憲法

憲法学の散歩道
第34回 例外事態について決定する者

 カール・シュミットは『政治神学』の冒頭で、「主権者とは、例外事態(Ausnahmezustand)について決定する者である」と断言する。Ausnahmezustandは、非常事態と訳されることもある。  引き続いてシュミットは、主権概念は限界概念(Grenzbegriff)であるとする。限界概念とは、比喩的に言えば、遠近法の消失点である。われわれが暮らす、この世界だけが実在する世界だと思われている日常的な世界と、そんなものが存在するとは思ってもみなかった、尋常ではない外側の世界とを連絡する概念である。……

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第33回 わたしは考える?

「憲法学の散歩道」書籍化第2弾『歴史と理性と憲法と』が2023年5月1日に発売となりました。第32回までの連載分に書き下ろし2章分が加わり、長谷部さんならでは散歩道を進むと意外かつ奥深い世界が開けてきます。そして、お待たせしました。第3シーズン、はじまります。[編集部] 第33回 わたしは考える?  ルネ・デカルトは1596年3月31日、トゥレーヌ地方のラ・エ(La Haye)で生まれた。この町は現在ではデカルトと呼ばれる。父親のヨアヒムは高等法院付きの法律家で、親類の多くは法律家か医師であった。……

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第32回 道徳理論の使命──ジョン・ロックの場合

 ジョン・ロックは1632年8月29日、イングランド南西部のサマセットに生まれた。父親は治安判事の書記や弁護士として働いた法律家で、1642年に議会とチャールズ1世の間で戦闘が開始されると、議会側の軍に参加した。ロックは父親が仕えた治安判事の推挽でロンドンのウェストミンスター校に入学し、さらにオクスフォードのクライスト・チャーチ・コレッジに進学した。1684年に除名されるまで、彼はクライスト・チャーチに籍を置くことになる。……

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第31回 高校時代のシモーヌ・ヴェイユ

 シモーヌ・ヴェイユは、截然として容赦がない。彼女によると、「哲学の適切な方法は、解決不能な諸問題のあらゆる解決不能性を明晰に理解し、ただそれらを熟考することである。じっとたゆむことなく、年月を経ても、希望を抱くこともなく、辛抱強く待ちつつ。この規準に照らすと、本当の哲学者はわずかしかいない。わずかならいるとさえ言いがたい。……」

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第29回 憲法学は科学か

 明治時代の日本は、ドイツから2つの憲法原理を輸入した。君主制原理と国家法人理論である。君主制原理は、天皇主権原理とも呼ばれる。ごく単純化して言うと、上杉慎吉が唱導したのは君主制原理であり、美濃部達吉が唱導したのは国家法人理論である。  君主制原理は、国家権力はもともとすべて、君主(天皇)が掌握しているとする。しかし、国家権力を君主が実際に行使する際は、君主が自ら定めた憲法(欽定憲法)にもとづいて行使する。大日本帝国憲法のもっとも核心的な条文である第4条は、次のように定める。……

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第28回 法律を廃止する法律の廃止

今回は、少々頭の体操の様相を帯びている。新世社から刊行されている拙著『憲法』は、現在第8版である。その448頁に次のような括弧書きの注釈がある(章と節の番号で言うと14.4.5)。 もっとも、19世紀半ばまでのイギリスでは、ある法律を廃止する法律が廃止されると、元の法律は復活するという法理が通用していた。法令の「廃止」がどのような効果を持つかは、個別の実定法秩序が決定する問題であって、概念の本質や論理によって一般的に決まる問題ではない。  これは、いわゆる違憲判決の効力論に関する注釈である。違憲判決の効力という標題の下で通常議論されているのは、法令違憲の判断が最高裁によって下された場合、その法令の身分はどうなるかである。……

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第27回 ボシュエからジャコバン独裁へ──統一への希求

 ジャック・ベニニュ・ボシュエは、フランス絶対王政のイデオローグとして知られる。  ボシュエは1627年、ディジョンの司法官の家柄に生まれた。イエズス会の教育を受けた後、メスの司教座聖堂参事会員となった彼の説教師としての声望は次第に高まり、1669年にコンドムの司教となり、さらに1670年にはルイ14世の王太子付きの指導教師となった。1680年に指導教師の務めを終えた彼は、1681年にモーの司教となった。マルブランシュ、ピエール・ジュリウー、フランソワ・フェヌロン等と論争を繰り広げた彼は、「モーの鷲l’Aigle de Meaux」と呼ばれた。……

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第26回 『アメリカのデモクラシー』──立法者への呼びかけ

 アレクシ・ドゥ・トクヴィルは、ノルマンディーの貴族の家系に生まれた。両親はフランス革命時の恐怖政治下で投獄され、ロベスピエールの失脚がなければ処刑されるところであった。父親は王政復古後の体制で各地の県知事(préfet)を歴任した。  トクヴィルは、3人兄弟の三男として1805年に生まれ、パリ大学で法律を学んだ。1827年には、陪席裁判官(juge auditeur)に任命されている。司法官としての彼の経歴は、1830年の7月革命で中断される。  神の摂理により、フランスにおける権威のすべては国王の一身に存すると前文で宣言する1814年憲章に代わって、1830年憲章は、フランス人の王(Roi des Français)は即位に際し、両院合同会議において、憲章の遵守を誓うものとした(65条)。権力の重心は、王から代議院へと移った。  やむなく新体制への忠誠を誓ったトクヴィルは、しかし、自費でアメリカの行刑・監獄制度の視察に赴きたいと上司に願い出た。……

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