憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第1回 現実感覚

12月 10日, 2019 長谷部恭男

 
憲法学者の長谷部恭男さんが、けいそうビブリオフィルにご登場です。歴史や文学、哲学、科学などなど、あちこち寄り道しながらの書き下ろし憲法エッセイをどうぞお楽しみください。[編集部]
 
 
 
 アイザィア・バーリン*1に「現実感覚 The Sense of Reality」という論文がある。同名の彼の論文集の巻頭に収められている。「現実感覚」という概念は、トルストイの歴史哲学を論じた『ハリネズミと狐』*2の第6章「科学と現実感覚」にも現れる。現実感覚への深い関心と共感が、ジョセフ・ドゥ・メーストル*3とトルストイという、立場の全く異なる二人の思想家を結びつけている。
 
 ドゥ・メーストルについて言えば、それは理性的な推論や批判、科学的分析と対比される実際的な知恵である。
 
 この世の中で何が起こらざるを得ないのか、何はなし得べきもないことなのか、何であれば達成でき、何であれば失敗に終わらざるを得ないのか、確かな理由を挙げることも証明することもできないにもかかわらず、そうした事柄を見抜くことのできる感覚。それが現実感覚である。
 
 それは人間とは何か、物事とはいかにあるものか、自然の法とは何かに関する感覚であり、仰々しい民主的な権利宣言や憲法のテクストによって明らかにされるものではない。時の試練を経て幾世紀も生き残った偏見と迷信の集積である教会と神への信仰に身をひたすことによってはじめて獲得することができる感覚である。
 
 トルストイが『戦争と平和』で説いていることも、さほどは異ならない。もちろん、彼はこの著作で、神への信仰の価値について説いてはいない。ドゥ・メーストルがモデルではないかと言われることもあるジェズイット*4の神父は相当にかがわしい人物として描かれている。
 
 しかしトルストイも、この世における物事の進展は、理論や体系的分析によっては説明できないと考える。
 
 ものごとのありようや結果を決めているのは、膨大な数のこまごました原因の組み合わせであって、その大部分についてわれわれは無知だからである。彼はときおり、世の中の変化のありようを顕微鏡のように、その究極の微細な因果の単位にまで分析し、それらを集積することで、いわば「微分と積分」とを行うことで、歴史は説明できるかのように語ることがある。多種多様なことがらを顕微鏡的に分析する能力、つまり狐としての分析能力が彼の小説を偉大なものとしている以上、そう言いたくなるのも不思議ではない。
 
 しかし、バーリンによれば、これはトルストイを根底的に支えている考え方ではない。
 
 ロシア軍の総帥、ミハイル・クトゥーゾフ*5は、くだらない小説を読みふけり、女性へのあくなき関心がありつつも、なお賢者として描かれる。それは、彼がこの世を動かす無数のこまごました原因が何かをことごとく知り分析し尽くしているからではない。軍事に関する科学法則に通暁し、理論分析に優れていたからでもない。
 
 ボロジノの会戦*6にロシア軍将校として参加したクラウゼヴィッツは、ナポレオンを倒す上で何の役にも立たない「台所の生ゴミ」同様の理屈で頭をいっぱいにしたドイツ人として描かれている。「ヨーロッパ全体をナポレオンに手渡しておきながら、われわれに何を垂れようというのか」と、アンドレイ・ボルコンスキー*7は語る。
 
 クトゥーゾフに備わっていたのは、無数のものごとの間に織りなされる永遠の関係、いつの世も人間生活を構成する常識的なごく普通の多くのことがら、さらにはその折々での人の感情、情緒、願望、欲求のありようを明敏に感じ取る能力である。
 
 こうした能力を通じて彼は、なぜロシア軍はモスクワをフランス軍に明け渡すべきなのか、なぜフランス軍はいずれ撤退せざるを得ないのか、なぜロシア軍はフランス軍の退路を断ち、分断した上で決定的打撃を加えようとすべきではないのかを感じ取ることができた。
 
 こうした膨大な物事は、明示的に言説化されることは稀である。
 
 一方では、それらはその時々の具体の状況や脈絡の中でゆれ動き現れては消えるはかない事実にすぎないからであり、他方では、わざわざ言説化するまでもなく、当然のこととして人々が心得、従っている風習や慣行、考え方や行動の仕方であるために。
 
 人間生活、社会生活の大部分を構成しているこうした物事は、それゆえ、体系化もされず理論的分析の対象にはならない。批判の対象ともならない。そもそも言説化もされない以上、当然である。
 
 世の中を動かしているのは、こうした理論化も言説化もされることのない膨大な物事である。
 
 それは、自然科学と社会科学との違いをも説明するとバーリンは言う。
 
 自然科学は、この世界の自然現象は包括的かつ明確に説明し予測することが──原理的には──可能だと想定している。すべての現象は観察され、厳密に理論化され、論理的に体系化される。経験的事実との合致が、その有用性を証明する。今現在、すべての自然現象をことごとく説明しつくせるわけではない。しかし、いつかはそれにたどり着くことも可能かも知れない。少なくとも各研究者の専門領域に関しては。
 
 他方、社会科学はそうした想定をそもそもしていない。することができない。
 
 もちろん、社会科学の各分野ではさまざまな著名な法則や理論が知られている。しかしそうした法則や理論は、人間生活、社会生活全体から見れば、ほんのわずかな部分、わずかな側面を説明するにすぎない。
 
 多くの学派が社会生活の多様な側面の重要性を指摘してきた。モンテスキューは各国の法制が、マルクスは人々の置かれた経済状況が、デュルケムは人々の共有する社会意識が、フロイトは個々人の不合理な無意識が、それぞれ持つ重要性を指摘した。異なる視点から社会生活の多様な相貌が描かれてきた。そうした多様な分析は、社会生活のあり方にも影響を与えてきた。
 
 しかしいずれの学派も、社会生活の全体を理論的に解明したわけではない。分析され描かれているのは限られた視点からの限られた側面である。社会生活上のあらゆる経験的事実がこれらの理論と合致するわけでもない。フロイトだけで、マルクスだけで、人は現実の世界を生きることはできない。フロイトやマルクスも、彼らの提示した理論だけを頼りに人生を送ったわけではない。
 
 この世の中を説明し、この世の中を生き抜く術を人に与えるのは、むしろ、膨大な言説化されることもない物事の存在を感じ取り、それに寄り添って生きる感覚、つまり現実感覚である。
 
 人々が、日々意識することもなく所与の前提とする膨大な物事は、社会により、時代により根本的に変化する。18世紀のフランスで通用した現実感覚が現代の日本でも通用するかのように語ることは、時代錯誤である。実現されるべき将来をモデルに現実を批判することは、現実逃避である。
 
 しかし、人々の現実感覚は、必ずしも同じ社会、同じ時代であれば同じだというわけではない。異なる現実感覚が劇的に衝突し、革命的変動が生起することもある。
 
 他方、事実から当為は生まれない。
 
 多くの人々に共有される現実感覚が、そして現実感覚に浸されたわれわれのことばの使い方が、性差別や民族差別の意識によって傾斜がかかっていたり、全体の空間が奇妙にゆがんでいたりすることもある。
 
 そうした傾きやゆがみを指摘するのも、社会科学の使命の一つである。
 
 しかし、全体が体系化されているわけでもなく、理論的分析の対象となっているわけではない以上、すべての傾きやゆがみを正確に指摘することは、これまた無理な相談である。
 
 「客観的」に言って、傾いているのか、ゆがんでいるのか、それ自体も、その時々に確定できるわけではない。中空に浮かんだまま、傾いているのか、ゆがんでいるのかを判定することは容易ではない。社会科学に可能なことには、本来的に限界がある。
 
 それが人の生きるこの世のあり方である。
 
 限られた側面の分析にすぎない理論を梃子に社会生活全体を改革しようとする空想的試みがいかに悲惨な帰結をもたらすかは、スターリン、ヒトラー、毛沢東が例証している。
 
 現在の日本で「保守」と呼ばれている人々は、現実感覚を備えた人々であろうか。むしろ表面的な、社会や経済のごく一側面に関する「理論」や社会に広く深く根付いてもいない「伝統」なるものに沿って、人の生き方や社会のあり方を自分たちの思う通りに変えられると無邪気に信じている人々の集まりのように見える。
 
 それは本来の保守とは対極にある態度である。
 


*1 アイザィア・バーリン Isaiah Berlin(1909年6月6日-1997年11月5日) イギリスの哲学者。オックスフォード大学教授。
*2 『ハリネズミと狐』 河合秀和訳、1997年、岩波文庫。https://www.iwanami.co.jp/book/b246892.html
*3 ジョセフ・ドゥ・メーストル Joseph-Marie, Comte de Maistre(1753年4月1日-1821年2月26日) フランスの思想家、外交官。
*4 ジェズイット イエズス会のこと。
*5 ミハイル・クトゥーゾフ Mikhail Illarionovich Golenishchev-Kutuzov(1745年9月16日-1813年4月28日) 帝政ロシア時代の軍人・外交官。
*6 ボロジノの会戦 ナポレオン戦争のうち、1812年にモスクワ西方のボロジノ近郊で大陸軍とロシア軍との間で行われた戦い。
*7 アンドレイ・ボルコンスキー 『戦争と平和』の登場人物。公爵家長男の青年士官。

 
》》》バックナンバー
第1回 現実感覚
第2回 戦わない立憲主義
第3回 通信の秘密
第4回 ルソー『社会契約論』における伝統的諸要素について
第5回 宗教上の教義に関する紛争と占有の訴え
第6回 二重効果理論の末裔
第7回 自然法と呼ばれるものについて
第8回 『ペスト』について
第9回 「どちらでもよいこと」に関するトマジウスの闘争

長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第7版』(新世社、2018年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。