『掌の美術論――触覚と想像力に』、2026年7月2日発売です。みなさま、どうぞお手にとってください。[編集部]
ナルキッソスの絶望に触れる――水面を介して
好きな仮面を好きな時にかぶることができれば、とても楽だ。それは本当の感情を隠し、演じられた人格のみを人々に見せる。だが仮面が剥がれなくなってしまうことほど恐ろしいものはない。なぜなら人は、「自分とは誰か」ということを確認するとき、人の目に映った自分の姿について問わずにはいられないからだ。向かい合う人の目に映った仮面が本当の自分になったりしたら、仮面が隠していたはずの真実の自分(そんなものがあれば、だが)は果たしてどこにいってしまうのか。仮面の下に確かに存在したはずの自分の顔が、気づけばなくなってしまっていた時の絶望たるや、いかほどのものだろう。他にも仮面にまつわる悲劇的な状況はあるだろう。最初から自分の手のうちに用意された仮面が満足のいかないものばかりである時の失望(つまり選択肢の欠如)。人の目に映った自分の仮面が、自分が想定していた見かけと違った時の不快感。
仮面をめぐるこうした恐れは、おそらく根源的なものだ。ジャン=ピエール・ヴェルナンに倣って、古代ギリシアの神話から二つの逸話を取り上げよう。まずは「ゴルゴーンの仮面」。ゴルゴーンは恐ろしい顔をした怪物で、その姿を見た者は我が身を滅ぼす危険に晒される。「ゴルゴーンの仮面」は常に正面から描かれている。つまり見る者はそれと正面から向き合わねばならない。こうして怪物の顔を凝視した者は、視線で射すくめられ、自分自身から引き離され、そして自分自身の眼差しを奪われる。ゴルゴーンは異界の存在であり、その仮面はこの世の生を授かる者の顔ではないために、この仮面を見て眼差しを奪われ、命を危険に晒す者は、自己喪失の中で仮面が属する死の世界に近づき一体化する状態にあるのではないかと、ヴェルナンは考えた。ヴェルナンによればこの時、仮装行列中に体験するある種の憑依のような現象が生まれるという。「異界の力はあなたを捉え、あなたの顔つき、仕草、声などをまるごと模倣する」、つまり「顔に仮面がぴったりと重なる」。こうして「自分であるということがわからなくなる」と、異界の力と一体化することになるのだが、そこには同時に「激しい違和感」がある*1。ヴェルナンは、この違和感を、絶対的他者との一体化により消滅した自己、つまり「幽霊となったあなた自身」の鏡像を見る感覚に結び付けてもいる。
では、こちらを正面から捉える仮面が、絶対的な他者ではなく自分の顔の場合であればどうか。その例としてヴェルナンが取り上げる逸話の一つがナルキッソスである。水面に映った自己の姿に恋焦がれたこの美青年は、「私が私の体を所有しているので、私を抱くことはできない*2」と絶望する。鏡に映った自己は、幽霊や分身と同様に「客体化された主体の顔*3」であり、もはや自分自身ではない。結局、水面の反射を覗き込んで、そこに映る自らの姿と同一化するためには、「自分を失くし、自分を無にして」、「自分の内部から他者に」なるしかないのだと、ヴェルナンは言う*4。
ならば最初から仮面など脱いでしまえばよいし、水面や鏡や人の目といった、自己イメージを反射によって送り返してくる平面を覗き込まなければよい、と思う方もいるだろう。だが私たちは皆、既存の社会や文化の中で生を授かっている以上、多かれ少なかれ、生まれてまもなく必然的に何らかの仮面を被らされることになる、とは言えないだろうか。
こうした問いは、とりわけ20世紀の芸術家たちにとっての一つの課題となってきた。仮面を脱ぐことができないのなら、与えられた仮面を相対化するために、鏡の前で次々に仮面を入れ替えて、そのイメージをシリーズ化して人々に披露すればよい。メリットは仮面を選ぶ自由を手にすること。デメリットは自分が消滅する危険を引き受けること。
つづきは、単行本『掌の美術論』でごらんください。
身体を通して、世界に触れ、世界と戯れ、世界を模倣し、そして世界とずれていく。そのずれの中にこそ、芸術の可能性は宿っている。
2026年7月2日発売
松井裕美 著『掌の美術論――触覚と想像力に』
四六判上製・352頁 本体価格4000円(税込4400円)
ISBN:978-4-326-85207-9 →[書誌情報]
【内容紹介】遊びが手触りや感覚を頼りに新たなゲームや楽しさを創造し、ときに新しい認識や価値を開いていくように、触覚を軸にした鑑賞の方法を提示する。触覚に関わる美術史を整理したうえでフェミニズムや歴史・記憶と芸術作品の関係など、現代的な問題意識を織り込んだ作品解説を通し、触覚と想像力が拓く遊戯場としての美術史を紡ぎだす。
》》》バックナンバー ⇒《一覧》
第1回 緒言
第2回 自己言及的な手
第3回 自由な手
第4回 機械的な手と建設者の手
第5回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(前編)
第6回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(後編)
第7回 リーグルの美術論における対象との距離と触覚的平面
第8回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(前編)
第9回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(後編)
第10回 クールベの絵に触れる――グリーンバーグとフリードの手を媒介して
第11回 セザンヌの絵に触れる――ロバート・モリスを介して(前編)
第12回 セザンヌの絵に触れる――ロバート・モリスを介して(後編)
第13回 握れなかった手
第14回 嘘から懐疑へ――絵画術と化粧術のあわい
第15回 キュビスムの楽器の奏でかた、キュビスムの葡萄の味わいかた
第16回 おもちゃのユートピア——その理論と実践の系譜(前編)
第17回 おもちゃのユートピア——その理論と実践の系譜(中編)
第18回 おもちゃのユートピア——その理論と実践の系譜(後編)

