白い仮面を裏返す――ファノンを介して
これまで、何人かの作者たちの芸術実践に触れながら私が述べたかったことは、仮面を選択する行為が、一方では作り手や書き手に自由と解放の可能性を与え、他方では自己喪失の危険をもたらしてきたということだ。これから展開する議論はそれとは別種の問い、すなわちどのような選択が真の自由と言えるのか、という問いと部分的に関わる。それは、ある仮面を自分で主体的に選んでいることと、無意識に欲望を植え付けられ選ばされていることとを、いかに区別するのか、という問いでもある。結論を急ぐべきではないのだろうが、多分そこにはっきりとした区別はない。では、私たちにできることといえば、自分ないしは人が選んだ仮面を裏返してみて、選ぶ行為と選ばされる状況が個々の状況でいかに複雑に絡まり合っているのかを確認することくらいなのだろうか。もしそこから一歩踏み出すとすれば、一体どのような振る舞いが私たちには必要とされるのだろうか。これこそ私が連続する記事の最後で問いたいことである。
フランスの植民地であったマルティニーク島出身の思想家フランツ・ファノンは、仮面を自ら選ぶことと植民地主義からの真の解放とが、黒人にとっては必ずしも一致しない状況があることを、『黒い肌、白い仮面』(1952年)で論じている。一方では黒人のうちに、白人のようになりたいという無意識の欲望を、ファノンは認める。「白い仮面」を被りたいというこの欲望は、植民地主義の構造の中で植え付けられた劣等感からくる。他方で彼が白人のうちに認めるのは、黒人を子供や未開人として扱う差別的な眼差しである。それは黒人を「黒い肌」としてしか見ないという姿勢にほかならない。こうした状況で、西洋の知の体系から学び、一人の人間として白人社会に参与しようとする黒人の知識人が直面するのは、冷酷な拒絶であり、相手が自分に対して押し付ける黒人のクリシェに否応なしに同一化させられる暴力である。白人社会で「黒人らしい」振る舞いを求められたファノンは、白人の眼差しが捉えた「黒い肌」に「ひきこもること、身を縮めること*1」を要求されたのである。
精神医学を学んだファノンは、そうした状況に自ら直面しながらも、黒人が被ろうとする白い仮面の裏側を注視し、そこから見えてくる心理構造を分析しようとする。もちろん内側から仮面を観察するには少しだけ仮面を顔から離す必要があるのだが、彼は白い仮面を捨ててしまうのではなく常にそばに置き、黒人と白人の相互関係の中で構築される無意識の欲望を言葉にして意識化しようとすることから始める。たとえ黒人が選んだ仮面が、社会構造の中で選ばされたものであったとしても、重要なのはそうした欲望と「距離を置く」ことではない、と彼は述べる。むしろそうした欲望に近づき、多元的な要因を分析し、「葛藤の真の源に対する—すなわち、社会構造に対する―—行動(あるいは受動)を選べるようにすること*2」こそ、ファノンの目指すものであった。そのことでこそ、黒人は「自分を白くするか、姿を消すか」という絶望的な二者択一を超えて、主体的に行動することができるようになるはずだと、ファノンは信じた*3。
ただしファノンが詳述していない部分、すなわち自己の欲望や無意識について知ることと、すべての人が安心して対等に生きることができる理想を実現するために社会を変えようと行動することのあいだにはまだ距離があり、それを埋めるにはまた別種の挑戦が必要となる。一体そこでは何が待ち受けているのか。白人が定めた「黒人らしさ」を自らの身から引き離しつつ、自らが被る白い仮面を裏返し注視することは、黒人にとっての解放の一歩ではある。ただ次のステップに踏み出そうとした者たち、つまり仮面を裏返すことでファノンが示した黒人の心理的構造についての知見を足掛かりとしながら、その後さまざまな分野で実践を展開した人々の中には、行動するためにこそ黒い仮面を被るという選択肢をとる者もいた。こうした者たちは、もちろんただ単に無批判に黒い仮面を被るわけではない。行動の最中にもときおり顔から仮面を少し離してみて、その内側を注意深く観察するような慎重さが、彼らにはある。
ここではこうした実践の芸術分野での例として、センベーヌ・ウスマン(ウスマン・サンベーヌとも表記される)監督の映画『黒人女性』(1966年)と、ローナ・シンプソンの1990年前後のいくつかの写真作品を例に取り上げ、状況によってその意味を変える仮面の表象について検討する。
仮面の真正性――この身体は誰のもの?
セネガル出身の監督センベーヌ・ウスマンによる1966年の映画『…の黒人女性』は、主人公である黒人女性デュアンナと、彼女に寄り添う一枚の仮面の物語である。英語版字幕がつけられたヴァージョンでタイトルは「Black Girl」と訳されているが、この英訳タイトルからは原題のニュアンスが抜け落ちている。フランス語の原題は「La noire de…」であり、三点リーダーの部分に入るのは、黒人女性の出身地、帰属先ないしは所有者である。そう、この映画は黒人女性の帰属と起源をめぐる物語なのだ。
物語のあらましは次のとおりである。主人公デュアンナは、セネガルの首都ダカールで、とある白人家族に子守りとして雇われるのだが、やがて雇い主(この白人の雇い主はデュアンナと違って、映画の中で固有名詞を与えられていない匿名の存在である)に気に入られ、南仏アンチーブにある彼らの家に住み込みで働くようになる。ダカールで最初に「白人の家」の仕事口を見つけたときには、デュアンナは喜びと誇らしさに有頂天になり、その勢いで黒人の少年から購入した仮面を、雇い主に贈り物として渡す。この映画について分析したモーリーヌ・マーフィによれば、デュアンナが購入する木彫りの仮面は、儀礼のために特別に作られたものではなく、一般流通用に作られた、起源が不確かで平凡な代物だ*4。それでも雇い主はこの仮面のうちに「真正」な性質を見出し、それをダカールの自宅の壁に飾ることになる。この一家が南仏アンチーブに越すと、仮面はやがてアンチーブにある彼らのアパートのサロンの壁に移され、ダカールから呼び寄せられたデュアンナを迎えることになる。ここから仮面が目撃するのは、デュアンナの悲劇的な顛末だ。デュアンナはアンチーブの白人社会で、一人の人間ではなく閉じ込められた奴隷のように扱われ、白人の来客たちからは、料理は上手だがフランス語を話せない「動物」のような存在として扱われる。孤独のなか追い詰められた彼女は、最終的に自害してしまう。
デュアンナの物語としてはまったくの悲劇なのだが、仮面の方に視点を寄せてみると、一個人の悲劇に託された大きな問いが、この映画全体を支配していることが見えてくる。起源が不確かなこの仮面は、この物語の中で次々とその所有者や位置付けを変えていく。大きく分ければ仮面は、人間による三つの行為と向き合うことになる。
最初にこの仮面が経験するのは、白人文化への統合である。仮面は白人たちによってその「真正性」を認められ、白人の家の壁に装飾品として飾られる。このとき仮面は呪術的な役割を完全に失い、西洋的な価値観による、美的な鑑賞の対象となる*5。白人のコレクションに統合される仮面は、白人社会で職を得てはしゃぐデュアンナと運命をともにしている。フランスに呼び寄せられたとき、デュアンナの喜びは頂点に達する。渡仏前から早くも自由が自らの身に充満するのを感じたデュアンナは、そのことを確認したくてダカールの独立広場にある高塀に登り、恋人に激しく咎められる。なぜならこの塀は第二次世界大戦で当時の宗主国フランスのために戦ったセネガル兵たちの戦没者記念碑であるからだ。それはセネガルがフランスからの独立を勝ち取るために払った犠牲の象徴でもある。彼女は黒人の独立のために過去の人々が払った犠牲の上に立ちながらも、その犠牲の重みを忘れることで、新世代の独立へと軽やかに身を乗り出そうとする。デュアンナはやがて、同じ軽やかな足取りで、しかし今度はもっと着飾った、ハイヒールに白いドレス、ネックレスにイヤリングという美しいよそ行きの出立で、南仏アンチーブに降り立つことになる(映画の順序ではこの場面が冒頭にくるのであり、記念碑の場面はその後の回想部分で描かれる)。労働するには明らかに相応しくない格好だ。彼女が不必要に着飾るのもやはり、フランスへの憧憬、あるいは白人社会に彼女が寄せる憧れが、その根底にあるからにほかならない。彼女も壁に飾られたアフリカの仮面のようにして、白人社会に組み入れられることを望んだのである。この時点では彼女はまだ、白人のもとで働くことが、白人と同じ自由を手に入れることであると信じている。彼女はこのとき、アフリカの過去にもフランスの現在にも、黒人の家族や恋人にも白人の雇い主にも所有されていない、自由な身体の持ち主である。
他方で仮面は、最初のもの――白人によって美的な鑑賞対象とされた仮面に象徴される、白人文化への統合――とはまったく反対の行為と、同時に向き合わなければならなかった。白人が黒人に対して行う異化と、主体性を欠いた「黒人らしさ」への還元である。この仮面が白人にとって意味を持つのは、それが単に造形的に美しいというだけでなく、白人にとって「黒人らしい」もの、白人文化にはないものに見えるという意味で「真正」だったからだ。彼らがそれを所有し、オブジェとして飾ることで呪術的な力を悪魔祓いする行為は、黒人文化を白人文化に統合することを意味してはいても、「黒い仮面」を漂白するものではない。仮面は「黒人性」を漂白されることなく、白人によって都合良く書き換えられた「黒人らしさ」のレッテルを貼られる。風変わりで面白くて、それでいてこちらに攻撃を加えるような実行力は持たない、そんな安全なレッテルである。あらためて言葉にする必要もないくらい明らかなのは、ここで、白人文化による黒人文化の飼い慣らし=奴隷化が象徴的に示されていることである。そうした暗示自体は単純なものと言えるのかもしれないが、ここで仮面とデュアンナとの関係に注目してみると、この映画の表象体系がいかに複雑で非凡であるのかが見えてくる。仮面にとって白人のオブジェとなることは、おのれを身につけ命を吹き込む肉体の喪失を意味する。デュアンナも同様にして、彼女の期待とは裏腹に「黒人」という異分子として扱われ続け、かつての彼女の身体に満ちていた力強さや自由への意志を徐々に喪失していく。アンチーブのアパートでは、白人文化に飼い慣らされたこのアフリカの仮面は、一方ではデュアンナが不当な扱いの中で徐々に尊厳を失っていくのを目撃し、その静かなる共感者となる。ただ他方で仮面は、白人の定める「黒人らしさ」の枠におさまることを強いられるデュアンナのうつし姿としても機能する。壁の仮面は、白人が考える異分子としての「黒人らしさ」のイメージを固定し、仮面を覗き込む黒人に「これぞ本当のあなたなのですよ」と、そのイメージを差し出す鏡として作用するのである。こうして白人が仮面のうちに認めた「真正性」は、デュアンナを「黒い肌」のうちに閉じ込め、自害へと密かに追い込むことになる。仮面はこの点で、共感者のふりをしつつデュアンナに死をもたらす鏡でもあり、見る者を石化させる「ゴルゴーンの仮面」(第19回記事参照)としても作用する。
そして最後に、仮面は黒人による反抗の主体となる。デュアンナは映画の終盤で、仮面の所有権を取り戻そうとする。「この仮面は私のものだ」、「私はマダムのオブジェではない」、と呟きながら、彼女は仮面を壁から外す。そのことに気づいた雇い主の女性とデュアンナは仮面を取り合うのだが、最終的にデュアンナが仮面を取り戻す。それでも彼女はアンチーブにおける雇い主のアパートの白い浴槽に身を横たえ、仮面のそばで自死してしまう。やがて仮面と服、恋人とデュアンナとの写真がトランクに入れられてダカールに送り返され、デュアンナの母親のものとに届けられる。届け人である白人男性は、デュアンナの母親に慰謝料の札束を渡そうとするのだが、母親は頑としてそれを受け取らない。そこで立ち去ろうとする白人男性を、一人の黒人の少年が追跡する。この少年は、かつての仮面の所有者であり、デュアンナに仮面を売ったその人だ。彼は再び手に入れた仮面を顔に装着し、白人を追い立てる。追われる白人は怯える。このとき仮面は少年の顔の上で呪術的な力を発揮し、映画の中で初めて白人を脅かす存在となる。仮面はもはや、芸術的なオブジェでも、支配され尊厳を失った身体の象徴でもない。少年がつける仮面は、デュアンナだけでなく、人種差別によって不当に失われた多くの黒人の命の静かなる代弁者となって、白人を責め立てる主体となる。映画は最後に、立ち去る男性を見つめながら仮面をとる少年の顔のカットで幕を閉じる。
この映画は決して、黒人女性がフランスに夢見た自由という幻想の愚かさを批判するものではない。そうした安直な教訓を与えることとは無関係のトーンが、映画を貫いている。植民地支配が終わってもなお、黒人が白人に所有されることで直面し続けてきた過酷な状況があることを描き切るリアリズムと、ここではないどこかでの自由を夢見ながら、逆に他者に所有され追い詰められる一人の人間の心理構造を描くことで、黒人の置かれた状況に迫ろうとする政治的意志が、この映画の核を成している。黒人が苛まされ続けてきたこの状況を、いかに変えることができるのか、黒人が尊厳を失わず生存できる世界はどのように実現できるのか、デュアンナが最終的には達成することができなかったその可能性が、この映画の中では問われているのだ。
そうしたことを踏まえたうえで、戦没者記念碑の場面を振り返ってみると、それが幾重かのニュアンスを含んでいることが見えてくる。黒人の自由のために払われた過去の犠牲をあえて忘れ、新しい自由を獲得しようとするデュアンナは、まず、自由であるということと、自らの起源に忠実であるということの間にある避け難いジレンマの只中にいる。しかしその背後には、個人の犠牲を必要とする自由と独立など真の自由と言えるのかという、別種の問いが発せられている。個人が犠牲を払わずとも自由と独立を獲得できるような社会こそ、希求すべきものなのではないか、と。
映画の中での仮面もまた、その複雑な位置付けを示すために、考え抜かれ表象されている。仮面が黒人に所有されているとき、それは常に誰かの顔の上にあるか、あるいは水平方向に置かれている。デュアンナが故郷での生活を振り返る回想部分の冒頭で、子供は仮面を顔につけて遊んでいる。教師に仮面を捨てるよう諭されると、子供は仮面を地面に水平に置いている。またダカールでの最初の仕事を見つけたデュアンナは、仮面を顔につけて喜び踊る。アンチーブでは、デュアンナの手によって物語の終盤に壁から外された仮面は、恋人との戯れを思い出しながら彼女が寝そべるベッドの床に水平に置かれる。あるいは故郷へと里帰りするトランクの上でも、仮面は水平方向に置かれる。逆に、白人が仮面を所有しているとき、それは常に垂直の壁に飾られている。壁に飾られた仮面は誰の顔にも装着されることはなく、ただ正面から人々と向かい合うだけだ。地面の上に水平に置かれ人に拾われるのを待ち、一度身体に装着されるや生気を帯びる仮面は、常に黒人文化のうちにある。誰にも触れられず装着されず、肉体を失ってしまった垂直の壁の上の不動の仮面は、表面的に見ることしかできない「黒人らしさ」の薄皮に約められてしまっており、常に白人文化のうちにある。映画の中で仮面はその両者の世界を行き来する。起源が不確かなこの一枚の仮面は、帰属先を次々に変えながら、映画の中で絶えず動き、黒人にとっても白人にとっても諸刃の剣として作用する可能性を宿し続けている。
最後に、この仮面の作用が、映画の中では記憶の作用を象徴していることも、指摘しておこう。映画の中では、過去のトラウマ的な記憶もまた、仮面と同様、諸刃の剣となる。過去に囚われ、過去が定めるイメージの範囲内で身をすくめてしまっては、思うように行動できなくなってしまう。しかし過去を忘却し手放してしまっては、過去に起源を持ち現在にまで連綿と続く数々の問題が見えなくなってしまう。映画の中でデュアンナは、どちらの危険も経験する。ここで監督が選ぶのは、そうした危険に警鐘をならすことではなく、過去と現在の繋がりと記憶の作用を、一人の黒人女性と一枚の仮面の物語を通して構造的に描き出すことだ。一枚の仮面がその所有者を変えていくように、白人に抑圧された黒人の経験は、新しい世代を生きようとする一人の女性の記憶の一部となる。それは一個人の固有の記憶であると同時に、植民地支配下にあった黒人が共有してきた集合的な記憶でもある。この記憶はデュアンナという若い世代の黒人女性の身体から異化され忘却されもした。しかし彼女は白人から支配され自死に追い込まれることで、その意に反して祖先の抑圧の体験を共有し、抑圧の記憶は彼女の一部になる。映画の最後に少年が被る仮面は、デュアンナが死してなお、彼女の死の過去が、そして多くの黒人たちの犠牲の記憶が、残存し続けることを暗示している。少年は白人と対峙する力を手に入れるために、自ら選択して「黒い仮面」を被り、虐げられた黒人の記憶を引き受ける。デュアンナよりもさらに若い、この無垢なアフリカの少年の身体に託された記憶が、次の世代の同胞の未来を救うものであって欲しいという、未来へ向けた監督の切実な願いが、最後のカットには宿っている。
水差しを傾ける――シンプソンとフックスの手で
記憶は個々人の所有物であるが、ときにはそこから流れ出て異なる身体同士を繋げることもできるのではないか。そうした希望を、まさにセンベーヌの次の世代に生まれたアフリカ系アメリカ人である批評家のベル・フックスは、彼女より少し若いアフリカ系アメリカ人の芸術家ローナ・シンプソンのうちに見ている。フックスがとりわけ感銘を受けたのが、1987年に雑誌『Bカルチャー』に見開きで掲載された《水を運ぶ人》であった*6。
写真に映っているのはゆったりとした白い衣を身に纏う黒人女性の背中。彼女は左手に銀の水指を、右手にプラスチックのボトルを持ち、それらを傾けて水を放出している。美しく身をくねらせて水で満たされた壺を傾ける裸婦の姿は、19世紀の画家ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの《泉》(図)のように、美術史における紋切り型のイメージの一つである。アングルの絵では、画家に霊感を与える美のミューズのイメージが、水源の象徴性と重なり合っている。シンプソンの写真の中の女性は、そうした伝統を明らかに想起させるものでありながら、かえってそうした伝統的絵画が持つエロティシズムとの間に差異を生み出している。シンプソンの写真の中の女性は裸婦ではなく、背中をこちらに向けており、美のミューズとなることも、エロティックな欲望の眼差しの対象となることも、拒んでいるのである。
シンプソンの女性は同時に、天秤と剣を持った女神ユースティティアのように、伝統的な図像学における「正義」の擬人像を踏襲するものでありながら、真に公平な判断が実現されているのかという問題提起へと見る者を導く作用を持つ*7。中身の水は同じなので、どちらの側に正義があるのかを判断するために、この女神は容器の重さにより判断している。プラスチック容器よりも銀器の方が重いので、ここでは後者を正義とみなす審判が下されている。ここで象徴的に示されているものとは、社会的・経済的に力を持つ側に否応なしに正義があると見做される不公平な判断のあり方である。この不公平さは、黒人女性の記憶に対して与えられた不当な評価そのものである。イメージに添えられたテキストには、次のように書かれている。「彼女は彼が川のほとりで消えるのを見た。彼らは彼女に、何が起こったのか言ってくれと頼んだのだが、結局は彼女の記憶を信用しなかった」。
それでもフックスは、この女性の姿に、公正な判断を下す審判者ではなく、西アフリカの伝統において語り部の役目をする「歴史の番人」グリオを重ね合わせようとする*8。人々に信頼されない黒人女性の記憶が、それでも容器という境界を突き破って流れ出すという希望を、フックスはこのイメージのうちに見た。流れる水となった記憶は、「歴史の中に自らの場を取り戻し、過去と現在の中の祖先とつながること*9」を、写真の中の黒人女性に可能にさせる、というのである。それは「身体も存在そのものも空っぽの器で、それを他者の必要によって満たす世話係*10」として表象されることへの、抵抗なのだ。ただもちろん、その器を満たすことは容易ではない。なぜなら、「黒人女性の体験、さまざまな人生の現実と多様性を名づけるために証拠を集めようとすると、事実はごちゃごちゃになり、私たちの記憶は不鮮明になる」からだ。そうした状況において、「他者の都合にあわせてゆがめられ、抹消され、変えられたものに、どうやって正しい名をつけるのか」。シンプソンの作業の目的はまさに、そこに「正しい名」をつけ、「証人としての身体を私たちに提示」し、「抑圧された知識」に語らせ、「歴史を作り替える」ことなのだと、フックスは述べる*11。
「歴史を作り替える」という行為を肯定的に表明するには、勇気が必要だ。なぜなら歴史はこれまで、悪意ある者によって抑圧を強化するように散々作り替えられ続けてきたからである。フックスがこの言葉を発するとき、そこには自らが歴史を語る主体となることで、黒人女性を抑圧してきたそれまでの不当な歴史語りに対抗しようとする意図がある。フックス自身が、シンプソンとともに器の境界を超えて流れ出す形なきこの水を我が身に受け入れ、批評行為によって「正しい名」を与え、「歴史を作り替え」ようとしているのである。
もちろんそのためには、自己の記憶について語るだけでなく、他者の語りに注意深く耳を傾けなければならない。だからこそ究極的にフックスは、ファノンが『白い仮面、黒い肌』の末尾で示したユートピアと同じ指針を目指すことになる。ファノンはそこで、紋切り型の「白人」も「黒人」も存在せず、人が人として互いに触れ合う世界、「ただ単に他者に触れ、他者を感じること、私に他者を明かすこと」ができる世界の可能性を提示する*12。
ただ同じユートピアについてフックスが語るとき、彼女の声はもう少し不穏なトーンを帯びる。フックスは、「芸術作品の題材となることについて」と題した文章の冒頭で、「境界侵犯」に相当する行為のリストを作っている*13。そこには次のような状況が並ぶ。まず、死につつある誰かを見て、そのことを語るとき。つまり死を否定しない意志を持つとき。次に、自分についての何かや、自分が生きている世界を変えたいという思いに覚醒するとき。それは問いかける力や介入する力、行動する力の源である。そして最後に、目の前に姿を現している存在について知りたいと思うこと。相手のことを知るためにもっと近づきたいという欲望もまた、境界線を越えさせる。自分と他人を隔てるその境界を探りながら、そこを越えようとするそれらの行為は、諸刃の剣である。なぜなら境界は本来自己を守るためにあるからだ。この境界に触れ、それを越えようとすることには、他者の身体に侵入する性行為がそうであるのと同様、快楽と危険とのあいだの綱渡りをすることになる。またそこには、贖いが冒瀆に変わる可能性がつねに付きまとう。それでもフックスは、隣にいる「あなたの身体」と語り合い続け、「あなた」と「私」との境界を侵犯し続ける*14。彼女はそうしないではいられない。なぜなら境界侵犯とは彼女にとって、「真実を語ること」にほかならないからだ*15。
従ってフックスがシンプソンをはじめとする黒人の芸術家について語ろうと決意する時には、彼女は単に「黒い仮面」を他の黒人芸術家とともにかぶろうとしているだけでなく、相手がかぶる「黒い仮面」の中に侵入する危険をも厭わないという姿勢を示していることになる。彼女はその危険に自覚的であり、危険をおかす価値があると考えている。そのことによってこそ、互いの仮面の裏を注視し、「黒い仮面」の下にある互いの違いを認め、双方の対話のなかから今度は、連帯するための新しい仮面を錬成することができる。そしてそのことでこそ、歴史をともに作り替えてゆくこと、語られてこなかった真実のありかをともに探ることが可能となる。危険を孕んだ境界侵犯のなかで立ち現れるフックスのユートピアは、絶えず作り替えられる歴史、問われ続ける真実、変化し続ける仮面のためにこそ存在する。
仮面の裏側に触れる――おのれの手で
より正確に言い表すなら、ローナ・シンプソンは「真実を語る」ための作品を作っているのではなく、「真実を語る」という行為についての作品を作っているのであり、そうした行為の困難さをこそ、作品の題材にしている。もちろん彼女の作品には同時に、どこかに「真実」と呼べるものがあるに違いないという、希望が入り混じった確信がある。ヒルトン・アルスが論じるように、シンプソンの写真は「撮影された人間についての何かを私たちに語るという、肖像画家の伝統を拒否して*16」おり、「気軽な心理的アクセスを拒絶」するようなところがあるにもかかわらず、他方では「真実を私たちに与えることを決して拒みはしない」。真実は「いつもそこに、彼女の女たちのうちにある*17」。とはいえ作者は、真実の存在を確信していたとしても、そこに明確な形を与えようとはしない。2005年の対談の中で、シンプソンは自らの作品の断片性について語りながら、「世界や身の回りの物事を一つのイデオロギー的な視野のうちで解釈しない」姿勢を明らかにしている*18。むしろ、あなたならこの状況をどう見るのか、どのように名づけるのかと、私たちに問いかけるようなところがシンプソンの作品にはある。
ニューヨークで生まれ育ったシンプソンにとって、黒人であるということは、直ちに自らの祖先の真実を知ることを意味してはいなかっただろう。フックスを痺れさせた《水を運ぶ人》の発表から4年経った1991年、シンプソンは黒人女性の後ろ姿とアフリカの仮面の裏側とを並べる作品を数点制作している。その中から、ここでは《時制*19》と《見地》を取り上げよう。これらの作品においてはともに、仮面と黒人女性とは異なる写真フレームに収められた別々の映像として展示されているにもかかわらず、両者の間に意味深な対話が生まれている。ただ対話の内容は定かではない。黒人女性を映した写真については、おそらくどちらにおいても、同じモデルがポーズを取り、同じシンプルなドレスを着ている。写真の中の女性は、黒人の歴史を象徴する仮面とは異なる世界におり、直ちに仮面の宿す黒人文化の伝統と同一化することはない。
《時制》においては3枚の写真が並べられ、中央に裏側を向けられたアフリカの仮面が、両端に仮面の方に顔を僅かに向けた黒人女性の後ろ姿が配置されている。中央の写真の下内は、3段に分けて上から「現在」(1段目)、「未完了過去(過去進行形)」と「未完了現在(現在進行形)」(2段目)、「過去完了」と「現在完了」(3段目)の文字列が並ぶ。仮面が結ぶさまざまな時間を前にして、女性は歴史を知るためにその仮面に近づき被るのか、決めかねているように見える。荒い木彫りの仮面の裏側は、装着が決して心地よい体験ではないことを予想させるからだ。あるいは彼女は、すでに仮面が象徴する祖先の記憶を、さまざまな時制で所有しているのかもしれない。あるいはまた、彼女は祖先の記憶をどのような時制で語って良いか、選択肢を前に逡巡しているのかもしれない。現在を生きる記憶として、進行中の過去や現在として、あるいはすでに終わってしまった過去や現在として。
《見地》では構成はもっと単純だが、意味がその分明快になるわけではない。この作品は2枚の写真から構成され、左側の仮面裏側の写真の下には「インサイド」、右側の女性の後ろ姿の写真の下には「アウト」と書かれている。タイトルの見地とは、状況を見通すことのできる立ち位置を指すわけだが、果たして黒人の歴史を見晴らすのに適した位置が、仮面に象徴される祖先の伝統の内側なのか、そうした歴史の外側にいる黒人なのか、ここでは明らかにされていない。
《見地》の黒人女性はまっすぐ前を見ているので、イメージだけを見れば、仮面と黒人女性の身体は完全に切断されている。しかしイメージを文字とともに見ることで、両者の間の緊張感は高まり、内側と外側の対話と対立という物語の複数の可能性が、そこから生まれる。黒人女性の身体は、「内側」との間を境界線で隔てられた「外側」にある。しかし実はこの二つのイメージは、同じ存在の表裏を示しているだけなのかもしれない。つまり、外側からは現代を生きる黒人女性に見える人物が、すでにその内奥に祖先の記憶を有しており、その秘密を寛大にも私たちに見せてくれているということなのかもしれない。あるいは彼女はまだそうした記憶を手にしてはいないが、いつか仮面を手にとり、先祖の記憶を自らの肉体に身につける直前なのかもしれない。この黒人女性が生きる複数の物語は、イメージを見る私たちと、地続きで繋がっている。最初は私たちの外部に、仮面と黒人女性という二つのイメージが与えられる。続いて私たちは、それらに付与された「内側」と「外側」のレッテルを頼りに、後ろ向きのこの黒人女性の真実に、そして仮面の真実に、どの地点からどのくらい近くまでアプローチするのか、試すことになるだろう。
この緊張感を孕んだ駆け引きは、心地よいユートピアとは程遠く、境界侵犯特有の危険、すなわち双方が望まぬ一線を踏み超えてしまったり、互いの記憶を改竄してしまったりするような危険を孕んでいる。それでもこれがユートピアたり得るのは、この試みが芸術作品という、現実のシミュレーション装置のような特殊な場で展開されているからだ。このシミュレーション装置においては、たとえ何らかのかたちで失敗しても、何度でも出会い直し、語り直すことができる。そうした試行錯誤の繰り返しを可能にするからこそ、芸術作品は、現実に作用を及ぼす行動力と理論とを鍛え上げる場となり得る。そうしたプロセスを通してこそ、芸術作品は現実と関与し、フィクションと現実とを隔てる境界を侵犯する。
境界侵犯という英語は、境界を乗り越え規則に背く行為のほかに、海が陸へと入り込む「海進」の現象も意味する。ローランサンが同一化しようとしたH2Oと、カーアンが恋焦がれた海(いずれも前回の記事を参照のこと)、そしてフックスがシンプソンを介して受け取ろうとした祖先の歴史を伝える記憶の水は、やがて大洋へと注ぎ込み、波にさらわれて作者たちの意図を超えた場所へと運ばれ、時間や空間を隔てた私たちにも届けられる。これら海からの届け物は、限りなく近づいた者のみ触れることができる知性、「液体的知性*20」とも呼べるものを宿している。それは、手が届かない遠方から事物を把握するような、光学的な知性――近代西洋が実証的な学問的アプローチのうちに組み込んできた知性――とは別種のものだが、真実にアプローチするための、固有の可能性を秘めてもいる。作品が私たちのもとに届き、私たちに触れられると、今度は作品の仮面の下に秘められた潜在性が、境界線を超えて進み陸地の形状を変える海の力強さに変化して、真実の探究へと乗り出すよう私たちに促し始める。こうして私たち自身が、気づけば大海の波間にさらわれることになる。
美術への学問的なアプローチの仕方を身につける必要があった20代前半の頃の私なら、シンプソンの仮面の裏側に触れることは躊躇われただろうし、徹底して避けるべきことであるように思われたことだろう。そこには常に、誰も幸せにしない無責任な誤読や曲解をしてしまう危険があるからだ。仮面の裏側からアプローチし自分に装着するよりも、壁にかけられた仮面に外側からアプローチする方が、安全な距離を保てる。それは対象の観察に必要な、光学的な距離である。
研究者としては誤読や曲解を避ける責務から逃れられない以上、私は作品との間の光学的な距離を、今後も完全に手放すつもりはない。今でも作品との一定の距離は、美術史研究にたずさわる私にとって、不要な誤解や過剰解釈を避けるために欠かすことができないし、何らかの誤解や曲解が通説とされていたなら、それを学問的知見から疑問視し再検討することも厭わない。ただとりわけ幼子を美術館に連れていくようになってから、幼子の目を通して作品を見ることが増えると、作品に向かい合うときに歴史家であることを常に自らに課す必要はないだろうと、思うようになった。またそれ以前、ちょうど最初の単著を書き終える前後から、特定の作品や文章との、特定の作り手や書き手たちとの多くの幸運な出会いを連続して経験し、「液体的知性」も呼べるような海の波間に誘い込まれることが度々あった。シンプソンが見せてくれている仮面の裏側に手を伸ばし、最初は手で、次に顔で、仮面の裏側に接触する振る舞いをあと推ししてくれたのは、私にとって、子供が日々教えてくれる世界の新しい見方と、液体的知性との出会いの両方にほかならない。作品を介した一つの接触により、あるいは境界侵犯のシミュレーションにより形成されるどこにもない場所は、未知の知性をたたえ、歴史の中で語られてこなかった記憶を私たちへと伝える潜在性に溢れた、ユートピアの一種である。そこで待ち受けているのは決して、通常のユートピアが想起させるような「良い」場所ではないかもしれないし、そこに到達するために一線を越えることで、誤読や曲解、過剰解釈といった失態をおかすのかもしれない。それでも私は、そうした緊張を強いられる状況でこそ、ときには少し力を抜いて、次々に押し寄せる波に身を浸してみたいと思うのだ。そうして波間を漂いながら彼ら/彼女らの知性と記憶に近づく試行錯誤をときおり繰り返すことを、もはや自らに禁ずまい。ほかならぬ彼ら/彼女らが、漂流しながら試行錯誤することができる場を、もうずいぶん前から用意してくれていたのだから。
注
*1 Frantz Fanon, Peau noire, masques blancs, 1952, repris dans Œuvres, Paris, La Découverte, 2011, p. 157(フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』海老坂武・加藤晴久訳、みすず書房、1998年、135頁).
*2 Fanon, Œuvres, p. 142. 邦訳(124頁)を参照にして原文を訳出しなおした。
*3 Ibid.
*4 Maureen Murphy, L’art de la décolonisation. Paris-Dakar, 1950-1979, Dijon, les presses du réel, 2023, p. 97
*5 こうした経緯は、同時代のセネガルの芸術運動への、皮肉を交えた呼応とも言えるかもしれない。なぜなら映画の初上演と同じ年、国際黒人芸術祭りが開催されているからだ。1960年にフランスから独立したセネガルの首都ダカールで、フランス政府の協力を得て、セネガルの大統領レオポール・セダール・サンゴールの肝煎りで開催されたこの事業は、西洋のモダニズム・アートに匹敵する芸術の諸動向がセネガルで華開いていることを、世界に発信する目的で企画された。近年では、ナショナリズムとインターナショナリズムのあいだで揺れ動く当時のセネガルの美術界の複雑な動向について、美術史的な検討が進んでいる。先に触れたマーフィの研究のほか、次の展覧会カタログを参照のこと。Senghor et les arts. Réinventer l’universel, cat. exp., Paris, Musée du Quai Branly, 2023.
*6 Bell Hooks, “Facing Difference: The Black Female Body,” Art on My Mind. Visual Politics, The New York Press, 1995, p. 94-100(ベル・フックス「差異と向き合うこと 黒人女性の身体」『アート・オン・マイ・マインド アフリカ系アメリカ人芸術における人種・ジェンダー・階級』杉山直子訳、三元社、2012年、132〜139頁).
*7 Cf. Joan Simon, « Faciles à mémoriser, difficiles à oublier : gestes vécus, gestes rejoués chez Lorna Simpson », dans Joan Simon (dir.), Lorna Simpson, cat. exp., Paris, Jeu de Paume, 2013, p. 20.
*8 Hooks, Art on My Mind, p. 94(邦訳、133頁).
*9 Ibid., p. 95(邦訳、134頁).
*10 Ibid., p. 97(邦訳、136頁).
*11 Ibid., p. 100(邦訳、139頁).
*12 Fanon, Œuvres, p. 251. 既訳(邦訳、250頁)を参照しつつ原文を訳出しなおした。
*13 Hooks, Art on My Mind, p. 133-135(邦訳、181〜183頁).
*14 Ibid, p. 134(邦訳、183頁).
*15 Ibid, p. 135, 137(邦訳、183、187頁).
*16 Hilton Als, “Marianne Italy — Lorna Simpson and the Cinema of feminine Illusion,” in Okwui Enwezor (dir.), Lorna Simpson, exh. cat., New York, Abrams; American Federation of Arts, 2006, p. 145.
*17 Ibid., p. 147.
*18 Isaac Julien and Thelma Golden, “Conversation with the Artist,” in Enwezor (dir.), Lorna Simpson, p. 139.
*19 この二作品の画像は、《水を運ぶ人》とあわせて、シンプソンの公式HPでも見ることができる。https://lsimpsonstudio.com/photographic-works/1991
*20 写真家ジェフ・ウォールの言葉であり、のちに批評家カジャ・シルヴァーマンがこの語を軸にしながら写真と記憶、そして想像力の関係性を論じている。カジャ・シルヴァーマン『アナロジーの奇跡 写真の歴史』松井裕美・礒谷有亮訳、月曜社、2022年。特に第3章と第5章を参照のこと。
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第1回 緒言
第2回 自己言及的な手
第3回 自由な手
第4回 機械的な手と建設者の手
第5回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(前編)
第6回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(後編)
第7回 リーグルの美術論における対象との距離と触覚的平面
第8回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(前編)
第9回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(後編)
第10回 クールベの絵に触れる――グリーンバーグとフリードの手を媒介して
第11回 セザンヌの絵に触れる――ロバート・モリスを介して(前編)
第12回 セザンヌの絵に触れる――ロバート・モリスを介して(後編)
第13回 握れなかった手
第14回 嘘から懐疑へ――絵画術と化粧術のあわい
第15回 キュビスムの楽器の奏でかた、キュビスムの葡萄の味わいかた
第16回 おもちゃのユートピア——その理論と実践の系譜(前編)
第17回 おもちゃのユートピア——その理論と実践の系譜(中編)
第18回 おもちゃのユートピア——その理論と実践の系譜(後編)
第19回 顔に触れる――彼女たちの仮面を介して(前編)
第20回 顔に触れる――彼女たちの仮面を介して(中編)