掌の美術論 第19回
顔に触れる――彼女たちの仮面を介して(前編)

About the Author: 松井裕美

まつい・ひろみ  東京大学大学院総合文化研究科准教授。博士(美術史)。専攻は、フランスを中心とする近現代美術。著書に『キュビスム芸術史:20世紀西洋美術と新しい<現実>』(名古屋大学出版会、2019年)、翻訳にデイヴィッド・コッティントン『現代アート入門』(名古屋大学出版会、2020年)など。
Published On: 2024/9/2By

 
 

顔に触れる――彼女たちの仮面を介して(前編)

 
 
ナルキッソスの絶望に触れる――水面を介して
 
 好きな仮面を好きな時にかぶることができれば、とても楽だ。それは本当の感情を隠し、演じられた人格ペルソナのみを人々に見せる。だが仮面が剥がれなくなってしまうことほど恐ろしいものはない。なぜなら人は、「自分とは誰か」ということを確認するとき、人の目に映った自分の姿について問わずにはいられないからだ。向かい合う人の目に映った仮面が本当の自分になったりしたら、仮面が隠していたはずの真実の自分(そんなものがあれば、だが)は果たしてどこにいってしまうのか。仮面の下に確かに存在したはずの自分の顔が、気づけばなくなってしまっていた時の絶望たるや、いかほどのものだろう。他にも仮面にまつわる悲劇的な状況はあるだろう。最初から自分の手のうちに用意された仮面が満足のいかないものばかりである時の失望(つまり選択肢の欠如)。人の目に映った自分の仮面が、自分が想定していた見かけと違った時の不快感。
 
 仮面をめぐるこうした恐れは、おそらく根源的なものだ。ジャン=ピエール・ヴェルナンに倣って、古代ギリシアの神話から二つの逸話を取り上げよう。まずは「ゴルゴーンの仮面」。ゴルゴーンは恐ろしい顔をした怪物で、その姿を見た者は我が身を滅ぼす危険に晒される。「ゴルゴーンの仮面」は常に正面から描かれている。つまり見る者はそれと正面から向き合わねばならない。こうして怪物の顔を凝視した者は、視線で射すくめられ、自分自身から引き離され、そして自分自身の眼差しを奪われる。ゴルゴーンは異界の存在であり、その仮面はこの世の生を授かる者の顔ではないために、この仮面を見て眼差しを奪われ、命を危険に晒す者は、自己喪失の中で仮面が属する死の世界に近づき一体化する状態にあるのではないかと、ヴェルナンは考えた。ヴェルナンによればこの時、仮装行列中に体験するある種の憑依のような現象が生まれるという。「異界の力はあなたを捉え、あなたの顔つき、仕草、声などをまるごと模倣する」、つまり「顔に仮面がぴったりと重なる」。こうして「自分であるということがわからなくなる」と、異界の力と一体化することになるのだが、そこには同時に「激しい違和感」がある*1。ヴェルナンは、この違和感を、絶対的他者との一体化により消滅した自己、つまり「幽霊となったあなた自身」の鏡像を見る感覚に結び付けてもいる。
 
 では、こちらを正面から捉える仮面が、絶対的な他者ではなく自分の顔の場合であればどうか。その例としてヴェルナンが取り上げる逸話の一つがナルキッソスである。水面に映った自己の姿に恋焦がれたこの美青年は、「私が私の体を所有しているので、私を抱くことはできない*2」と絶望する。鏡に映った自己は、幽霊や分身と同様に「客体化された主体の顔*3」であり、もはや自分自身ではない。結局、水面の反射を覗き込んで、そこに映る自らの姿と同一化するためには、「自分を失くし、自分を無にして」、「自分の内部から他者に」なるしかないのだと、ヴェルナンは言う*4
 
 ならば最初から仮面など脱いでしまえばよいし、水面や鏡や人の目といった、自己イメージを反射によって送り返してくる平面を覗き込まなければよい、と思う方もいるだろう。だが私たちは皆、既存の社会や文化の中で生を授かっている以上、多かれ少なかれ、生まれてまもなく必然的に何らかの仮面を被らされることになる、とは言えないだろうか。
 
 こうした問いは、とりわけ20世紀の芸術家たちにとっての一つの課題となってきた。仮面を脱ぐことができないのなら、与えられた仮面を相対化するために、鏡の前で次々に仮面を入れ替えて、そのイメージをシリーズ化して人々に披露すればよい。メリットは仮面を選ぶ自由を手にすること。デメリットは自分が消滅する危険を引き受けること。
 
 マルセル・デュシャンは多くのポートレート写真によって自己像を増幅させるのみならず、ローズ・セラヴィという名の架空のブルジョワ女性に仮装して自己の分身としての位置付けを与え、1942年の『ファースト・ペイパーズ・オブ・シュルレアリスム』図録では写真家ベン・シャーンが撮影した合衆国アーカンソー州の貧しい中年女性を自身の「偽の肖像」として選ぶことで、ジェンダーも階級も超えた仮面を手に入れようとした*5。だから私たちは、彼の作品に触れようとしても、なかなか仮面の向こうの素顔に触れることはできない。デュシャンには確信犯的なところがある。彼は「いつも自分自身から離れようと意図して」おり、そのために「自分自身を利用した」のだと、晩年に語っている。彼はその実践を「私(I)と自分(me)とのあいだのちょっとしたゲーム」と呼んでいた*6
 
 やがてそうした試みは、シンディ・シャーマンをはじめとする戦後の女性たちにとっては、自我の消滅という差し迫ったリスクを払ってなお挑むべき、規範化された「女らしさ」のレッテルとの戦いの手段となっていく。シャーマンは映画の一場面に登場するような典型的な女性像を演じたセルフ・ポートレートの連作《無題のフィルム・スチル》によって、虚構の世界で強化される「女らしさ」のイメージの人為性を強調した。問題とすべきは、あまねく女たちに「女らしさ」を強要する社会規範だけでなく、「〜らしさ」に宿るあらゆる本質主義的な社会通念でもあった。例えば1980年代以降の森村泰昌のセルフ・ポートレートは、名画に変装する自己を通して、西洋文化と日本文化の狭間で芸術実践を行う自らの、アイデンティティを問う試みであった。さらに、自らの身体を外科手術によって改造し、ジェンダーや人種の概念までも曖昧にする体を手に入れようとするオルランの1990年以降の試みは、「芸術を人生と同一化させ*7」、身体をレディメイド的に扱いながら手を加えていくという、過激なものだった。同時にそれは、レディメイドの発案者であるデュシャンの「ちょっとしたゲーム」よりもずっと大きな身体的負担を、オルランに課した。
 
 そうした一連の取り組みの狙いは、「顔に仮面がぴったりと重なる」こと(ヴェルナンの語る「ゴルゴーンの仮面」の恐ろしさ)に抵抗するために、自己を鏡に映して客体化させる(ナルキッソスを絶望に導いた行為)だけでなく、万華鏡のように姿を七変化させすることで、芸術家たちの素顔を見ようと鏡を覗き込む鑑賞者たちを、混乱させることにある。鑑賞者の目は、芸術家たちが覗き込むもう一対の鏡だ。芸術家は、作品を見る者の目に映る自分の姿が一貫性に欠けており、混乱していればいるほど、自らが手にした選択の自由の広さを実感することができるだろう。
 
 芸術家たちの「私と自分とのあいだのゲーム」を、あえて虚構の次元のみで享受することも一つの作品鑑賞のあり方である。仮面の下にどんな顔があるのかあえて知ろうとせず、七変化する仮面だけを楽しむことは十分可能だ。だがここで私は、複数回の記事にわけて、多くの仮面を映す万華鏡のような絵画作品を覗き込み、仮面の下の生身の身体について考えてみたいと思う。
 
 すでに没した芸術家の素顔に触れる方法には二つある。一つは伝記的事実を積み上げて、生活の様子がわかる些細なエピソードもできるだけ漏らさないようにその人生を再現することで、その人となりを知ること。だがこの方法を主軸に据えることは、仮面というテーマを扱う場合には必ずしも最適とはいえない。なぜなら作品の理解よりも伝記的事実の記述を優先してしまうことで、芸術家たちが作り上げた仮面が、その人生を知るための単なる情報となってしまう危険性があるからだ。そうすると芸術家たちを魅了した仮面の魔力は、完全に悪魔祓いされてしまう。それゆえここではもう一つの方法に軸足を置く。それは芸術家たちが作品に表れる仮面を介して世界を見るために開けた眼孔の穴から指を差し込み、触れうる限りの範囲で触れてみる、という方法だ。この場合、私たちが作者の素肌に触れることができたとしても、その範囲はごくわずかである。また眼孔のありかを探るためには、ある程度の伝記的事実も必要となるだろう。だがこの方法を主軸とする限り、仮面は、単なる情報として無力化されてしまうことはなく、仮面をつける者にもそれを見る者にも自己消滅をもたらす恐るべき力を保持したまま、まさにそのことによって、私たちを芸術家たちの身体性と結び付ける媒介となる。
 
 とりわけ、これから3回に分けて論じる記事で注目するのは、女性たちの仮面である。女性たちはしばしば、作り手であり続けるために、あるいは作り手となって社会の攻撃からその素顔を守るために、仮面を必要とした。だがその使用用途は、それぞれの芸術家の戦略のありようによって異なる。彼女たちは仮面を武器にして、どのような戦略をとり闘っていたのだろうか。そのことによって抱える自己喪失のリスクには、どのように対処していたのだろうか。今回の記事ではまず、メアリー・カサットの作品を取り上げ、「女らしさ」の仮面をテーマとする彼女の作品を取り上げる。
 
カサットの鏡を覗き込む
 
 個人的な話から始めることをお許しいただきたい。私は20代前半の頃、メアリー・カサットを人気画家たらしめた、彼女の描く母子像が、どうも苦手だった。カサットが、見られる女性だけでなく見る主体としての女性の眼差しを絵画の中で取り上げ、フェミニズム的な美術史においてほとんどカリスマ的な位置付けを与えられていることは理解していた。またそうしたテーマが、母子以外の主題の絵においても顕著であることも知っていた。それでも当時の私には、「あなたもいつかこんなふうに良き母親になりなさい」という耳の痛い説教が聞こえるような、子供の世話を焼く母親の姿の印象があまりにも強烈で、自分を何かから解放してくれるようなメッセージを彼女の絵から受け取ることができなかった。当時の私にとっては、カサットが描く母子像は「良き母親」という仮面への一体化を強要する紋切り型のイメージでしかなく、そこに確かに表現されていた、小さき者をケアする時の肌の触れ合いの感覚を、汲み取ることができなかったのだ。
 
 それはグリゼルダ・ポロックとロジカ・パーカーが『女・アート・イデオロギー』の中でも触れている、カサットの作品を取り巻くよくある誤解である。カサットは女性解放運動の支持者であったが、「ブルジョワ家庭に生まれ、[……]家庭という領域、家族の中において女が辿る少女・母親・年配の女性といった女の人生の諸段階を数多く描いた」ために、「支配的なイデオロギーに対する強い批判とは理解されず、むしろそうしたイデオロギーの強化に利用されてきた*8」のである。
 
 私自身はいつからか、親子の親密な身体の触れ合いがカサットの絵において、いかに生き生きと独創的に描き出されているのか理解するようになり、彼女の絵と正面から向き合うことができるようになった。子育ての中で一瞬のうちに通り過ぎてしまう特別な瞬間、例えば子供が母に頰を擦り寄せ身体を預ける時の温もりと柔らかさと重さ、あるいは髪を梳かすときの絹のような感触が、彼女の描く母子像の一枚一枚に宿っていることに気がついた。またモデルの動きに合わせて次々に形を変える幼な子の、丸々と太った手足や柔らかな腹に見惚れるようになった。単に幼子の様子が可愛らしいというだけではない。戸外の雲や水面の動態を捉えることができる印象派の観察眼と技術とが凝縮した、柔らかい肌と移り変わりやすい自然な仕草の機微を伝える表現が、息を呑むほど巧みなのだ【図1】。そこには、紋切り型のイメージをすり抜けるものが確かに描かれていた。女たちと子供たちを描くカサットが、ポーズをとるモデルにどんな指示を出していたのか想像すると、いつでも楽しい気分になる。カサットが描く年齢の子供は容易に人の言うことを聞くものではないから、抱っこをしても身を捻らせ頭を動かし、つまらなければ口を尖らせて、じっとお利口さんになどしてしない。乳幼児の写真を撮ろうとしたことがある者なら、誰しもがその苦労を想像できるだろう。カサットは、一応はモデルたちにポーズを取らせながらも、子供たちが好き勝手に振る舞おうと動き出したまさに瞬間にこそ「très bien(とてもいい)」などと呟きながら、忙しく手を動かしていたのだろうか。
 

図1 メアリー・カサット《抱擁》1902年。スミソニアン美術館

 そのようにして、どこか肩の力を抜いた気持ちで絵に向き合うようになってからというもの、新たに気づくことがあった。カサットの作品がイデオロギーの強化にもその批判にも資するということはつまり、彼女の作品に複数の仮面が存在する、ということだ。彼女の作品の巧妙さは、そうした仮面を選択可能なものとして並置するのではなく、むしろ重ね合わせることによって、場合によってはイデオロギー批判を隠すことができるような工夫をしている点にある。したがって彼女の絵を見る時には、それぞれの仮面がどのような役割を担っており、どの仮面がもっとも彼女の素肌に近いのか、考えてみる必要がある。
 
 ここで、もしかすると次のような疑問も浮かぶかもしれない。彼女がしばしば絵に描いたような、親密な母子の身体の触れ合いに、果たして仮面は必要だろうか。それは仮面を剥ぎ取った肉体同士の接触であり、その身体的な親密さに「母親」という人格=仮面ペルソナは介在していないのではないか。だがカサットの絵を見た時に私たちが安心感を抱くのは、触れ合う二つの体が、互いに見知らぬ二人の人物ではなく、保護者とその子という限定された二者であることを前提にしているからこそ、である。この二者の関係性は、愛情や信頼といったものによって築かれているだろうと、私たちは無意識に判断し、そのことによって二者間の接触が両者の合意のもとにあることを、私たちは疑わない。画家が絵の中の人物たちに被せる仮面が、あまりにも顔にぴったりと重なりその一部となっているために、それがたくさんある人格=仮面ペルソナのうちの一つであることを私たちが忘れるというだけなのだ。
 
 母子を描いたカサットの作品では珍しいと思われるが、こうしたことを意図的に示すような絵がある。1905年ごろに描かれた《向日葵をつけた女性》【図2】である。この作品でカサットは、顔が新しい人格=仮面ペルソナを獲得する過程そのものを描き、一方ではそれを女性像の身体にぴったりと重ねながら、他方では鏡像を利用することによって、鑑賞者がそうした仮面に無意識に同一化することを拒否するような工夫を行なっている。
 

図2 メアリー・カサット《向日葵をつけた女性》1905年ごろ。ワシントン、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート

 
 着飾った成人女性は右手を幼女の肩の上に乗せ、左手で手鏡を持っている。この女性が幼女の母親であることは、二人の親密さから明らかだ。幼女の両足の間に盛り上がったスカートは、その下の膝の存在を感じさせ、衣服越しに女性が感じている幼女の身体の重みまでも、見る者に想像させる。幼女が裸であることも、二人が親密で私的な空間にいることの証左である。
 
 ただこの絵にはいくつか、日常の一コマの自然らしさよりもわざとらしい人為性を強調するような特徴がある*9。まず室内での身繕いという設定であるにしても、手鏡以外に場面を具体的に示す事物は存在せず、母親もまだ幼児の身繕いに取り掛かってはいない。幼女は裸で描かれているために、純粋さや無垢の擬人像として提示されているかのようにも見える。つまりここでは、髪を整え着飾った「女らしい」成人女性と、まだ「女らしさ」を獲得していない無垢な幼女とのあいだに、象徴的な対比が生み出されているのである。さらにこの幼女が、いずれは女としての人格=仮面ペルソナを獲得するであろうことが、化粧のために用いられる手鏡によって暗示されている。鏡を握る母親の手は、大きく肘を曲げやや儀式張っている。幼女の肩に置かれた左手は、彼女を背中ごと鏡の方へと押しやっており、そのせいで幼女は母親に身を寄せることができないでいる。母親はこうして、何かのイニシエーションであるかのように、幼女を自分の体から遠ざけ、鏡の世界へとそっと送り出そうとしているのだ。ここでは明らかに「女らしさ」は、生得的に備わるものというよりも、社会関係の中での学習、とりわけ母娘の関係を通して習得されるべきものとして扱われている。幼児は母との原始的な一体感を求め野生のままでいるうちは「女」になり得ず、母から自立すると同時に鏡を介して自分をも客体化し、その鏡を見ながら化粧し着飾ることで「女」である母の似姿に近づいていくという、一連の入門儀礼を経なければならないことが、示されているのだ。「女」になるためには、かつてそうであった「何か」であることをやめ、また別の「何か」を媒介することが、必要なのである*10
 
 母から娘への、この「女らしさ」の継承は、まさに当時のブルジョワ社会の女性たちを取り巻いていた家父長制的的なイデオロギーの強化に繋がりうるテーマである。だがそれがある種の理念や理想の一つでしかないこと、つまりこの絵に重ねられた複数の仮面の一枚でしかないことが、壁面にかかった大きな鏡に映ったイメージのうちに暗示されている。母親の鏡像は、古典主義的な肖像によくあるように真横から捉えられていて、理想化されたイメージの最たるものとなっている。幼女の鏡像は絵の具の塊のように描かれていて、まだ何者でもない彼女の存在を象徴しているかのようだ。そこに視覚化されているのは、まだ何者でもない不定形な存在が、成長に従い手鏡を使って化粧をすることを覚え、「女」として生きていくための仮面を手にいれ、鏡に映ったその仮面に同一化することで理想的な「女」の形を獲得していく、という、幼女に課せられた一連の宿命である。しかしそれらすべてが、極めて抽象化され、現実感のない虚像として描かれている。
 
 さてここで、幼女が手に持つ手鏡の中をよく見てみよう。すると幼女の眼差しは、鏡に映った自らでも、また手鏡を凝視する母親でもなく、鑑賞者である私たちに向けられていることに気づく。ここで私たちはハッとさせられる。彼女はまだ、一体化すべき仮面を手鏡のうちに見つけてはいないようだ。
 
 幼女は鏡越しに私たちを見つめ、私たちに何かを語りかけている。ある者には、見る主体となった幼女の鏡越しの眼差しから、「あなたたちの世界にはどんな仮面があるの」という問いかけが聞こえるかもしれない。別の者には、「私には仮面を選ぶ権利があるの」という毅然とした主張が聞こえるかもしれない。あるいは自分の母親すらも代弁しながら、「私たちには、あなたたちが見ている母娘の人格=仮面ペルソナとは別の顔もあるの」と告げているのかもしれない。いずれにせよ重要なのは、絵を見る私たち自身の身体の問題とも接続するようなこれらの声が、絵の具によって構成された仮面を介して、私たちに直接向けられるという事実である。
 
 カサットはおそらくこうした工夫を意図的に行っている。そうでなければ、理想化され抽象化された壁面の鏡像と、具象化され受肉した手鏡の鏡像とのあいだの、明確で人為的な対比は説明できない。カサットは、理想の身体と現実の肉体とを分裂させ、後者にあたる幼女の眼差しを私たちに向けることで、自らの絵の中の母娘に被せた仮面に、小さな一対の眼孔をあけているのだ。カサットが幼女の仮面にあけたこの小さな眼孔は、無垢な存在の象徴として描かれている幼女の仮面の下に、意志と知覚能力を持った生身の人間がいることを伝えている。
 
 この一対の目は、絵と正面から向き合う私たち自身の姿を映すべくして画面に仕込まれた秘密の小さな鏡にほかならない。この一対の鏡は私たち自身を映し出しながら、彼女の目に映った私たち自身を客体化するような潜在力をも持つ。だが必ずしもこの鏡は、幼女と鑑賞者とのあいだに、乗り越えられない断絶を生み出すわけではない。彼女の目の中に私たちが見つけるものは、異界の存在のような絶対的な他者ではなく、自分の似姿なのだ。彼女の目に映る自分の姿を想像することで、私たちは、彼女の存在を自分の存在との関連の中で考えられるようになる。この眼孔を通してこそ、私たちは描かれた女性たちに重ね合わせられているかもしれないカサット自身の身体を、自らの身体性に引き寄せて感じることができるのである。
 
 ただカサットの絵は全体として巨大な仮面として機能し続ける。母娘という主題と、画面全体を覆う柔らかく温かな色彩、そして手鏡に象徴される化粧、そのいずれもが、当時「女らしさ」の象徴と捉えられてきたものだ*11。幼女の眼孔に確かに感じられる主体性は、規範化された「女らしさ」を無批判に受け入れるような受動性とは相入れないものなのに、そうした小さな反抗の試みは、画面全体に被せられた「女らしさ」の仮面によって和らげられている。結果として、たとえ当時社会的に定められていた「女らしさ」への受動的な同一化を警告する意図がカサットにあったとしても、その声は社会に広く訴える力強さを与えられてはいない。そうした声は、カサットと同じ批判をあらかじめ共有している鑑賞者によってようやく聞き取ることができる囁き程度のものでしかない。実際、ロジェ・マルクスやデュラン=リュエル画廊、そして合衆国のコレクターでありフェミニストであったルイジーヌ・ヘイヴマイヤーの所有を経たこの絵が、1930年にニューヨークで売りに出された時にはすでに、《向日葵をつけた女性》というタイトルが付されており、こちらに問いかける幼女の存在は脇役とみなされている。この作品が被る仮面は、男社会であった当時の画壇で女性であるカサットが生き残るための戦略の一つであったのかもしれない。作品のみならず彼女自身が、「女らしさ」という仮面を被り、その安全な立場から、安全な範囲で批判を展開しているのである。しかし翻ってそのことで、カサットは、「女らしさ」の仮面と完全に同一化させられ、その他の仮面を選びとる自由を手放すリスクを引き受けなければならなかった。幼女に開けた一対の眼孔は、それを回避する命綱でもあったのだ。
 
 規範化された「女らしさ」の仮面の下にある、カサットの別の顔を探り当てられるのは、仮面にあけられた眼孔からカサットの身体に近づこうと作品の前に立つ者たちだけだ。ただそれは、覆っている諸々の仮面を無遠慮に剥ぎ取ることによっては、真の意味で達成されないに違いない。なぜなら仮面が持つ作用の威力とその存在感を我が身で感じることによってこそ、私たちはカサットの生きた経験にアクセスできるからである。また逆に、カサットの絵が「女性的」であるという理由だけでカテゴリー的に評価しようとしてしまえば、カサットの絵にさらなる「女らしさ」の仮面を被せてしまうことにしかならず、仮面の向こうの彼女の存在から遠ざかるだけだろう。
 
 カサットの絵を覆う仮面の威力は大きく、私自身がかつてカサットの母子像に不快感を感じた仮面への同一化への強要を、鑑賞者にも強いるかもしれない。もしかするとこの仮面はすでに、カサットの顔に貼り付きその一部となり、そして私たちの顔にもぴったりと重なって剥がれないものとなっているかもしれない。だが私たちもまた、自己喪失のリスクを負いながら仮面と正面から向き合いさえすれば、その体験の中でこそ、仮面の下に存在するであろう芸術家の身体を感じ、その生身の声を聞くことができるかもしれない。
 
 私はカサットが一枚の絵に描いたひと組の眼孔に気づいてからというもの、彼女の絵の前に立つ時には、かつてより注意深く眺め、描かれた女たちの声に耳を傾けようとするようになった。するとカサットの絵の中の、退屈そうに顔をしかめる少女像にも、子供の世話をそこそこに読書に没頭する母親像にも、彼女たちの仮面の下の存在に触れるようそっと促すそうした一対の眼孔があるのだと、ありありと感じるようになった。これらの眼孔は、時代や属性の相違点はあれど、彼女たちが共有可能な身体的経験を持った存在であることを、仮面ごしに伝えているのかもしれない、と、そう思うようになったのだ。
 
 



*1 ジャン=ピエール・ヴェルナン『形象・偶像・仮面 コレージュ・ド・フランス 宗教人類学講義』上村くにこ・饗庭千代子訳、みすず書房、2024年、135頁。
*2 同上書、158頁。
*3 同上書、150頁。
*4 同上書、159頁。
*5 Herbert Molderings, Marcel Duchamp at the Age of 85: An Icon of Conceptual Photography, Cologne, Walther König, 2014.
*6 Kathrine Kun, “Marcel Duchamp,” The Artist’s Voice. Talks with Seventeen Artists, New York and Evanston, Harper & Row, 1962, p. 83.
*7 次の論考から拝借した表現である。Michelle Hirschhorn, “Orlan: artist in the post-human age of mechanical reincarnation: body as ready(to be re-) made,” in Griselda Pollock (ed.), Generations and Geographies in the Visual Arts, London and New York, Routledge, 1996, p. 112.
*8 グリゼルダ・ポロック、ロジカ・パーカー『女・アート・イデオロギー フェミニストが読みなおす芸術表現の歴史』萩原弘子訳、新水社、1992年、67頁。
*9 この作品に関してこの後に行う作品記述の中には、神戸大学国際文化研究科で2020年に実施した大学院修士課程のゼミでの学生たちとのやりとりから着想を得たものが含まれている。こうした着想が得られるような対話の時間を与えてくれた当時の優秀な受講生たちに、あらためて感謝したい。
*10 もちろん「女」になるためだけでなく少年が「男」になるために必要な儀礼もあったことだろう。前述のヴェルナンの著書では、古代ギリシアにおいて婚姻の前に男女がそれぞれ経なければならなかった入門儀礼の例が紹介されているが、そこでもやはり、かつてそうであった「何か」であることをやめ、また別の「何か」を媒介するというプロセスは共通している。
*11 第14回の記事「嘘から懐疑へ—絵画術と化粧術のあわい」を参照のこと。

 
 
》》》バックナンバー 《一覧》
第1回 緒言
第2回 自己言及的な手
第3回 自由な手
第4回 機械的な手と建設者の手
第5回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(前編)
第6回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(後編)
第7回 リーグルの美術論における対象との距離と触覚的平面
第8回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(前編)
第9回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(後編)
第10回 クールベの絵に触れる――グリーンバーグとフリードの手を媒介して
第11回 セザンヌの絵に触れる――ロバート・モリスを介して(前編)
第12回 セザンヌの絵に触れる――ロバート・モリスを介して(後編)
第13回 握れなかった手
第14回 嘘から懐疑へ――絵画術と化粧術のあわい
第15回 キュビスムの楽器の奏でかた、キュビスムの葡萄の味わいかた
第16回 おもちゃのユートピア——その理論と実践の系譜(前編)
第17回 おもちゃのユートピア——その理論と実践の系譜(中編)
第18回 おもちゃのユートピア——その理論と実践の系譜(後編)

About the Author: 松井裕美

まつい・ひろみ  東京大学大学院総合文化研究科准教授。博士(美術史)。専攻は、フランスを中心とする近現代美術。著書に『キュビスム芸術史:20世紀西洋美術と新しい<現実>』(名古屋大学出版会、2019年)、翻訳にデイヴィッド・コッティントン『現代アート入門』(名古屋大学出版会、2020年)など。
Go to Top