商品で採算を取るために、まとまった量の販売を短期間で達成する必要があった。そのために、県内に的を絞ったテレビCMを行い、県内の流通チャネルに働きかけた
 
 この時は、ぽん酢しょうゆ「ゆずの村」が西武百貨店が主催する日本の101村展で最優秀賞を取っており、通信販売もある程度軌道に乗っていましたが、東谷さんは、「ごっくん馬路村」の単価を考え、県内チャネルでの販売を狙ったのです。
 
 高知市からも車で2時間という場所に立地する馬路村は、良い商品を開発することは当然として、開発した良い商品をいかに買ってもらうかがポイントです。ポイントというか、考えざるを得なかったテーマです。
 
 催事販売が主体の時に、通信販売を行っても、ほとんど注文は来なかったでしょう。また、固定客が増え始め、通信販売が少し本格化した時点とはいえ、この時点で「ごっくん馬路村」を通販で売るほどの力は、馬路村農協にはありませんでした。
 
 その時々の知名度や販売する商品に応じて、適切なチャネルを見極めてきた取り組みは、新しい商品開発だけに目を奪われがちなアントレプレナーにとって、学ぶべきことが多いものです。
 
 
 アントレプレナーシップの関連で、馬路村の事例を考える時に大切なポイントは二つと紹介しました。その中の後者は、もしかすると、個人や企業単位で展開されるアントレプレナーシップとあまり違いはないかもしれません。しかし、前者は違います。地域の中でアントレプレナーシップを展開する時の大きな特徴は、同じ地域の中で、目標(地域を元気にしたい)は同じなのに、手段(林業で活性化したいのか農業で活性化したいのか)が必ずしも同じではないということです。
 
 総論賛成、各論反対といった感じでしょうか。これが企業の中でしたら、「俺の方針に従えないのなら出ていきなさい」とでも言えますが、地域ではそうはいきません。その違い、その難しさを理解し、克服できないと、地域でのアントレプレナーシップの発揮は難しくなります。
 
 次回は、企業や組織単位でのアントレプレナーシップと地域単位でのアントレプレナーシップの違いに着目しながら、この問題を掘り下げていきたいと思います。
 
》》》バックナンバー
①日本は起業が難しい国なのか
②起業活動のスペクトラム
③「プロセス」に焦点を当てる
④良いものは普及するか
⑤Learning by doing
⑥連続起業家
⑦学生起業家
⑧社会起業家
⑨主婦からの起業
⑩ビジネスの世界だけではない
⑪不思議の国の企業活動:「日本」
⑫なぜ第一歩を踏み出せないのか
⑬起業後のリスクや不確実性への対応
⑭起業家になるための能力・起業家に求められる能力(1)
⑮起業家になるための能力・起業家に求められる能力(2)
⑯アントレプレナーシップは私たちの世界に何をもたらすのか:起業活動の社会的意義とは何か
⑰アントレプレナーとは誰なのか
⑱市場を生き抜く「強さ」とは何か
⑲アントレプレナーを育てることは可能なのか
⑳アントレプレナーの資金調達(1) 
㉑アントレプレナーの資金調達(2) 
㉒アントレプレナーの資金調達(3) 
㉓アントレプレナーの資金調達(4) 
㉔アントレプレナーの資金調達(5) 
㉕起業家教育が目指すこと(1) 
㉖起業家教育が目指すこと(2) 
㉗計画が先か、行動が先か 

高橋徳行

About The Author

たかはし・のりゆき  1956年北海道生まれ。1980年慶應義塾大学経済学部卒業。同年国民金融公庫(現日本政策金融公庫)入庫。1998年バブソン大学経営大学院(MBA)修了。2003年より武蔵大学経済学部教授。2015年より同大学経済学部長(2017年まで)。2022年より同大学学長。主著は、『起業学の基礎』(勁草書房)、『アントレプレナーシップ入門』(共著、有斐閣)などがあり、訳書としては『アントレプレナーシップ』(共訳、日経BP社)などがある。日本ベンチャー学会清成忠男賞審査委員長、日本中小企業学会幹事、企業家研究フォーラム理事、グローバル・アントレプレナーシップ・モニター(GEM)日本チームリーダーなどを兼任。