それならなぜクラウスはわらったの
あ、この人こんなふうに笑うんだ、と、ミニマリズムの彫刻家ロバート・モリス(第11回・第12回記事参照)についての1995年の解説映像『ロバート・モリス 心/身問題*1』に登場する、美術批評家ロザリンド・クラウスを見て思った。クラウスはこの映像の中で始終かしこまって教壇から解説するのだが、威圧的な教授たらんと装う最中、映像を投影するスクリーンとして使用していた、教壇に貼り付けられたボール紙が剥がれ落ちて、ふふっと笑ってしまう。フランス国立図書館の地下の、暗い映像資料閲覧室で、何度もこの動画を再生した。映像の中で、彼女の口から述べられる見解は、いかにも彼女が文章で書きそうな難解な内容ばかり。けれどそこに笑いが挿入されているなどとは、まったく予想していなかった。
解説映像全体は、モリスのパフォーマンスの記録映像と、パフォーマーによる再演、それらに応じたクラウスの分析という、オーソドックスな要素から構成されている。だがこの映像を他の解説映像と決定的に区別しているのは、そこに登場するクラウスとモリスが、それぞれ複数の人格を演じながら、異なる時間と空間を交差させるような、複雑な一つの作品を立ち上げようとしている点である*2。
この映像の中でモリスとクラウスが三つの役割を演じていることが、オープニングのクレジットで告げられる。それによればモリスは第一に「タスク・パフォーマー」であり、第二にアメリカのコミック『クレイジー・カット』に登場するネズミのキャラクター「イグナッツ」であり、第三に「一般観客」である。クラウスはといえば、第一に美術批評家、第二に「 ロズ・セラヴィ」、そして第三に「衒学的な教授」を演じているのだと、クレジットは告げる。モリスの演じる三重の役割も非常に興味深いのだが、ここで焦点を当てたいのはクラウスの役割の三重性である。
クラウスの第一の役割「美術批評家」は、彼女の現実の仕事そのものであり、まさにこの地位において彼女は、モリスの作品についての見解を述べる。第二の役割に与えられた名前は、マルセル・デュシャンが自らの女性の分身につけた名前「ローズ・セラヴィ」を「ロザリンド」風にしたものだ。本来なら美術批評家が論じるべき対象である芸術家デュシャンのパフォーマンスを、美術批評家であるクラウス自身がパロディ化し、デュシャン演じる分身ローズ・セラヴィのパントマイムをしている。そして第三の役割はモリスが1964年に行ったパフォーマンス《21.3》と関連している。このパフォーマンスにおいてモリスは、美術史家エルヴィン・パノフスキーの『イコノロジー研究』(1962年の改訂版)冒頭を読み上げる美術史家を演じている。《21.3》でモリス演じる美術史家がピッチャーの水をグラスに注いでから話すように、95年の解説映像のクラウスも、グラスに水を注いでから話しはじめる。モリスの64年のパフォーマンスでは、音声そのものはあらかじめ録音されたものであり、モリス演じる講演中のパノフスキーの声は、やがて機械の音声からずれていく。このためモリスの演技のフィクション性が暴き出され、モリスの身体は美術史家ではなく下手なパントマイムを繰り広げる道化師へと変容することになる。95年の解説映像では、クラウスは美術批評家としての彼女自身の言葉を発しているのだが、そのパフォーマンスにときおり含まれる、明らかに偽装された権威主義的な演技や、それに耐えかねた笑いは、モリスの64年のパフォーマンスにも通じる道化的な側面を帯びている。
真面目さの中に不真面目さが織り込まれ、偽りの演技の中に「本気」のステートメントが織り込まれる、そんな現在進行形の織物が、二人の人物の掛け合いの中から、あるいは記録映像と実物の人物たちの演技との掛け合いの中からどんなふうに完成していくのか、まるでライブ映像で見ているような感覚だった。遊びと仕事とのあいだ、虚構と現実とのあいだを隔てる境界線なんてお構いなしに、この織物は広がっていく。ただカメラに映る二人の身体は、織物を身に纏いさまざまな役割を与えられながらも、この織物に完全に隠されてしまうことはない。どんなところから誠実さが飛び出してくるのか、どんな声が切実な声なのか。見る者がそのことを見誤ることのないよう、モリスとクラウスはカメラに自らの肉体を晒し続け、そしてまたカメラは彼らの肉体の現実を捉え続ける。例えば、笑うクラウスの声や体の痙攣は、彼女の真実と嘘を見極める目印だ。彼女は権威主義の装いを盛った美術史家としての自己パロディ的演技の突然の破綻に思わず吹き出してしまい、意図せず誘発されたその笑いによって、嘘の演技を暴く。そのあと彼女が真顔に戻って語る言葉は、すべて彼女の頭の中にある、嘘偽りのない思考の表出である。
もちろん最初から美術批評家としてのみ映像に登場し、徹頭徹尾真面目に言葉を紡いでも、彼女の主張は十分誠実なものとして通っただろう。彼女の演技は真実をより真実に見せるための修辞的な効果を持つわけでは決してない。それでもこの演技と、それが誘発した笑いは、解説映像の中で極めて重要な作用を持つ。
本連載の最後を構成する3回の連続する記事の中で、私はクラウスがこぼした笑いへと、三つの異なる角度から近づいてみたい。本記事にあたる前編では、モリスの64年のパフォーマンスそのものが、演じられた「仕事」と切っても切り離せないものであったことに注目し、モリスにおいても95年の解説映像中のクラウスにおいても演技の中でこそ立ち現れる現実が独自の批評的な効果を持ち得ることを示す。ではなぜそうした批評的な効果が必要とされたのか。それは一つには、芸術が産業と複雑な関係を切り結んでおり、それを解きほぐすのに批評性が必要とされたからである。クラウスはそうした関係の複雑さを踏まえながら多くの著述をおこなってきた批評家だが、記事の中編では、彼女が各論で示す個別事例よりももっと大きな視点から近代美術史における産業の位置付けを概観することで、彼女の議論の背景にある複雑な歴史の見通しを少しだけ良くしておこうと思う。そのことでクラウスとモリスの映像が織り上げようとした「テクスト」に備わる歴史的な次元のベースが見えてくるはずだ。記事の後編では、彼女が歴史家の仕事と批評家としての自己とのあいだに見出そうとしていた隔たりにアプローチすることで、彼女の演技と笑いにできる限り近づいてみよう。それは本連載の、一つの「仕事」の区切りになるに違いない。なぜならそれは、私がかつて「芸術」に対して抱いていた素朴な賛美も、触知可能な「玩具」が引き起こすメランコリーも笑い飛ばしながら、そうした中でこそユートピアが立ち現れる可能性があることを示す試みにほかならないからである。
労働者の仮面をかぶる芸術家
ロバート・モリスは1964年に二つの仮面を被った。一つは《21.3》における美術史家パノフスキーの仮面、もう一つはジャドソン記念教会で上演したパフォーマンス《サイト》(図1)における肉体労働者の仮面である。
《サイト》でモリスは、白いタンクトップとジーンズといった肉体労働者の姿で登場する。手には作業用の手袋をはめ、頭部には、おのれの顔をかたどりした仮面(ジャスパー・ジョーンズの制作による)をつけている。モリスの前に設置された箱からは、工事現場のドリルの音が聞こえてくる。この舞台は、匿名の身体を獲得したモリスの作業場なのである。彼は、白く塗られた複数の巨大なベニア板(幅240m、高さ120cm)を持ち上げては慎重に移動させる。
やがて、一枚の白いベニア板の裏から、同じサイズの別のベニア板を背にして横たわった裸婦が登場する。裸婦を演じるのは、別のパフォーマンス・アーティストであるキャロリー・シュニーマンである。彼女は、顔と体を白粉で塗られ、首にチョーカーをつけ、つま先にサンダルを突っかけて、白いクッションとシーツに横たわる姿で登場する。この舞台設定は、明らかに、フランスの画家エドゥアール・マネが1863年に描いた《オランピア》(オルセー美術館)を喚起するためのものである。彼女の背景にある巨大なベニア板のサイズそのものは、舞台で使用されているほかの板と同様に、マネが描いた実際の作品のそれと大きくは異ならない。シュニーマンは《オランピア》の活人画のようにして、舞台に現れる。こうして工事現場であった舞台に、画家のアトリエのイメージが重ねられる。ただしモリス演じる画家は、画家が身を投じるべき創造的な行為には取り組んでいない。彼は相変わらず肉体労働者であり続けるのであり、完成された一枚の活人画を前にして、ただ白いカンヴァスを移動させることしかできない姿には、絵筆を持ってイメージを生み出す画家としての役割は与えられていない。彼が展示しているのは舞台における一つの場なのだが、いたるところ白色で埋め尽くされたこのタブローに登場する二人の無表情の人物は、どんなドラマも生み出しはしない。一人は黙々と筋肉を動かすことで、見るべきは労働の生産物ではなくそのプロセスのうちにある肉体そのものなのだと訴える。もう一人は訴えるべきメッセージ性を与えられることなく、黙って横たわる一枚の絵となる。肉体労働者と画家とを同時に演ずるモリスの仮面にも、またセックス・ワーカーと絵のモデルを同時に演じるシュニーマンの顔にも、何の喜びもない。それは演じられ、観衆の眼差しの前に展示された、労働者たちの身体の無感情なのである。
無表情を好む傾向は、モリスと同時期に前衛ダンス集団ジャドソン・ダンス・シアターで活動していた同時期のイヴォンヌ・レイナーのダンスにも共通するものである。踊る彼女の顔は動きへの集中以外の感情を排除するもので、怒りもエクスタシーといった既存の感情は存在しない。レイナーのダンスでは「パフォーマンス」が「タスク」へと置き換えられ、脱神話化された女性の動き、メロドラマを排除した人間のミニマルでドラマチックな動きが展開される(図2)*3。
モリスは《サイト》のパフォーマンスによって、労働者たちと連帯しようとしていた、というのが、よくある解釈である。曰く、工事現場で労働者が働くときのように、騒音を聞きながら骨と筋肉を動かしつつ、工事現場を画家のアトリエへと変容させ、工業的生産と芸術的創造という、本来は異なる二つの生産プロセスのうちにある肉体を、おのれの動きの中で交差させることが、彼の意図だった、というのだ。実際その後もモリスは、ジュリア・ブライアン=ウィルソンの言葉を借りれば「アートワーカーとして自分たちを再製造しようとする*4」一連の取り組みを続けることになる。このことを勘案すれば、《サイト》でモリスが労働者との連帯の意志を表明していたというのは、納得できる説明である。
だが現実の労働者との連帯を表明することだけが彼の意図であったなら、《サイト》は決定的な失敗でしかなかったと言わざるを得ない。仮面の存在は演技に過度なよそよそしさを導入する。労働者と「オランピア」とのあいだの没交渉的な関係も、舞台の非人間性を高めている。そのことで強調されるのは、演じられた役割と現実の肉体とのあいだの乖離である。たとえ舞台上のパフォーマンスで肉体労働者と芸術家の姿を重ね合わせて連帯を示したとしても、モリス自身の肉体はどこかそうした問題を超越したところにあるような印象を与え続けることになる。どこか超越したところをちらつかせながら連帯する振りをしている人と、何の疑念も挟まず真に手を取り合うことなど、できるはずがない。
役割とそれを演じる身体との乖離は、労働者の視点からだけでなく、「オランピア」演じるシュニーマンにとっても居心地の悪さを感じさせるものだったのであり、そのことはシュニーマンとモリスの真の意味での連帯を妨げもした。シュニーマンは《サイト》についての具体的なエピソードを公的に語ってはいないが、のちに出版された著作集『生肉の喜びにも増して』では、《サイト》で「オランピア」を演じた一場面の写真を掲載した頁において、「男性のアート・チームにおける女性器のマスコット*5」として扱われた過去を、怒りを込めて述懐している。モリスの側ではシュニーマンとの確執について証言を残している。2000年のインタビューでは、シュニーマンと「一緒には働いていない。彼女はただ《サイト》と題された私の作品で演じただけだ*6」と、共同作業の存在について否定している。「キネティック・シアター」と呼ぶ自身のパフォーマンスにおいては常に、「生産のあらゆる側面」にかかわりスタッフを「監督」することを好んだシュニーマンが、ただじっと動かず眼差しに体を晒し続けるだけの受動的な役割に不服を感じていたとしても、不思議はない*7。
モリスはなぜ彼自身として舞台の上で労働するのではなく、仮面をつけて労働者を演じる必要があったのか。それは、芸術家の労働を工業生産に携わる肉体労働者に近づけるだけでなく、工業生産に従事する労働者の働きを芸術家の創造的な働きに近づけることもまた、作品の意図としてあったからである。モリス扮する労働者の身体によそよそしさが表れていたのもこのためだ。モリスの目的とは、工業的な生産に関わる労働者の動きにも、芸術作品に値するようなパフォーマティヴな潜在性が秘められていると、示すことだった。そこではあくまでも、いまだ実現されていないもの、潜在的なものとしてのみ感じ取れる労働の可能性が求められているのである。その探究のためには、現実の労働者が置かれている構造をありのまま受け入れるのではなく、工業生産に従事する労働の意味も、既存の意味体系からずらす必要があった。このずれを生み出すためには、現実の産業的労働のプロセスから、「不純」なもの、つまり素材が生産物となったときに持つ価値や、それが産業的な市場へと流通する経路を切り離さなければならない。
この切り離しを可能にするのが真っ白な舞台であり、演者が被るよそよそしい仮面であったのである。舞台の外にある現実社会では、肉体労働者と芸術家は、異なる職種として分類されてしまう。現実社会において、そうした職種に紐づいたアイデンティティと、個々人の肉体とのあいだには、しばしば強固な結びつきがある。モリスは舞台装置と演出によって、この結びつきを切断し、労働者と芸術家とを隔てる従来の境界線を超越する力を自身のうちに取り戻そうとした。舞台に持ち込まれた明らかなフィクション性と、そこで強調された現実とのあいだの差異は、そのための諸刃の剣にほかならない。このフィクション性は、現実の労働者と手を取り合ってその存在に同一化するというかたちでの連帯の試みには失敗をもたらすものだが、同時に、労働への意識を変容させるよう人々に呼びかけ、互いに手を取り合えるように芸術家と労働者の双方の心身を「再製造する」というモリスの真の目的には、叶うものだったのである。
批評家のパフォーマンス
クラウスはこの点を1994年の論考で非常に明快に説明している。クラウスがモリスの芸術を説明するために理論的な典拠とするのが、言語哲学者として知られるルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインである。言葉の意味とは、それを使用する前に観念的に存在しているのではなく、むしろ言葉の使用行為のなかでこそ獲得されていくものであり、公的な場における言語活動のゲームに参与するような行為として考えるべきだとするヴィトゲンシュタインの主張を踏まえ、クラウスは、言葉だけでなく肉体そのものの意味もまた同様に、使用行為の中で作られ獲得されていくものであるとした。クラウスは、モリスも、レイナーをはじめとするジャドソンのダンサーたちも同様にして、本来はプライベートなものであるはずの身体の動きを公的な場に置き直し、その行為のなかで身体に意味を付与したり、身体から意味を奪ったりするプロセスを実演するものなのだと考えた*8。
1995年の解説映像に登場するクラウスは、自らもまた、言葉と肉体を使用するこのゲームへの参加者であることを表明している。彼女は映像の冒頭で、自分がいくつかの仮面を被っているのだと明かすことによって、自らの身体を批評家という仕事のうちに閉じ込めることを一旦拒否する。彼女はまず、モリスを前にして「衒学的な教授」として登場する。モリスはこの教授に対し反論も肯定もすることなく、「一般観客」を演じる。ただそれが演じられた態度でしかないことは、冒頭のクレジットだけでなく、途中で発せられる笑いや、彼女がロズ・セラヴィとして幾度か変身する度に、明らかにされる。仮面をかぶっているのだとあえて見せることで、クラウスはモリスが64年のパフォーマンスで試みた、既存のアイデンティティからの身体の解放の作業を、反復しているのである。彼女が発する言葉も、彼女の身体の態度も、フィクションとして設営された虚構の舞台上の演技の一部であり、遊戯場として立ち現れた場の戯れの一部であることが、見る者にそれとわかるように示されるのだ。モリスの過去のパフォーマンスにおける言葉や身振りも、クラウスが現在展開する言葉や身振りも、すべてが戯れであり、そしてこの戯れからこそ、批評的な意味が生まれるのだと、彼女は自らのパフォーマンスそのものによって示そうとしているのである。
こうして彼女が映像の中で発する言葉は、活字としてすでに発表されてきたテキストの中の言葉とは別種のパフォーマティヴな性質を帯びることになる。聴衆席に座るモリスは、実際には実制作者としていつでも反論する準備ができているようにも見え、制作者と解説者との間の緊張した空気が、何度かカメラが捉えた空間を支配する。例えばある時モリスは、クラウスに、「あなたは私が言っていることを疑っているのですか」と話しかける。それに対しクラウスはこう答える。「私の疑いはヴィトゲンシュタインのシステムからくるものです」。
疑いは全方位に投げられるのだから、自分自身の批評家としての言葉にもまたおよぶ。映像の中でクラウスは、ローズ・セラヴィを演じながら数々のレディメイドを手がけるデュシャンのように、偽造された「作者」のアイデンティティを身に纏って現れる。映像中の彼女の言葉には、既存の彼女の論文からの引用が含まれている。ということは映像の中で発せられる言葉は公的な場で流通している「既製品」なのであり、クラウスはそれを遊び部屋における玩具のようにして映像中の演出に用いる。批評家として彼女が発する言葉すら、「衒学的な教授」や「ロズ・セラヴィ」を演じる際の彼女のわざとらしい仕草と同様に、疑わしいものとなる。とはいえそれは、彼女の言葉がすべて「嘘」であるとか無意味なものであると暴き立てるためのものでもない。むしろ言葉のやり取りから批評的な意味と真実が発生するプロセス、そしてその構造を、彼女は解説の場として偽装された仮設舞台で、示そうとしているのである。疑わしさによって暴露される演劇的な空間のフィクション性は、彼女の言語ゲームから意味が生成されるそのプロセスを提示するような、ある種の実験場としての遊戯場に不可欠のものであった。
彼女はこうして、作品を分析するという本来の批評家の役割から自らの肉体をずらしながら、この新しい遊びの中でこそ批評の言葉が持つパフォーマティヴな効果を確かめようとしているかのようである。モリスの作品やモリス自身の作者性に意味を付与したり、そこから意味を剥奪したりする批評のプロセスそのものを、この特殊な遊び場で試みることで、クラウスは、批評行為そのものを変容させようとしているのだ。批評はもはや、作品や作者の意図をわかりやすく正確に解説する目的など持たない。それは作品や作者といった批評の対象だけでなく、批評的言語そのものと戯れる行為なのであり、またそうした戯れを可能にする特殊な仮設舞台を構築する行為でもある。解説映像として偽装されたこの撮影企画は、クラウスにとって、自らの批評家としての言葉を玩具にしながら、そのことによって批評家としての仕事に対してすら、いわばメタ批評的な姿勢を貫き、その変容を楽しむことができるような、格好の遊び場であったに違いない。プロジェクションのスクリーンにしていたボール紙が剥がれ落ちるという不測の事態を前にして思わず込み上げた映像中の彼女の笑いには、そんな戯れの喜びが表れているように思えてならないのだ。
注
*1 Teri Wehn-Damisch et Rosalind Krauss, Robert Morris : le problème âme/corps, film présenté au Centre Georges Pompidou, 1995. スクリプトについては次を参照のこと。Rosalind Krauss and Teri When Damisch, “Script of the Film Robert Morris: The Mind-Body Problem, ” in Katia Schneller and Noura Wedell, Investigations: The Expanded Field of Writing in the Works of Robert Morris, Lyon, ENS Editions, 2015 [https://doi.org/10.4000/books.enseditions.3847].
*2 この構成はクラウスのみならず監督のテリ・ウェン=ダミッシュとモリスの三者の対話のなかから生まれたものだった。Cf. Wehn Damisch, Teri, « From Text to Screen », Investigations: The Expanded Field of Writing in the Works of Robert Morris, in Katia Schneller and Noura Wedell, 2015 [https://doi.org/10.4000/books.enseditions.3845].
*3 Cf. Yvonne Rainer, “A Quasi Survey of Some “Minimalist” Tendencies in the Quantitatively Minimal Dance Activity Midst the Plethora or an Analysis of Trio A,” in Battcock, Minimal Art , reprinted in Yvonne Rainer, Work 1961-73, New York, Primary Information, 2020, pp. 63-69. 既存の感情の排除はレイナーと、彼女にダンスを教えたマース・カニングハムを隔てる特徴であると考えられる。Elise Archias, The Concrete Body. Yvonne Rainer, Carolee Schneemann, Vito Acconci, New Haven and London, Yale University Press, 2016, p. 42-45.
*4 Julia Bryan-Wilson, “Robert Morris’s Art Strike,” in Art Workers: Radical Practice in the Vietnam War Era, Berkely, University of California Press, 2009, p. 92. 次の邦訳を参考に訳出しなおした。ジュリア・ブライアン=ウィルソン『アートワーカーズ 制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践』高橋沙也葉・長谷川新・松本理沙・武澤里映訳、フィルムアート社、2024年、153頁。
*5 Carolee Schneemann, Bruce R. McPherson (ed.), More than Meat Joy: Performance Works and Selected Writings, New York, McPherson and Co., 1997 (2nd edition), p. 196.
*6 Robert Morris, “Labyrinth II,” 10 January 2000, in Robert Morris. From Mnemosyne to Clio: The Mirror to the Labyrinth (1998-1999-2000) , Lyon, Musée d’Art contemporain, 2000, p. 198
*7 Schneemann, More than Meat Joy, p. 194-196.
*8 Rosalind Krauss, “The Mind/Body Problem: Robert Morris in Series,” in The Mind/Body Problem, exh. cat., New York, Solomon R. Guggenheim Museum, 1994, reprinted in Julia Bryan-Wilson (ed.), Robert Morris, Cambridge and London, The MIT Press, 2013, p. 77.
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第1回 緒言
第2回 自己言及的な手
第3回 自由な手
第4回 機械的な手と建設者の手
第5回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(前編)
第6回 時代の眼と美術史家の手――美術史家における触覚の系譜(後編)
第7回 リーグルの美術論における対象との距離と触覚的平面
第8回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(前編)
第9回 美術史におけるさまざまな触覚論と、ドゥルーズによるその創造的受容(後編)
第10回 クールベの絵に触れる――グリーンバーグとフリードの手を媒介して
第11回 セザンヌの絵に触れる――ロバート・モリスを介して(前編)
第12回 セザンヌの絵に触れる――ロバート・モリスを介して(後編)
第13回 握れなかった手
第14回 嘘から懐疑へ――絵画術と化粧術のあわい
第15回 キュビスムの楽器の奏でかた、キュビスムの葡萄の味わいかた
第16回 おもちゃのユートピア——その理論と実践の系譜(前編)
第17回 おもちゃのユートピア——その理論と実践の系譜(中編)
第18回 おもちゃのユートピア——その理論と実践の系譜(後編)
第19回 顔に触れる――彼女たちの仮面を介して(前編)
第20回 顔に触れる――彼女たちの仮面を介して(中編)
第21回 顔に触れる――彼女たちの仮面を介して(後編)